第7話 息子と再び別居

 祐樹はこちらに戻ってきてから一〇日と経たないうちに、元気をなくしてしまった。はじけんばかりの笑顔で、ここに住みたいといっていたのは幻だったようだ。


 瞳からは生命力のかけらも感じなかった。翠と疎遠になってからというもの、生きる希望を失ったかのようだ。父親と生活したいとはいったものの、本音は異なるところにあるのは誰の目にも明白である。


 母親と過ごしたいと思っているにもかかわらず、どうしてこちらに戻ってきたのか。父親としてその答えを知っておきたい。想像を絶する出来事に見舞われたのは確実だ。


 小学校は夏休みで長期休暇の真っ最中。祐樹がこちらに戻ってきたことを知る同級生はほとんどいない状態。地域における亡霊さながらといえる。


 夏休み中に母親の元に戻れば、転校もせずにすむ。一緒に暮らしたいとは思いつつも、息子の健全な生活を応援したいと考える自分もいる。


 自室で過ごしている息子の部屋をノックする。コンコン、コンコンという乾いた音の後に、祐樹は部屋のドアを開けた。まるで何かに怯えているかのようだったので、父親として不安になった。貞夫からちょっかいを出されていなければいいけど。


 貞夫には弟をいじめないように、再三にわたって念を押した。彼は真剣な表情で頷いていたので、大丈夫だと思われる。


 全身から冷気を発している息子に、単刀直入に切り出した。


「祐樹はどうして戻ってきたんだ。翠と生活したかったんじゃないのか」


 祐樹は息の匂いに反応したのか、顔をゆがませた。一緒に生活するようになってから、酒、煙草の量を一割ほど減らしたものの、依存症からは脱却できていない。アルコール、ニコチンから離れられない生活を送っている。


 翠は大のアルコール、タバコ嫌いでどちらも手をつけなかった。男の楽しみを我慢していれば、彼女との生活も変わっていたのかな。人生にたらればはないけど、そのように思ってしまう。


 祐樹は顎に手を当ててじっくりと考え込んでいる。父親に打ち明けていいのか、大いに悩んでいた。


 すぐに本音を打ち明けてもらえないのは、信用を勝ち取っていないからと思われる。父親としておおいにショックを受けた。十年近く一緒に生きていたにもかかわらず、心の扉は完全に閉じたままになっている。


 祐樹は鼻の下に指をあてたあと、ゆっくりと口を開いた。


「おかあさんが一週間前に、新しい恋人と一緒に生活を始めた。僕を取り巻く環境はがらりと変わってしまったんだ」


 翠は新しい恋人と同棲生活を始めたのか。記憶を上書き保存することで、裕との生活をなかったことにしたいのかな。彼女にとっては失われた一〇年間だと考えているのかもしれない。


 離婚届を取りに来たのは、恋人を作ることを前提にしていたのか。夫婦関係を継続したままだと、慰謝料の対象になりかねない。


 新しい男性と交際を開始したのは、母親として息子に楽をさせてやりたいと思ったのかな。女性一人で育てるのは大変なので、そういう心理はわからなくもなかった。


 シングルマザーは嫌だというのなら、こちらに戻ってくればいいのにと思う。裕は稼ぎもそれなりにしっかりとしており、住居、食事に困ることはない。


「一緒に生活することになった恋人は血が繋がっていないからか、目の敵にしようとしていたのを感じ取った。生命の安全も保証されないのかなって思ったくらい」


 小学生に突き付けられた、あまりにも非情すぎる現実。裕が当人だったら、どのように感じたのだろうか。沙代里は再婚しなかったため、そのことについてはわからない。


 近年では再婚相手による虐待は後を絶たない。殺人事件に発展することもあり、世間を大いに騒がせている。


 祐樹はどこに住んでいても、目を付けられるタイプなのかな。裕の家庭では実兄にいたぶられ、翠との生活を始めると恋人に厄介者扱いされる。居場所を確保するには至っていない。


 祐樹の瞳から一粒、二粒と涙がこぼれた。


「おかあさんと離れたくなかったけど、新しい恋人とは一緒に生活することは許されない。僕は次第に心の中で葛藤するようになっていったんだ」


 大人なら自分の住まいを確保すればいいものの、子供ともなるとそうはいかない。経済力のない人間というのは、自由に生きる権利を与えられない。


「おかあさんは新しい彼氏との生活を優先させようとしていた。僕は別々に暮らしたいといったけど、聞き入れてもらえなかった」


 小学生だけに大人にいいくるめられてしまった。社会を生き抜いてきた人間は悪知恵をよく働かせる生き物で、常に第三者を利用する、欺くことばかりに意識を集中させている。まともではないことは確かだ。


