不幸の花束を抱えて、来世で君に会いに行こう

二兎

不幸の花束を抱えて、来世で君に会いに行こう

 ……改めて思えば、この世界は初めから狂っていた。立ち並ぶ灰色のビル。安っぽいプラスチックの並木道。毎日同じ形のプレートに、同じ量のブロックが並んでいるだけの食事。

 何よりおかしかったのは、それを誰も気にも留めなかったこと。こんな味気ない生活の中で、彼らはその生活を本当に”幸福”だと思っていたようだ。……以前の僕を含めて。

「今月で三人目かぁ。しかし、幸福剤に抗体ができて効かなくなるだなんて気の毒なもんだね」

「……」

 どうやら、この国では”幸福”でないそぶりを見せることは許されていないらしい。

 僕が”幸福”を感じていないことがバレてから、この怪しげな車に乗せられるまでは驚くほどにスムーズだった。

「あの……僕の家族は」

「?幸福剤が効かなくなったのは君の家の中では君だけだよ」

 キョトンとする男。

「……そうじゃなくて」

「こんなのおかしくないかって言ってるんです。ちょっと人より幸せじゃないだけで、急に連れて行かれて。捜索願だって出るはずです」

「君のお家にも手紙は出してあるし、そこらへんは大丈夫だよ。なに、家族が一人減ったところで気にはしないよ。何せ彼らは”幸福”なんだから」

「……イカれてる」

「マジョリティは僕たちの方さ」

「そんなことよりもっとするべき質問があるだろう?僕はどこへ運ばれるんですかとか、これからの生活はどうなるんですかとか」

「……もう話す気すら失せました」

「それは気まずいなぁ。まあ構わないけど」

 彼と話せば話すほど、今まで気に留めてもいなかった世界の歪みがどれほどのものだったのかを痛いほど実感した。酸っぱい臭いが体の奥からせりあがる。僕は耐えかねてそれを床にこぼしてしまった。

「あぁ。またそれだ。来る人来る人全員やるから対処には慣れてる、大丈夫だよ」

「けど、皆やり方を教えてくれないんだよね。どうやるの?コツとかある?」

「……おすすめしませんよ。辛いので」

「僕はたぶん辛くないからやってみたいんだけどなぁ……」

「さ、楽しい雑談の間に着いたよ」

「……どこが」

「君はそうでもなかったみたいだね。申し訳ない」

 やけに長くて気分の悪いドライブの末に連れられたのは、山の奥に建つこれまた味気ないデザインの建物だった。

「ここが君の新しい家だ。歓迎するよ」

「ご丁寧にどうも」

「ここは、君みたいに幸福剤が効かなくなった人や、もともと幸福剤が効かない体質の赤ちゃんが生活する場所だよ」

「赤ん坊まで、こんな山奥に閉じ込められるんですね。ただ、”幸福”でないというだけの理由で」

 僕のように変な気を起こす者はそれなりにいたのだろう、”幸福”な割にはえらく武装した彼にそれでも飛び掛かりたくなるのを必死で抑えながら言葉を選ぶ。

「”幸福”じゃないっていうのは、それだけでこのご時世では大事件さ」

「君たちみたいに”幸福”じゃない人間を”幸福”で善良な大衆の皆さんに見せるわけにはいかないんだよね。”幸福”な世界に必要なのはその世界に住む一人一人が”幸福”であることだと思わないかい?」

