第8話 地に堕ちる

 祐樹が母親の元に戻ってから、一年の月日が過ぎようとしていた。


 翠からの連絡は一度たりともない。血の繋がった息子と生活しているので、夫婦でなかったとしても定期的な連絡を入れてほしい。祐樹のたった一人の父親として、どのように生活をしているのか気になってしょうがない。祐樹に溢れんばかりの愛情を注いでいるようなので、虐待を加えることはないとは思うけど、万が一のことも起こらないとは限らない。


 新しい男性と交際を開始させ、問題となった出来事がふと脳裏の中で蘇った。翠はシングルマザーで息子を育てているのかな。新しい男を作って、揉め事になってなければいいけど。


 裕にとっての最大の特効薬は、息子のはじけんばかりの声。一言、元気だよと耳にするだけで、どれだけ安心できるか。離婚した男とのやり取りはしたくないだろうけど、それくらいは許してもらえないかな。自分の稼ぎがあったからこそ、身体を成長させられたのはれっきとした事実。翠も専業主婦としてやっていたかもしれないけど、稼ぎ頭の存在なしでは生きられなかった。恩をちょっとくらいは返してくれてもいいじゃないか。


 祐樹からの電話は一度たりともかかってこなかった。翠からストップをかけられているのか、本人の意思でやり取りをしていないのかはわからない。裕の中では前者10、後者0の割合だと思っている。息子から通話を避けているとは、一ミリたりとも考えたくなかった。一緒に生活していなかったとしても、大切に思っていてくれると信じている。


 父親のスマートフォンの番号を知らないゆえに、電話をしたくともできない状況にあるのかもしれない。裕の実家に住んでいたときは携帯を持たせていなかったため、通話する機会は訪れなかった。電話番号を覚えていないのは自然といえる。


 翠も訊かれない限りは、自分から教えようとはしないと思う。反対の立場であったなら、極力伝えたくはない。


 万が一に備えて、息子にスマートフォンを持たせていたことを知らなかったのは痛恨といえる。情報を事前にキャッチしていたら、電話番号を聞き出すことも可能だった。無知であったために、有効な一手を打つことはできなかった。


 祐樹のことを考えていても、ここに戻ってくるわけではない。それをわかっていたとしても、息子のことを考えてしまう。未練がましい男だと思われるだろうけど、コミュニケーションを取る希望を捨てられていない。


 息子と友達の遊んでいるシーンが走馬灯のように蘇ることとなった。1カ月に1~2度くらいは、クラスメイトと楽しいときを過ごしていた。


 転校してからも様子を確認しにやってくることもある。クラスメイトから大事にされる人柄を備えていたと思われる。

 

 翠はお腹を痛めて出産した、長男のことは気にかけないのかな。一緒に生活していたときから、会話する場面はなかったとはいえ、子供であることに変わりはない。二人と接する態度はあまりにも違いすぎやしないか。


 裕はこの部分については責めるつもりはない。貞夫の父親でなかったら、まともに相手にしようとは思わない。たまに近づいたかと思うと、おこづかい、食事、お菓子の催促をするだけ。裕を利用するための道具と勘違いしている。息子だからかわいいと思えるけど、赤の他人だったら殴りつけていた。 


 祐樹に対しての扱いもこのレベルだったのかな。もっとひどいレベルであった可能性すらある。嫌になって逃げだしたくなる心理は充分にわかる。


 父親としていじめを止められなかった以上、責任を果たしたとは言い難い。そっぽ向かれたとしても、息子を避難できる状況ではない。


 気分転換をするために、一人でゆっくりと空を見つめる。瞳を上に傾けることで、少しばかり現実逃避できる。苦しいことから解放される時間は、人生で必要不可欠といえる。


 ポケットから15mgの煙草を取り出すと、ライターで火をつける。空にゆっくりと昇っていく白い煙は、数秒後には視界から消えてしまうこととなった。


 煙草の煙を永久的に届かないところにいってしまった、祐樹と照らし合わせる。息子はどうしているのかな。翠と幸せな生活を送っているといいな。


 息を吐きだした直後に、胸の内をチクリとした痛みが襲った。これまではなかっただけに、身体に異変が起きているのかな。


 原因は煙草を吸いすぎたことによるものかなと考えられる。祐樹との2週間程度の生活を終えてから、一日に二箱は吸うようになっていた。休日でむしゃくしゃしているときは、三箱に迫ることもある。