 祐樹の瞳から大粒の涙がこぼれた直後だった。玄関のベルを鳴らされることとなった。息子は匂いだけで誰なのかを感じ取ったのか、勢いよく玄関のほうに向かっていった。


「おかあさん、会いたかったよ」


 祐樹はどこにこんなエネルギーを持っていたのかというくらい、二つの足を勢い良く動かしていた。大人しい人間ほど、内に秘められたパワーはすごいのかな。


 翠のおでこは太陽によって照らされていた。彼女の額から発せられているかのように映る光は、息子を大いに歓迎していた。


「貞夫にいじめられていたというので、保険のためにスマートフォンを持たせることにしました。ここに戻ってから、三日と経たないうちにいたぶられるようになったみたいです」


 再発していたという事実に衝撃を覚える。貞夫に長時間かけて教えたのに、まるで意味をなしていなかった。


「仕事をしている立場では、貞夫を監視するのは難しいようです。祐樹を傷つけないためにも、私の元に戻します。異論はないですね」


 翠も新しい彼氏を作ることで、息子を苦しめていたではないか。そのことについてはどのように思っているのか。裕は抗議しようと思っていると、続きを訊かされることとなった。


「私も母親として、祐樹のことをきっちりと見ていなかったみたいです。別々に生活するようになってから、彼氏にちょっかいを出されていたのを知りました。血の繋がっていない息子と同居するのは嫌だったみたいです」


 不知であったことはどちらも同じだ。こちらだけが一方的に避難されるのは納得いかない。裕は反論することにした。


「翠も保護者の役割を果たせなかったじゃないか」


「祐樹との生活の足かせになっていた男は、一〇日日前に切ることにしました。シングルマザーでやっていくことになるので、経済的には苦しくなります。そうだとしても、息子の身の安全を最優先にしたいと思っています」


 交際中の男なので切ってしまえば終わりということか。我が家においては、貞夫が生存している限りはトラブルを避けられない。血の繋がっている家族ゆえに、追い出すのは容易ではない。


 翠は力強い声を発した。一人の母親としての決意を感じさせるものだった。


「私の全身は血の繋がった息子を一刻も早く助けなさい、と訴えかけてきています。ここにいたとしても、健全な心を養成することはできないので、祐樹の意思を尊重し、連れて帰ることにします」


 祐樹は新しい彼氏と別居したことを知ったことで、水を得た魚のように母親の胸に飛び込んでいった。


「おかあさん、一緒に住みたいよ」


 どんな道を歩むことになったとしても、祐樹と別々になることは避けられない。重い現実に押し潰されそうになった。


「祐樹、苦しい思いをさせてごめんなさい。母親として未熟だったことを許してください」


「ううん。おかあさんはとっても大切にしてくれた。僕はそのことにとっても感謝しているよ」


 裕の知らないところで優しくしているのかな。偽りの交際をスタートさせたときとは異なる一面を持っている。元夫として、翠のプラスの一面を見てみたかった。


 祐樹から注がれる愛情はとどまるところを知らなかった。


「おかあさんのことが大好き。ずっと一緒にいたいよ」


 翠との生活を止めるのは難しそうだ。祐樹のやりたいようにさせてやるしかない。


 弟をいたぶっていた張本人が姿を見せた。内緒でやっていたにもかかわらず、悪びれた様子はどこからも感じなかった。


 貞夫は弟に対して厳しい言葉を吐き捨てた。


「おまえの顔なんか二度と見たくないから、ここに戻ってくるなよ」


 正月、ゴールデンウィーク、盆に会えるのを楽しみにしていただけに、貞夫の言葉は胸に突き

刺さることとなった。


「貞夫、なんてことをいうんだ。血の繋がった家族じゃないか」 


 貞夫は冷たい視線を向けていた。


「こいつは裏切り者だ。断固として家族の一員と認めない」


 きょうだいかんで完全に修復不能な亀裂が入ってしまっている。一〇年、二〇年たったとしても改善されないレベルに思えた。


 裕の家庭では退職後の父親こそ荒れていたものの、他の部分については大きく狂っていなかった。幸せとはいえなかったかもしれないけど、不幸と呼べるものではなかった。


 貞夫の発言を訊いたことで、翠は水を得た魚状態になった。


「祐樹をここにおいておいたら、ろくな目に遭うことはないでしょう。心地よく住んでもらうためにも引き取らせてもらいます」


 翠は息子を連れていってしまった。永久的な別れになる予感がひしめいていた。

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