「それがわかっていて、こんなことができるんですか」

 我慢の限界だ。怒りを抑えきれず言葉を荒げた。

「そこがミソだよ。ただ”幸福”な世界を作りたいだけなら、”幸福”でない人間はこんな山の奥だとしても存在する理由がない」

「大丈夫。僕らは君を見捨てたくてここに連れてきたわけじゃない」

「ただ臭いものにふたをしたいだけなら、イレギュラーは手早く処分すればいいだけだしね」

「あなた、いったいどこまで……!」

「まぁまぁ落ち着いて。これから本題に入るんだから」

「幸福剤は今までの人類の発明で最も素晴らしいものだと言ってもいい。でもその効果は完全じゃないから、君みたいに”幸福”じゃない人間が現れる」

「だから」

「君達には、礎になってもらう」

「……は?」

「どうせこれからの人生このままじゃアンハッピーなんだから、これから生まれるアンハッピーな人の数を減らすのに協力してほしいってこと」

「ありていに言えば人体実験だね。あぁ、でも心配しないで。ウチの研究所の科学力はすごいんだ。わざと痛くしたり、辛くしたりすることはないよ。試作だから副作用はそりゃあるかもしれないけど、普通の病院で摂取できる幸福剤よりずっと強いのが打てる。そこでもし君が”幸福”に戻れたら、君は幸せで万々歳。僕たちも新しい幸福剤の効果が確認できてwin-winだ。効かなかったり、副作用が分かったりしてよくないことが起こったら……まぁ、同情はするよ」

 そのとき、僕の中で何かが切れた。これから一生モルモットになるくらいなら、ここで逆らって死んだほうがましだ。

「うあああ──!」

「まぁ、そうなるよね。なんでかはわかんないけどみんなそうだ。……とにかく、貴重なサンプルに死なれてしまっては困る」

「このゴツい鉄砲はね」

「君みたいな人が乱暴しそうになった時用ではあるんだけど、処分するためのものじゃないんだ」

 そう言って彼は銃口を僕の方に構える。彼が引き金を引くと同時に腹に鋭い痛みが走り、意識は途切れた。



 ──そこからの生活は、およそ人間のそれと呼べるものではなかった。トイレと居住スペースが同じ空間に存在する、内側から鍵が開かないガラス張りの部屋。一日に数度キッチリ同じ時間に運ばれてくる注射。それが対照実験のための偽薬なのかも、試作段階の副作用もなにも分かったものではない幸福剤なのかも、味気ないブロックの食事の代わりに置き換わった栄養剤なのかもわからない。腕に「お前は人間じゃない」と囁く烙印が日に日に増えていく。自分の体の中に何があるのかわからない生活の中で、自分の体が誰のものなのか、もうすっかりわからなくなってしまった。何より、こんな地獄を理性を保ったまま過ごしていることが苦痛でならない。周りの部屋から聞こえてくるうめき声を聞くたびに、彼らのように自分も自分であることを手放せたら、と思う日々が何か月も続いた。

(──全部、終わらせてしまおう)

 ”幸福”な人々の手によって作られたその施設のセキュリティは脱走することは不可能までも、日に数十分の自由時間に屋上に辿り着いて自由落下を試みるには十分に思えた。侵されていく脳にわずかに残された理性の存在する領域で、必死に自分が死ぬためだけの算段を整える。



(──ここまで、長かった)

(ああ、やっと終わる。自分の不幸から逃れることができる)

(さようなら、何もかもモノクロの、僕以外にとってはバラ色の世界。もし生まれ変わりがあるのなら、”幸福”な人間に生まれられますように──)

