第11話 息子の死、家族でやり直す

 貞夫は交通事故に遭い、あの世に旅立つこととなった。翠と顔を合わせてから、わずか三カ月後の出来事だった。


 昨日まではふんぞり返っていた姿はもうなかった。二つの瞼を閉じて、永遠の眠りについている。


 遺体となった男からは、哀愁が漂っていた。威勢を張っていたものの、心の支えとなる人物を必要としていたのかな。貞夫はいつも一人で、誰かと一緒にいることはなかった。傲慢すぎる性格ゆえに、近づこうとするクラスメイトは皆無だった。


 長男の葬儀は身内だけで済ませることにした。世間から同情の目を浴びるのは絶対に避けたい。世間の前で我が家の息子はあの世に旅立ちました、と発信するようなことはしたくない。


 翠は息子の葬儀に顔を見せた。離婚しているとはいえ、息子の最後を見届けようとしたのだろう。変わり果ててしまった姿に、大粒の涙を流していた。出ていけといわれたにもかかわらず、母親としての愛情を完全には捨てていなかったのを感じさせた。


 祐樹もやってきた。こちらはいたぶられたいたこともあって、遺体となった兄を直視しようとはしなかった。葬儀のときくらいは向き合ってほしかったけど、一〇代の少年には厳しかったようだ。葬儀に参加しただけで、よしとしようかな。


 沙代里も祖母として参加し、変わり果ててしまった姿に涙を流していた。本気で透明な粒を流しているところを見ると、孫を大事に思っていたのを感じさせた。


 翠、沙代里の二人は言葉を交わすことはなかった。元妻から近づかないようにしたのか、母から距離を取ったのか。裕としてはどちらも該当しているように思えた。


 翠から一週間限定で、こちらに住みたいと話をされた。息子を失ったショックを軽減するため、特別措置のようだ。息子の死後に、一人ぼっちにされると孤独でおかしくなりかねないので、一緒に生活してくれる存在はとってもありがたい。


 写真を破られたことをどう思っているのかな。聞き出してはみたいけど、パンドラの箱を開けるようで怖かった。自分の写真をビリビリに破られたことを、プラスに感じる人間は地上にいない。


 臨時的にやってきた女性は精力的に家事に取り組んでいた。交際時よりもてきぱきと動いていたので、別人なのかなと思えた。


 家事だけでなく、仕事にもきっちりとこなしている。祐樹を養うために、朝の9時から夜の6時まで勤務する。残業で夜遅くなることもあり、懸命に働いているのを感じさせた。


 シングルマザーを経験した女性は、ワンランク、ツーランクも大きく見えた。逆境と向き合ったことで、大きな成長を遂げている。裕と住まいを構えていたときの、面影は見られなかった。


 一時的なものという可能性も考えられる。人間は一週間くらいなら、自分に嘘をついたとしても生きられないことはない。時間の経過とともに、インターネットに没頭する生活に戻る可能性は大いにある。


 翠は夕食を作り終えたあと、裕を元々使用していた部屋に案内する。結婚してからほとんどなかっただけに、どうしたのかなと思った。


 翠は小さな手提げカバンから、長方形の封筒を取り出した。


「役所からこれをもらってきました」


 裕は一枚の紙切れを見て、体内の血流の流れは完全ストップしそうになった。それもそのはず、翠に見せられたのは婚姻届だった。


「私の人生をもう一度だけ、あなたに捧げてみようかなと思います。再び夫婦としてやっていきましょう」


 直哉のことを断ち切って、新しい道を歩もうとしている。彼女にとっては一大決心といえる。


「翠、いいのか」


「そんなことをいっていると、女性の心は変わってしまいますよ。やり直すつもりがあるのなら、早く署名して捺印しましょうね」


 裕は婚姻届けを受け取ると、ボールペン、印鑑を取りに行く。やり直せる機会を与えられたことで、テンションは昂っていた。


 裕は自室で婚姻届けに自筆したのち、印鑑を丁寧に押した。一度目よりも手が震えてしまったのか、印鑑の位置はずれてしまうこととなった。重要な書類だけに、きっちりとしたい思いは強かった。


 翠は婚姻届けに名前を書いたあと、丁寧に捺印していた。「名字」を婚姻する前で書いていることから、一度は離婚したのを大いに実感させられた。


「翠、どうしてやり直そうと思ったんだ」


「裕ともう一度生活をしてもいいかなと思ったからかな。それ以外の理由はないよ」


 数年ぶりに名前を呼ばれた。心が離れてからは「あなた」ばかりで、本名を避けていた。


 翠の心を動かしたのは、息子だったのかもしれない。彼女一人だったなら、完全に縁は切れていた。


 再婚することになった女性は、以前よりも厳しい目つきをしていた。母親としての風格が現れていた。


「酒、煙草の量を減らすように。以前のままだったら、別れるからね」


 ひとり身でなくなるのはありがたいけど、制約を課される生活を送るのもセットか。前者だけ取れれば、どれだけいいことか。メリットに必ずといっていいほどデメリットがついてくる、人間の世界を変えられるといいな。


