③『20or25年間の変容と不変』が入り混じる最高の一夜

 週も明け、早くもあのライブから5日が経とうとしている。

 皮肉にも大木氏が壇上で述べていた「この(ライブの)興奮も喜びも、一瞬の事なんですよ。またすぐに日常の辛い事、苦しい事に埋もれてしまう」という言葉を噛みしめるような艱難が続いてしまい、ついキーボードから手が離れていた。

 あの時は『そんなことない。感動はずっと続く』と何の根拠もなしに否定していたが、月曜日にはあっさりと仕事のトラブルに頭が埋没していった……というか、今日とて疲れだ何だで決して快調というわけではない。

 だが、たとえ単なる自己満足であれこのレポートを途中で投げ出してしまうのは、あれだけの素晴らしい舞台を拝ませてくれた3人に対してあまりに不義理というものだ。

 というわけで……どうでもいい前置きが長くなってしまったが、今回を以て最終回。

 『ベテランバンドの周年ライブ』というものが持つ意味について掘り下げていこうと思う。


 ──とはいえ、仰々しいお題目に反して主張とその内容は至極シンプルだ。

 あの新旧・メジャーマニアック全てを織り交ぜて構成されたライブで、ACIDMANの3人は『時間と共に変わりゆくものと、時間を経ても変わらないもの。そのどちらも素晴らしく愛すべきものである』という真理を体現してくれた。

 彼らと共に歩んだ時間が長ければ長い程、その感動が多く伝わって素晴らしかった。それだけの話だ。

 なんだ『自分は昔からこのバンド追ってましたよアピールか』と、ともすれば古参気取りの自慢にも聞こえるだろう。

 そこは申し訳ない。

 だがやはりこのライブは節目を迎えるにあたって大きな点を穿つためのものだ。

 そこにはACIDMAN彼ら観客私達が共に歩んだ時間の長さがどうしても、決して浅からぬ意味合いを持ってしまう。


 例えば『最後の国』からシームレスに続いた『to live』。

 このナンバーは10年前、同じように節目を祝うものとして行われたアニバーサリーライブでリニューアルされてお披露目となった1曲だ。

 デビュー直前のデモテープ第3弾から10年の時を経て、より磨きがかかった彼らがリビルドした音を、筆者はさいたまスーパーアリーナで浴びた。

 あのマサイ族のPV(と、ドラム一悟氏が死ぬほど辱めを受けた話)をバックに「同じ曲でもここまで変わるのか!」と背筋がゾクゾクしたのをよく覚えている。

 これまたエラそうな物言いだが、耳に飛び込んでくる音色には確かな『成長』と『勢い』が感じられた。


 そこから、更に10年。

 今度はオープニングからの盛り上がりを担う事になり、あの日と同じPVをバックに力強く放たれた音。しかしそこへ帯びていたのは『成長』ではなく『円熟』であり、そして『勢い』ではなく『貫禄』だった。

 バンドにとって、もちろんひとりの人間にとっても、10年、20年という時の流れはあまりに大きい。一見緩やかに見える大河が岸を削り取っていくように、無意識にその形を変えていくには充分な長さだ。

 そんな深みが出て来る年数と場数を踏んだ彼らの醸す貫禄は、もはや色気と呼んでいい程蠱惑的に、『to live』という曲の持つ魅力を更に昇華させていく。

 特に「全霊を以て生きる事、そしてその果てに待つ死をある種、淡白に、ただ泰然と受け止める」この歌詞は20年前、10年前、そして5日前と時を経て聞くほどに、メロディの疾走感とは対極にあるを増していく。

 それは何故か──至極単純な事だ。


 奏でる彼らにも、そして聴いている我々にも『時間』というものが分け隔てなくだ。

 『to live』を初めて耳にしたときよりも、さいたまスーパーアリーナで跳んでいたときよりも、5日前のZepp HanedaにいたACIDMANやオーディエンス、そして自分の方がより命の終わりに近い。こうしてレポートを書いている、あるいは読んでくれているこの一瞬一瞬の間にも、死は確実に迫ってきている。