「ねぇ君、ちょっと待ちたまえよ」

 しまった。これまで組み上げてきた計画がパーにされてしまう。これで麻酔でも打たれたらまたあの不幸な生活に逆戻りだ。何とか屋上から身を乗り出そうとすると──

「おっと早まるな。私は君をあの牢獄に連れ戻しに来たわけじゃない」

 その予想外の一言に振り返ると、予想に反して武装していない、丸腰の人間が立っていた。研究者だろうか、白衣を着ている。

「どうせ死ぬ命なんだ。私のために役に立ってから死んでくれないか」

「……でまかせのネタバラシが早いですね。貴女も僕を使って実験するつもりなんですか」

「違う違う。むしろ逆さ」

「この狂った”幸福”な世界を、私と一緒にひっくり返したくないか?」



 そうして連れられたのは、隠し扉の奥にあるカビ臭い実験室だった。

「ずいぶんとセンスがある部屋ですね。どこに行っても変わらない真っ白な内装の味気ない部屋に比べれば」

「君とは波長が合うようで助かるよ。それくらいのほうがこれからの計画もやりやすい」

「それはどうも」

 どうもつかみどころのない人物だ。計画とやらが何なのかも、なんでわざわざ飛び降り寸前の僕を引き留めてその計画に入れたがっているのかもわからない。

 そんなことを考えているうちに、頭の中に湧いてきた一つの疑問。

「……僕がここにさらわれているのは施設の人にはバレていないんですか?」

「さらうだなんて人聞きが悪いな。それに、檻の中の生活が嫌で飛び降りまで計画していたのに律儀な質問だね」

「その心配はいらないよ。私はこの施設ではちょっと偉い人なんだ」

「君の住んでいるエリアの担当を現時刻をもって私にした。監視カメラなんかもモーマンタイ。管制室では今頃変わらずに退屈そうな顔をする君が映っているはずさ」

「貴女こそ、真剣に苦しんでいたところを退屈呼ばわりとはずいぶんな言いようですね。それで……そんなに偉い人が、どうして世界をひっくり返すなんて言い出すんですか」

「まぁ、その辺はちょっとだけ訳アリでね。気が向いたら話す、で構わないかい?」

「……」

「円滑なコミュニケーションのためだ。沈黙はイエスということにさせてもらうよ」

「どうして私がこんなことを計画しているかより、私の計画に君が協力してくれるかの方が私にとっては重要だ。手短に説明するから返答をくれるかい?ああ、今回ばかりは沈黙はナシで頼むよ。大事な話だからね」

「要点だけ話そう。私は幸福剤の弱点とこの”幸福”な世界の終わらせ方を知っている、そのためには君の命が必要だからそれが欲しい、けれどそのために君を実験動物のように扱うつもりはない」

「別に気を遣う必要はないよ。もしも君がまたあの檻の中の生活に戻って”幸福”な世界のための名誉ある礎になりたいと思っていたり、君の人生に何の意味も見いだせず無駄に死にたいというのならそれはそれで私は構わない」

「さぁ、どうしたい?」

(なんなんだこの施設、裏切り者にもイカれた人しかいないのか……)

 とはいえ、提案自体は僕にとって魅力的なものだった。

(狂った”幸福”に包まれた世界を、僕の命で少しでもマシにできるなら……!)

「やります。やらせてください」

「よく言った!正直ひやひやしたよ。君ほど幸福剤に耐性のある人間は初めてだ、今後いつお目にかかれるかもわからない」

「よろしく。歓迎するよ、同士」

 そう言って手を差し伸べる(暫定)協力者。

「単なる利害の一致です」

「つれないなぁ」



「そもそも、幸福剤が何をする薬なのかは知ってるかい?」

「いえ……」

「だろうね。公開してないし」

「……」

 いちおう、今のところ頼れる人はこの人以外にいないのだ。怒りのあまりつかみかかりそうになる気持ちを必死で抑える。

「あの薬の効果は、一般的には不安の緩和と向精神作用とされている」

「だけど、それは全くのウソ。そもそもそんなものを誰も彼もに定期的に投与したら何らかの悪影響が出るのは、精神疾患分野における創薬の歴史が示している。大分昔の日本ではそんな薬が薬局で買えていた時代もあったにはあったが……当然長くは続かなかった。アレはね、本当はもっと恐ろしい、それでいて社会が一度それに包まれたらだれもその恐ろしさに気づけなくなる薬なんだ」

「あの薬は、不幸な記憶を頭の奥の方に閉じ込めてしまう」

「抑圧される記憶というのを……たぶん知らないかな。この”幸福”な世界ではすっかり忘れられてしまった言葉だからね」

 そう言って彼女は備え付けてあったホワイトボードに何やら図を描き始めた。

「人は余りに辛い出来事を経験すると、その記憶を記憶の奥底に仕舞い込んでしまう……という仮説だ」

「そして、幸福剤はこの”記憶の抑圧”を作為的に引き起こす。家族や友人の不幸のような重大なものから、財布を落としたことや公衆トイレの紙が足りなくて途方に暮れた記憶といった小さなものまでね。そう言った不幸な記憶をすべて奥底に押し込めて、適当な記憶で穴埋めをするんだ」

「不幸に感じるのは、不幸な記憶が存在するからだ……そう思ったんだろうね。あの薬が完成してから爆発的に普及するのに時間はかからなかった。そもそもアレは副作用だったというのに……すまない、こっちの話だ」

