第9話 手紙
郵便物を回収するためにポストに向かった。仕事、家事に追われており、金曜日から一度も取り出していなかった。
最近はポストの中身を取り出すのは、三日に一回くらいのペース。重要な書類はほとんど投函されないため、これくらいの頻度でいいかなと思うようになった。
新聞は投函されていない。滅多に目を通さないため、契約解除することにした。ニュース、インターネットで代用できるため、読まなかったとしても問題にならないはずだ。
ポストの中には住民税、固定資産税、ガス代のお知らせなどが入っていた。企業は金銭を請求することは絶対に忘れない。他のことは緩慢であったとしても、ここだけは完璧な仕事をこなす。自分たちのプラスになることは、命を懸けてもやり遂げる。
地方ゆえに不動産の案内は滅多に投函されない。人口数百人しかいない地域に配るよりも、都会で配布したほうが手っ取り早く数を稼げる。時間、効率を考えた場合、地方というのはあまり適していない。
固定資産税は田舎ゆえにおそろしいほど安く、年間で一万円にも満たない。都会であったなら、一カ月当たり一〇万円はくだらない広大な面積の土地を所持しており、田舎の相場は二束三文であることを示している。
ガス代は横ばいだった。季節によって変動はあるものの、2倍、3倍に膨れ上がることはない。
滅多にこない手紙が三件も入っていることに気づいた。一件は母親である沙代里、もう一件は地区内からだった。差出人の名前は伊藤理沙と書かれているので女性だと思われる。
伊藤理沙の宛先人の名前は祐樹となっていた。新しい住所を知らないので、こちらに送ってきたものと思われる。
裕は全身の毛が抜けるのではないかというくらいの衝撃を受けた。翠からの手紙も含まれているではないか。3年以上も連絡をよこさなかっただけに、予想していなかった。
翠は住所を記していないことから、返信はしなくてもよいといっている。こちらからもメッセージを発信したいと思っていただけに、残念な展開である。
裕は固定資産税、ガス代、住民税のお知らせをテーブルの上に置いた。こちらについてはあとでゆっくりと確認することにしよう。
3つ届いた手紙の中から、沙代里から届いたものを最初に開封することにした。大したことも書かれていないので、最初に処理する。残りの二つの手紙をじっくりと読める環境を作りたい。
「裕、しっかりとやっているかい。一人で子供を育てるのは大変だろうけど、立派に育てあげてちょうだい。私は何もできないけど、陰ながらに応援しているよ。貞夫の様子はどことなくおかしくなっている。心のケアをするのは難しいだろうけど、親としてフォローしてあげてね」
ありきたりなことばかりで、重要なことは何も記されていない。裕は全文を読み終えると、くしゃくしゃに丸めて一メートル先に置いてあるゴミ箱に投げ捨てた。
送っているほうは励ましているつもりなのだろうけど、受け取った側からするとあまりありがたみを感じない。応援のメッセージよりではなく、どうやったら現状を打破できるかの知恵を伝授してほしい。
紙切れは運の悪いことにゴミ箱の縁に当たってしまい、起き上がって捨てる羽目になってしまった。
「あー、面倒くさ。こんなものを送ってくるなよ」
貞夫の最低な話を聞かされたからか、むしゃくしゃしていた。母親からの手紙をビリビリに破って、ゴミ箱に収める。胸の中にたまっていた悪玉菌は、ほんの少しだけ緩和したように感じた。
伊藤理沙という女性は何者なのだろうか。裕は名前を訊いたことすらない。
手紙を開けようとすると、宛先人もしくは一緒に住んでいる者以外は開封厳禁と書かれていた。関係者以外には開けられたくない手紙なのであれば、当人に渡したいところ。
父親と住みたいといったのは、理沙と会うためだったのかな。祐樹にとってかけがえのない女性だったのかもしれない。
翠からの手紙を開ける。中には一枚だけ写真が入っており、幸せそうに暮らしている親子の映像を映し出していた。
文通ではなく写真を送ったのは、「私たちは幸せです。あなたたちはどうですか」というのを伝えようとしている。沙代里みたいに長ったらしい文章を書くより、何百倍も説得力を伴っている。
息子の幸福を願っていたはずなのに、一枚の写真を見せつけられたことで、心の中でパリンという音がなったように感じられた。自分の生活とは天と地ほどの開きが生じてしまっている。
息子の幸せそうな笑みよりも、元妻の歯にかんだ笑顔が心に響いた。三〇を超えたにもかかわらず、高校生時代よりもかわいいと思えてしまった。
結婚して一〇年以上たってから、翠のことを女性として魅力的に感じた。初恋の女性がちっぽけに思えるほどだった。長期間にわたって一緒にいたのに、プラスの一面に気づくことすらできなかった。
翠の良さを発見しなかった、自分の愚かさを嘆かずにはいられなかった。癒しを与えてくれるなら、一緒に生活したい。
悲壮感に包まれていると、貞夫がこちらにやってきた。
「とうちゃん、腹減ったからアイスクリームをもらうよ」
冷蔵庫、冷凍庫の中身を熟知しているのか、一直線にそちらに向かっていった。自分で食べようかなと思って、こっそりとアイスクリームを購入していた。
貞夫はバニラアイスクリームを2つ手に取っていた。こいつの辞書に、「遠慮」の2文字はないのか。冷凍庫に残っていた、アイスクリームの全てを自分のものにするのは普通では考えられない。常識を持っている人間なら一つを取り、もう一つは誰かのために取っておく。
「とうちゃん、何を見ているの」
咄嗟に隠そうとしたものの、貞夫の二つの黒目は逃さなかった。
「家を勝手に出ていった女の写真じゃないか。にっくき弟も映っている」
貞夫は力で奪い取ると、二人の映っている写真を粉々に破り捨てていく。日常の鬱憤を晴らすかのように、力をたっぷりと込めていた。
永久的に修復できないよう、何度も何度も破っていた。裕が母親の手紙を破っていたのを、そっくりそのまま再現したかのようだ。
貞夫は役目を終えると、清々しい表情をしていた。他人の物を破り捨てた直後とはとても思えなかった。
「あー、すっきりした。生意気な弟の写真を破るって最高だぜ」
かけらを拾い集めようと思ったものの、一ミリサイズになってしまっていた。ピーズを完全に集めきるのを断念した。
裕は写真を木っ端みじんに破り捨てた、息子を威嚇する。
「貞夫、何てことをするんだ」
貞夫は反省する様子を見せなかった。
「家を出ていった女の顔なんか見たくないといっていたじゃないか。とうちゃんの心を代弁してやったんだから感謝しろよ」
昨日までの自分なら、写真を粉々にしたと思う。愛情もないのに近づいてきて、虫けら同然の息子だけを残していった罪は許しがたい。翠さえ告白してこなければ、人生は好転していた。
写真は跡形もなく粉々になってしまったものの、手紙については手つかずのままだった。祐樹の将来を考えるとこれだけは守らなくてはならなかった。大きな分岐点になりそうな予感がひしめいていた。
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