 だからこそ25年を迎えた彼らに


 『儚い夢と共に 死ね』


 という一節を叩きつけられた我々は、過ぎし日よりもさらに鋭く心を抉られたように息を詰まらせる。

 音圧と迫力による、幸福な窒息感とでも呼ぶべきか。

 この狂おしい感覚がどれほど鮮烈かは、聴く者が送る人生の中でどれだけ『to live』というナンバー、ひいてはACIDMAN と共に過ごしていたかに比例する。

 洋酒が樽の中で熟成していくように……というと気障に過ぎるかも知れない。

 だが彼らを知り、この曲初めて耳にした日から今日この瞬間まで──それが長ければ長いほどに、時の流れとそれにともなう『変化』が生み出す深みをより楽しめるのだ。

 一日千秋の思いで待ったライブが始まった、腕を振り上げる中でその高揚と共にひしひしと覚える『ああ、彼らと歩んできて良かった』という思い。

 その確信を抱かせてくれるこの『to live』まさしく、アニバーサリーのアタマを司るにふさわしい1曲だった。


 ……ならば古参でなければ醍醐味を味わえないかといえば、無論そんなことはない。

 たとえあのライブからACIDMANにのめり込んだとて、むしろこれからずっとファンでいさえすれば、いずれその変遷を体験出来るとと考えれば、楽しみがより残っている分羨ましくすらある。

 あるいはこのライブの記憶が薄れない内──そう、明日にでも──に昔のアルバムを手に取って、同じタイトルの曲を聴いてその変化を逆の視点未来から楽しむのも大いに有意義だし、それは我々古参のファンには出来ない楽しみ方だ。追いかけることとはまた別種の、振り返ることならではの負けず劣らずの感動が待っていることは想像に難くない。


 そして更に、時間が問題とはならない最大の根拠がある。

 舞台上の彼らが最初からガンガンにエネルギーを燃やしていること、そして歌詞とそれを書き上げた大木氏が必死にこちらへ伝えようとしているものは、時を経ても何も変わらない。

 だからいつ、どこで、どのように彼らと最初の接近遭遇を果たしたとしても、そこに込められている感動の質は同じものとなる。


『人はいつか必ず死んでしまうものだから、この一瞬を、この一秒を何よりも大切なものにしよう。愛おしく抱きしめよう』

 

 最後のMCで、はじめはただ「格好良くありたい」「モテたい(会場苦笑)」というありふれた動機で音楽を始めたと、大木氏は照れ隠すように笑っていた。

 そんな初期衝動を経た先で開眼した彼らの世界観は、ACIDMAN気難しいひとたちは、大木氏は、時に遠大過ぎて難解だと揶揄された事もある。

 だがそんな歌作りの中でもその実、この単純なメッセージを愚直なまでに繰り返しているだけだったのだ。

 個人的にはそれが何よりも強く、分かりやすく打ち出されているナンバーこそ『季節の灯』だと思っているし、だからこそあのライブのちょうど真ん中にこの曲が据えられていたとも考えている……偶然かも知れないけれど。

 筆者は会場でこの曲を聴いた時、変遷を楽しめた『to live』との、面白いほどの対比構造の妙に唸らされた。

 そいつは当然、激しいロックアンセムと静かなバラードだから……という曲調だけの話には収まらない。

 先ほど極端な例に出したような「このライブでACIDMANにハマった」新たなファンが後日『and world』に収録されている同曲を聴いたなら、少なくとも『to live』よりはずっと原型に近い、控えめなアレンジであると感じられるはずだ。

 これはあくまで個人的な考えに過ぎないあるが、このナンバーが不変であるのはそれこそ、彼らの伝えたいメッセージの原形に近いからなのではないだろうか?

 水面に顔を出す、苔むした不動の石。その不変たる様を眺めた時に感じるのもまた、『時間の流れの重み』である。

 この2曲を、あるいはその新旧をそれぞれを聴き比べ、そこに彼らの普遍性……ブレなさを感じる事が出来たなら、彼らの世界観にその心がグッと接近している証拠になる。

 

 絶えず前進し、変容を続け、しかし根底にある『伝えたいこと』は決して見失わず

 だからこそACIDMANの曲はいくら時を経たところで『熟成』はすれど『古臭く』はならないのだ、と思う。

 そんな彼らがまたこの先の10年、20年と見せてくれる景色はどれほど美しいものなのだろう。そんな未来への期待を存分に掻き立ててくれるような素晴らしい船出となる1日となった。


 何分情動に任せて書き殴ったせいで、非常に個人的な主観が多くかつ何とも読みづらい文章になってしまった。

 にもかかわらずここまで読んでくれたファンの同志に最大の感謝を込めつつ、いよいよ来月に控えた『SAITAMA ROCK FESTIVAL “SAI” 2022』の成功を切に祈って、このレポートの締めとさせていただきたい。

 また現地で会いましょう!ありがとうACIDMAN。

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ACIDMAN LIVE TOUR『This is ACIDMAN 2022』@Zepp Haneda 現地あまりに良かったので突発でレポ書いてみた 三ケ日 桐生 @kiryumikkabi

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