さよならの魔法

高黄森哉

『さよなら』

 自分は人とお別れするとき、さよなら、ということにしている。中学のお終いに、最後の最後、後は下校するだけの終幕に、友が帰ると言い出した。まだ、時間はあるのに、と思ったし、率直にそう言ったと思う。だが、「行く」、と頑ななので、自分は、お別れに、さよなら、を充てた。それは、離別には不適切で、まるで、永遠に会えないかのような印象を含んでいるのだが、自分はそう言わざるを得なかった。それが、何ゆえか、その日、その時には不明であった。ただ、そういう、気持ちにさせられたのだ。


 完全な脱線だが、人と別れる前になると、生活の後ろに『粉雪』が再生されていることが多い。これは、春、別れの季節を前にして、冬を代表する曲を聞きたくなるからに違いない。しかし、そうでなくても、『粉雪』は別れを知らせてくれる。例えば、夏の終わり、キャンプファイヤーの前で歌ったのは『粉雪』だった。そして、やはりというべきか、その年の秋に転校をしている。もはや、自分にとっては呪いの歌だ(笑)。聞くと、寂しくなる。


 まあ、そんなことはどうでもよくて、自分が、さよなら、を言うことにしているのは、なぜなのか、という疑問を考えよう。それはきっと、経験則で、一度離れた運命の道が交わることの、少ないことを、知っているからだ。実際、自分から離れていった人生の登場人物たちが、再び眼の前に現れたことは、一度とてなかった。ネットは広いというなれど、検索にかけようが、彼らの現状は引っかからなかった。

 さよならと言わないと、むしろ不適切に思う。さよならと言わないと、状況にそぐわないし、気が済まない。自分に嘘をついている気分になる。そうだ、これだ(!) またいつか、と発言すると、明確に自分に嘘をついているのである。だから、嫌な気持ちにさせられる。これが、さよならと、発言したがる真相だった。


 ここまでは、自己流の個人的通説であるのだが、もう一つ、仮説を抱えている。それは、患っている、という文字を充てるほうが意に尽くせる、病的な仮説である。密かに、だが、明白に自分はそれを、ひしひしと感じて、生きてきたのだ。もう、ここまで、思いつめると、仮説と言うより、告白なのかもしれない。我ながら、冷静さや理論性を失ってるとしか思えない、ことを今から書く。

 それは、さよならの暗示にかかっている、というものだ。またいつか、と言って、その言葉が嘘になること、これを許さず、さよなら、と発言してから、吐いた言葉を本当にしようとするのではないか。ほら、自分は律儀だから(ここで笑いが起こる)。

 物語に妙な信仰心がある。虚構の理論。やっぱり、さよならと言って、また会う、ことがないと、それはお話として綺麗である。だから、この方程式を、真実だとしようとする、無意識が心の奥底に残っているのかもしれない。バッタもんの公式に騙されることによって、現実の秩序性が肯定されたように錯覚でき、そして、こころの安定が保てるという、からくりだ。


 狂気だ。シュールレアリスム的だ。ないものを、あるとするのは、正気じゃない。現実は無秩序かつ理不尽、不公平だというのが自分の理性で、真っ向から挑戦するのは、さよならの暗示。さよならの理論に、従ってたまるものか(!!)。虚構に呑まれてたまるものか。だから、であるから、願うのだろう、いや、願わずにはいられない。今まで出会い別れた現実の人々へ、言えなかった言葉を、今さらながら残さずにはいられない。



 またいつか、会う日まで。

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さよならの魔法 高黄森哉 @kamikawa2001

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