第10話 突然の再会
玄関のベルがピンポンとなった。貞夫に対応させるとトラブルになりかねないので、裕は腰を上げることにした。家事、息子からのとんでもない発言で疲弊していたものの、自分でやらないといけないことに、さらなる疲れを感じた。
玄関の扉を開けると、思いもよらない人物が立っていた。
「こんにちは」
祐樹はあとからやってくるのかなと思ったけど、一向に現れる気配を見せなかった。今回はどういうわけか、一人でやってきたようだ。
一瞬で構わないので、息子の健全な顔を見せてほしかった。元気に過ごしているところを見られるだけで、どんなに安心できることか。廃れた生活を送っている中で、数少ない楽しみといえる。
翠は髪をバッサリと切っていた。肺のあたりまで伸びていた黒くて細い物質は、肩にかかるくらいというところまで短くしていた。
床には届いたばかりの写真の破片が散らばっている。当人に見せたら、激怒どころではすまない。何としても隠し通さねばならなかった。
翠はこちらとして一番避けたい展開に話をもっていった。高校時代から狂った歯車は、依然として噛み合わないままだ。
「二人の映っている写真を回収するためにやってきました。こちらに返していただけますか」
裕には言いを訳する猶予すら与えられなかった。アイスクリームをしゃぶっている、貞夫が横槍を入れた。
「祐樹と一緒に映っている写真は、とうちゃんからの命令で粉々にしてやった。愛情の欠片すらない女の顔は見たくないみたい」
貞夫は欠片になってしまった写真を指差す。翠は見るも無残に散ったにもかかわらず、表情一つ変えることすらなかった。感情を殺しているというより、どうでもいいと思っているのかな。心の中では心置きなく、祐樹の子育てに専念できると考えているかもしれない。
翠は脱ごうとしていた靴を履きなおしていた。写真は返ってこないとわかったことで、ひと手間をかける必要はなくなってしまった。
「あなたの答えはわかりました。顔すら見たくないようですから、私はもう現れないようにします」
写真を粉々にしてしまったことへの弁明を思いつかない。どのように話したとしても、心証を悪くするだけだ。
高校時代から笑わなかった女性の輝くような瞳。これまでは見つめようとしなかったものの、近づきたいと考えるようになってからは直視したいと思えた。
貞夫はここにおいても、余計な一言を口にした。
「裏切り者はとっとと帰れ。二度とやってくるんじゃない。とうちゃんは酒を飲むと、毎回のようにそういっていたぞ」
翠の感情に変化はなく、貞夫からの言葉を気にするそぶりを見せなかった。追い風を受けたことで、堂々と帰ってもよいと思っているのかな。
翠はこれまでと変わらず、淡々とした口調で話をする。離婚してからというもの、ロボットさながらの人間になってしまっている。
「祐樹の面倒を見るために、私は帰らせていただきます。あの子は母親を必要としています」
貞夫の方を見つめていた。あなたなんてもういらないと、目力で訴えかけているかのようだった。
裕は口元に手を当てて、三回ほど咳をする。これまではなかっただけに、どうしたのだろうか。煙草、酒に溺れたことによる身体的ダメージは無視できないところまできているのかな。
翠はむせこんでいる男がどのような生活をしていたのかを、きっちりと見抜いるかのようだった。医師さながらに、酒、煙草をやめる重要性を説いた。普段ならスルーするけど、身体に異変を感じているとあっては真剣に耳を傾けるしかなかった。
酒、煙草の有害性を一分ほど話したのち、裕に優しい言葉を投げかけた。交際当時からほとんどなかった女性の姿だった。
「酒、煙草で身体を壊さないようにしてください。あなたのことを必要としてくれる人のためにも、人生を大切にしましょうね」
貞夫にろくでもないことをいわれていただけに、胸にこみあげてくるものがあった。お世辞であったとしても、温かい声をかけたことに感謝したい。
翠との復縁は叶わなかったとしても、息子を大事に思ってくれる存在を知らせたい。裕は届いたばかりの手紙を差し出す。
「祐樹にこれを渡してほしい」
翠は差出人を見ると、納得したように数回頷いていた。伊藤理沙のことを知っていると思われる反応だった。
「伊藤理沙ちゃんからの手紙はきっちりと渡します。祐樹のクラスメイトで、毎年のようにチョコレートをもらっていた間柄です」
裕はチョコレートをもらっていたという話を耳にしたことはない。息子にいかに無関心であったのかを思い知らされた。
心の奥底にある感情を、元妻に完璧に読まれていた。伊達に一緒に生活していたわけではなかった。
「あなたは昔から、子供たちと心の会話をしようとしませんでした。表面上の付き合いで済ませていたのをよく覚えています」
翠も同じようなレベルではなかったのか。貞夫、祐樹と家庭内で話しているところはほとんど見たことはない。インターネットに没頭し、現実世界と向き合うことすらしていなかった。
「私のときも同じです。うわべばかりの付き合いで、本心をさらけ出したことは一度もありませんでした」
翠と一緒にいたときは、表面上の付き合いに終始していた。愛情のない交際、結婚だったので、本心をさらけ出さないよう気を付けた。一瞬で距離を取られる展開だけは避けたかった。
翠は手紙を自分のもののように、大切に見つめていた。理沙という女性は、祐樹にとってかけがえのない人物なのかなと思えた。
「祐樹はきっと喜ぶでしょう。理沙ちゃんと会えるといいなといっていました」
お互いに大切に思っているのか。裕は一度も届かなかった世界に、息子は手を伸ばそうとしている。
翠は大切そうに手紙を持っているにもかかわらず、瞳に陰りが見られた。直哉と交際できなかった自分と比較しているのかもしれない。
「祐樹には心を通わせている異性と一緒になってもらいたいと思います。私の二の舞は避けなくてはなりません」
大切に思っていた人と結ばれなかったことによって、翠の人生は大きく変わってしまった。直哉と結婚していたら、好転していたのかな。
翠は家庭内で宛先人に見せるつもりなのか、手紙を開封することはなかった。母親としての配慮を感じ取った。
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