 喫煙量だけでなく、アルコールの摂取量も多い。一日に缶ビールを五本以上飲んでいる。酒、煙草でストレスを解消させないと、とても生きていけない身体になってしまった。


 透明の窓ガラスに自分の顔がかすかに映っていた。頬は黒ずみ、瞳にある力強さは感じられなかった。40歳くらいのはずなのに、実際は60~70歳に見えた。


 身体の異常は感じないものの、病院で検査を受けてみようかな。手の施しようのない状態になってからでは間に合わない。健康管理のためには、一手先を呼んだ行動を求められる。


 貞夫がパジャマ姿で、ゆっくりと近づいてきた。恰好からして本日はどこにも出かけるつもりはなさそうだ。買い物についてくるときを除いて、外出しているところを見かける機会は稀だ。家の番人に成り下がってしまっている。


 着替えないのは友達と遊ぶこともないから。貞夫に会うためにやってくるクラスメイトは誰もいない。家の中だけでなく、外においても人望を得ていないのかな。弟にちょっかいを出すだけではなく、小学校においても最低な行いをしているのかな。暴力事件で学校から呼び出されるのだけは勘弁してほしい。


 貞夫はコミュニケーションを取ろうとしているのかなと考えていると、とんでもないことを口にした。ショックのあまり、顎は大きく割れてしまった。


「弟を一日だけでいいから呼び戻せないかな。あいつを全力でいたぶって、ストレスを解消したい。ぬいぐるみを殴っているみたいで、すごく気持ちいいんだ」


 他人をいたぶることに快感を覚えるようになった人間は、成人したとしてもまともになるとは思えない。大人の世界において、まともに生き抜いていけるのだろうか。力で他人を従わせるような大人になるのは勘弁だ。


 貞夫は握りこぶしをグリグリとさせながら、愉快犯のように笑っていた。


「あいつを殴った感触を思い出すだけでゾクゾクするんだ」


 息子は幽霊さながらの笑みを浮かべる。十三年近く接してきて、初めて薄気味悪いと思ってしまった。これまではどんなことがあったとしても、息子なので可愛さをどこかに感じていた。                                             自分の血の繋がった子供ではないと思ったからか、頬を力一杯に叩いてしまった。条件反射的に手を出してしまうなんて、人生で初めてのことだった。翠のふがいなさを見ても、暴力をふるったことなんてなかった。 


「貞夫、いい加減にしろよ。祐樹はいじめるための道具じゃない」


 貞夫の頬には、掌の跡がくっきりと残っている。


 裕はろくでなしに成り下がった男に感情をぶつけた。


「お前さえいなければ、祐樹と一緒に生活できたんだ。どう責任を取ってくれるんだ」


 とっとと出ていけといいかけたところで、ストップをかけた。貞夫を思っているわけではなく、親として我に返った格好となった。息子を放棄しようものなら、保護者としての責任を問われる。ろくでなしのために、人生を棒に振りたくなかった。


 血の繋がりというのは、こういうときに邪魔になる。親というだけで扶養義務が生じる日本の法律を変えてしまいたい。不良品の家族を捨てられればいいのに、と考えている人は少なくないのではなかろうか。


 貞夫は無言のまま、父の元から離れていった。反省していることを望むけど、おそらくそんなことはない。人間は一日、二日で考え方を変えられる生き物ではない。

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