「とにかく、それが幸福剤の機能の核」

「かつ、幸福剤の弱点であり私たちが付け入ることができる隙だ」

「抑圧されるなら、負けないくらい強いトラウマを植え付けてやればいい。例えば目の前で飛び降り自殺してやる、とかね」

「トラウマが植え付けられて……どうなるんです?」

「私は、全ての人の”幸福”の魔法が解けると考えている。君が死んで、それが起こったとしたら……君はその続きを見られないが、あとは私の仕事だ。幸福剤の投与を拒否するムーブメントが起こるよう扇動する。とはいってももちろん実際に可能なのかはわからない。結局のところ天命に任せるしかないね」

「そんな肝心なところで運頼みな……」

「うまくいくとは限らないが、これ以上にうまくいきそうな作戦がないのもまた事実だ。あぁ、不安だからって別の作戦を考える必要はないよ。少なくとも君よりはずっと幸福剤に詳しい。これ以上有効な策が君から出てくるとは思っていないし、別に君を作戦参謀のつもりで誘拐したわけでもない」

「……」

「おっと、気を悪くしないでくれ。まともな人間とのコミュニケーションは随分久しぶりでね」

 意識はしていなかった。だがそのワードは、今の僕にはとてつもない地雷だったようだ。

「……まともってなんだよ」

 悪いのは彼女ではない。むしろ彼女は僕に少しでもまともな死に方をさせようとしている。立場でいえば味方であるはずの人間に当たり散らかしても仕方がない。そう頭ではわかりつつも、溢れた言葉を止めることはできない。

「俺だけに幸福剤が効かないなら、俺の方が異常ってことでしょ!だいたい、貴女だって口では調子のいいこと言いながら、自分も幸福剤を打ってるんじゃないんですか!?」

「誰があんなものを!」

 予想外の剣幕。あまりの迫力に、続いて溢れようとした言葉はせき止められてしまった。

 数年が経ったようにすら感じられた長い静寂の後、彼女ははっとした様子で。

「すまない……取り乱してしまった」

「そもそも、私が幸福剤を打っているわけがないだろう?幸福剤を世界から滅ぼしたいと思っているくらいなんだから」

「そう、ですね……配慮に欠けていました」

「まぁ、気持ちはわからないでもない。私も想像力が足りなかったよ」

「それじゃあ、とりあえず今日必要な説明は以上だ。決行は幸福剤認可15周年記念で行われるセレモニーの日。おそらくその日がこの狂った世界で、最も多くの人が同じ場所に集まるイベントだ。私も特設ステージの簡易図を見てみたが……よっぽど盛大に祝いたいんだろうね、ステージから観客席までは人が死ぬには十分な高さだ」

「とはいってもつい先日見たばかりでね。どうやってそんなところに侵入して、目立ちながら君に死んでもらうかについてはこれから考えることにする。それまでは、君の点滴をすべて栄養剤か偽薬に差し替えて、毎晩消灯後に作戦会議兼……そうだな。不幸について語り合える人間同士の楽しい雑談でもしよう」

「随分と余裕があるんですね。こんな施設で余裕綽綽雑談とは」

「まぁ、私はこの施設ではちょっと偉い人だからね。それじゃあ、忌々しい君のおうちに案内するよ。……あと数週間の檻暮らし、どうにか耐え抜いてくれ」



 そこからは、終わりの見えないモルモット生活よりはずっとマシな日々が続いた。いつ幸福剤の試作を打たれるかわからない不安からは解放されたし、何よりも彼女との雑談は存外に楽しく、今まで受けた苦痛の慰めになった。