「男のたしなみくらい許してくれてもいいじゃないか」


 翠は首をはっきりと横に振った。


「いいえ。二週間前の異変は放置できるレベルじゃない。酒、煙草を減らさなかったら、大病にかかっても不思議はない。離婚ではなく、死別することになるよ」


 女性は見ていないようできっちりと見ているんだな。観察眼をなめてかかると、痛い目に遭いかねない。


 男のたしなみを制限されるのは勘弁してほしい。貞夫と二人になってから、酒、煙草を楽しみに生きてきた。これなくしてはとてもやっていけなかった。


「祐樹のためにも生きてもらわなければならない。あの子にとっての父親は、世界で一人しかいないでしょう」


 祐樹のためか。そのようにいわれると、こちらとしては言い返すのは難しい。酒、アルコールに依存する生活から脱却する決意を固めた。


「完全にやめるのは厳しいと思うので、酒、煙草についてはこちらで支給する。分量を守るようにしてね」


 翠はどれくらいのアルコール、煙草を支給するのか。以前よりも減らされるのだけは確実といえる。


 翠は自分のお腹をさすっていた。裕は何を意図しているのかは、よくわからなかった。


「もう一人くらい子供を産もうと思っている。一人ではちょっと心細いもの」


 貞夫を失ったことで、不安に駆られたのかな。二人以上作っておくと、万が一のための保険になる。


 翠の再婚は出産するための布石なのかな。子供を誕生させたあと、用済み人形さながらに、捨てるのはやめてほしいところ。


「裕、これからはよろしくね」


「も」ではなく「は」を用いるあたりが、二人の距離感を示している。今日になって初めて、心のピーズをつなげたかのようだ。


 翠の差し出した手を、裕は勢いよく掴んだ。


「裕、少し落ち着きなさい。高校時代、結婚したあとと違って、すぐに離れていったりはしないよ」


 翠はすっと身体を寄せてきた。二〇年近くの付き合いで、初めて感じた彼女の体温はどんなものよりも温かく感じられた。


「失われた一五年だったけど、貴重な財産になったことも事実。裕には感謝しているよ」


 ゆっくりと身体は離れた。胸には柔らかい温かさを残していた。


 翠は太陽さながらにまぶしい笑顔を見せる。実物は写真よりもずっと奇麗だった。


 裕はこれまでと異なる一面を見たことで、本音をポロリと漏らしてしまうこととなった。


「翠にもかわいいところがあるんだな」


 翠は当然のことながら、顔をおおいにしかめていた。


「どういう意味かな。私に対して失礼じゃない」


 すねたところも可愛い。人間は好きという感情を持つと、全てのことをよく見てしまう生き物なのかもしれない。


「翠の笑顔の写真を見たとき、初めて心をくすぶられた。こんな素敵な笑顔を作れるんだって思った」


「裕、ひどいことを連発しているよ。私は魅力の欠片もない女性みたいじゃない」


「ごめん。高校時代、結婚生活のときは不貞腐れていたから、ぶっきらぼうに映ったんだ」


「裕は心をちっとも開いてくれないんだもの。不機嫌になるのは当たり前でしょう」


 直哉にいつ心変わりするのかわからない、女性と楽しく過ごすのは難しい。純愛を捧げていれば、展開は大きく変わっていた。


 一度離婚した女性と、このような生活を送ることになろうとは考えもしなかった。二〇年近くのときを経て、ようやく前に進みつつある。


 祐樹はタンスの中を開いた。


「おにいちゃんの服を着てみたい」


 あんなにいじられていたのに、貞夫を大切に思っている祐樹。こんなにも優しい男の子が生まれて、本当によかったと思う。宝物には10年後、20年後も輝き続けてほしい。


 翠は服を見つめている息子に、優しい視線を送っていた。家事にまったく見向きもせず、インターネットにのめり込んでいたときとは、別人さながらである。シングルマザーを経験したことで、人として強くなっているのを感じた。


 裕は冷蔵庫から酒を取り出そうとする。昨日までとは異なり、注意されることとなった。


「お酒は禁止といったでしょう」


「そんなこといわないでくれよ・・・・・・」


 翠ははにかんだ笑顔を見せる。心を開いているからか、キラキラと輝いていた。


「今日だけは特別に飲ませてあげる」


 裕は「だけ」の部分に、戦慄をおぼえた。明日からは本気で禁酒させられるのを、肌身で感じた。 


 貞夫の死もあったものの、家庭は正常な形を取り戻そうとしている。翠、祐樹と立派に生き抜いていくところを天国で温かく見守ってくれるといいな。

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