「……君は、生まれ変わりを信じるかい?」

「死のうとしたときに少し意識したことはありましたけど……そんなに深く考えたことはありませんね」

「まぁでも、あるとしたらたまったもんじゃありませんね」

「……ちょっと君の考えることがわかるようになってきた気がするぞ、当ててやろうか」

「じゃあせーのでいきましょう。せーの」

「「またこんな境遇に生まれようもんなら、たまったもんじゃない!」」

「ビンゴ!まさか本当に当たるとは」

「こんなくだらない話続けて、バレても知りませんよ」

「大丈夫さ。だって私は……」

「「この施設だと、ちょっと偉い人なんだ」」

 どうにもおかしくて、苦笑がこぼれる。

「ふふ……やりかえされてやんの」

「うるさいぞ、モルモットのくせに!」

「……」

「おっと、これは禁句だったかな。ついはしゃぎすぎてしまった、申し訳ない」

「……いえ」

「モルモットはモルモットでも、随分マシなモルモットとして死ねそうでよかったなって、思っただけです」

 すると、彼女はあっけにとられた様子のあと、少し照れ臭そうに。

「君がそういう感謝をもう少しまともに伝えられるほどコミュニケーションが上手かったら、これまでの作戦会議ももっと円滑だったろうね」

「はは、間違いないや」



 そんなくだらない話をして、一日を終える。地獄みたいな第二の人生の中で一番マシだと思えたその日々は、いよいよ最後の日を迎えた。

「さぁ、せっかくだ、気が向いた……バディは信頼が第一だ。話しておこうと思う」

「私には、随分と慕っていた兄がいたんだ」

「いろいろと複雑な家庭でね、兄は私にとって親も同然だった」

「私たちを好ましく思わない親戚の家で、それでも兄は私に居場所を作ってくれた」

「けどね」

「この世界は、善人が報われるようにはできていないんだ」

「彼は、私が7歳の時に死んだ。病気でね」

「当時だって治らない病気じゃなかった。ただ……兄だけではそれを賄えなかったし、親戚にはそれをどうにかできるだけの投資をする理由がなかった」

 彼女の声は震えていた。

「最期にさ……兄は、なんて言ってたと思う?」

「”俺がいなくても笑って生きてくれ”……だってさ。もうすぐ自分が死ぬっていうのに、変だと思わないか」

「けど、兄のいない世界で私は笑えなかった」

「そこからは勉強、受験、研究の日々だった。何とか頼れるものを全部頼って勉強したっけなぁ……辛くはなかったさ、私を見守ってくれている兄に笑顔を見せるためだと思えば」

「けれど、それは結局叶わなかった。残ったのは”辛いことは、受け止めて前に進むしかない”という当たり前の結論と……私の人生の汚点、幸福剤だけだった」

「私はアレを失敗作だと思って、気にも留めなかった。けれど……私の所属していたラボの仲間の一人が、彼の名義で論文を出した」

「そこからはあっという間さ。彼は有能だった。倫理的な観点によるバッシングなんかも全て実績で黙らせ、それはあっという間に広がった。そうして今の世界ができた」

「まあ……それだけの話だ。最後の最後、君にはすべてを知ったうえで、私を正しく憎んでもらった上で、死んでほしくてね」

 僕はその言葉に怒りが隠せなかった。

「誰が憎むもんか」

「……え?」

「誰が憎むもんか、貴女は何も間違っていない!あなたは、不幸を受け止めて進むことを選べた。自分の弱さから逃げなかった!」

「だから、やめてくださいよ。……貴女がそんな後悔してるって知ったら、……ちょっと、死ににくいじゃないですか」

「続きは、貴女が創るんでしょう」

「僕はあっちで楽しみにしてますよ。もしかしたら生まれ変わってしまうかもしれないけど、それでもまぁ……楽しみです。貴女が変えていく世界は、今よりずっとマシになるって信じてますから」

「……そうか」

「本当に、頼もしいバディだ。これならこれからの世界も大丈夫だろう」

「僕はそれを……少なくともすぐには見られませんけどね」

「……そうだな」



「旧時代には、人々は多くの悲しみを通り過ぎました。それらはおそらく語るにも凄惨で、繰り返すべきではないものです」

「しかし、我々はそれらを思い出すことすらありません。それはなぜか!」

「我々が幸福であるからにほかならない!」

「みなさま、我々に幸福をもたらした世紀の発明!幸福剤の誕生!その節目を、ともに祝いましょう!」

 盛大な歓声が上がる。

「他人の褌で教祖様気取りとは、随分いい気なもんですね」

「まったくだ。……あと10秒で決行だ。準備はいいか?」

「……はい」

 心の中で深呼吸を済ませる。ほどなくして、会場のすべての電気が消えた。

 ざわめきは起こらなかった。”幸福”な脳みそは、いま起こった出来事を演目の一つとでも処理したのだろうか。

「今だ!」

「はい!」

 演説を行っていた男を渡された麻酔で眠らせ、暗がりの中で彼が使っていたマイクの位置を確認する。

「ここです!」

「よし」

 彼女がマイクの前に陣取ったのを合図に、会場の電気が戻る。

「諸君!幸福剤は悪魔の発明である!そして、作ったのは私だ!」

 ようやく会場が事態が異常であることを理解したようだ。まばらにざわめきが起こる。

「諸君らは今の自分をさぞ幸福だと思っていることだろう」

「だが、それは違う」

「諸君らは、苦痛を封じ込められて生きている」

「人が最も学ぶべきものである、苦痛をだ!苦痛とは、過ちを繰り返さないように与えられる教えの名だというのにもかかわらず!」

「そして、彼は諸君らの抱えるべき苦痛の代表だ!」

 そう言って僕の方を指した。

「諸君らは、彼をはじめとした幸福剤に効果を示さなかった人々の人体実験によって、偽りの”幸福”を得ている。人を人とも扱わぬ、狂った実験でだ!」

(手筈通りだ……!)

 この後に、合図によって飛び降りる。そうして僕の不幸は終わり、……人々は不幸を取り戻し、新しい時代が幕を開けるのだろう。

「だから、私は諸君らに不幸を、苦痛を与える」

「この私の命をもって!」

「……は?」

 そうして彼女はマイクを切り、こちらを振り返った。

「いやいや、台本間違えてますって。冗談きついですよ。……ね?」

「本気だ」

「いろいろ考えたんだが……人の命を材料にして私が私の罪を身勝手に清算したところで、きっと……兄は向こうで笑ってはくれない」

「それに……」

 彼女の顔が数センチの距離まで迫る。唇に触れた、柔らかな感覚。

「……情が移ってしまったようだ。ふざけてるよな。私はとことんまで君を、多くの人を、追い詰めて不幸にした元凶なのに。……人を愛する資格など、ないはずなのに」

「あれ、おかしいな……こんなに無機質な街にも、花粉は飛んでるんだな」

「……涙が、止まらないや」

「まぁ、そういうことだ。……じゃあね。君なら大丈夫。この世界をきっとマシにできる」

「幸せにな。あんなイカれた薬の力以外の方法で」

 ありがとう。さよなら。

 最期は聞き取れなかったが、そう言った気がした。彼女の体が後ろに傾く。その瞬間、時間が止まったような気さえした。

 気が付けば、僕は彼女より先に飛び出していた。

「おい、どういうことだ!?二人とも死んだら、これからの世界は……!」

「僕がクッションになります」

 地面に辿り着くまでの間で、必死に叫ぶ。

「やっぱり、貴女が生きないとダメだ」

「貴女の抱えるべき不幸から、こんなところで逃げるな」

「貴女が未来を創るんだ!創るべきだ!そうしたら。そうしたら……」

「生まれ変わるでもなんでもして、また会いに行きますから」

「だから……頼みまし

 時間切れだ。全身の骨が一瞬でダメになるのを感じる。肺の中の空気という空気が強引に叩き出される。そこで僕の意識は一瞬途切れた。



 ほどなくして目が覚めた。痛みは感じなかったが、アドレナリンのせいだろう。背中に流れる暖かい感触が、僕に残された時間を突き付けている。たぶん、僕が人生で見る最後の景色だ。その中に味気ないビル群はない。バカみたいに青い空と、泣きながら僕に縋る彼女の姿。

(きっと、……うまくやってくださいよ。絶対に、何とかして、心からの笑顔のあなたに会いに行きますから)

(にしても……いいのかなぁ)

(一時は”世界で最も不幸だ”くらいに思ってたけど……好きな人に看取られながら死ねるなんて、とんだ大逆転ホームランだな)

(やっぱり……不幸も、悪くないもんだ)

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