第6話 息子が返ってくる

 貞夫との二人きりの生活を開始してから、二年の月日が過ぎようとしていた。


 息子と疎遠になったことは、さすがに隠し通せない。祐樹の件は同級生経由で、近隣住民にあっという間に広がっていくこととなった。


 翠と別居したことも、近所に知れ渡ることとなった。こちらについては、すでに知られていた可能性はおおいにある。裕だけが地区の集まりに参加していたことを、不自然に感じていたものは少なからずいたと思われる。決定的な証拠はなかっただけで、限りなくクロに近い状態だったのは否めない。


 保護者会で面と向かっては口にされたことはないものの、妻、息子に逃げられたかわいそうな男と思われているのは確実だ。他の多くの家庭では、夫婦は一緒に生活し、子供も共に暮らしている。田舎ではそういった状態が当たり前なのである。


 裕自身は周囲からの噂話などどうでもよかった。祐樹と疎遠になったことは、人生史で一番の衝撃だった。


 息子を失ってからというもの、心の中に大きな穴が開いたかのようだった。いつかは旅立つとわかっていても、高校卒業までは一緒にいられると信じていた。一〇年も早く、息子と別々の生活を送ることになった。


 青い空を見つめた。雲はほとんどかかっていないにもかかわらず、黒い雲に包まれているように感じられた。彼のどんよりとした精神状態は、目に見えるものを変えてしまっていた。

小さな雲は東から西へと移動する。動きは緩やかなのに、彼にとっては家を破壊しかねないほどの嵐が吹き荒れているように見えた。


 ものごとにどんなに一生懸命打ち込んでも、快方に向かう兆しを見せなかった。彼にとって、二人の息子はかけがえのない存在だった。翠はいなくとも、子供とは一緒に時を刻みたい。


 希望の光を届けてくれていた男性は一度も訪ねることはなかった。文通やメールといったやり取りもしておらず、どのような生活を送っているのかを知ることはできない。


 翠の実家に様子を確認するために、連絡を入れようと思ったものの、番号を覚えていないことに気づいた。高校卒業後はこちらで生活していたため、彼女の実家と連絡を取る機会はほとんどなかった。共に生活するようになってからは、かけることもなくなっていたので、メモを取っていた用紙をどこかに間違って捨ててしまった。


 翠はスマートフォンを所持しており、その番号については携帯に登録してある。ただ、現在かけたとしても通じないとみなしてよい。別居した男性との関係を切るために、電話番号を変更するのは自然な流れといえる。翠の立場であったなら、100パーセント近い確率で通話できない状態にしておく。


 最終手段として彼女の実家を訪ねるという方法もあるものの、やるべきではないしやりたくもない。完全アウェイの中で、彼女の親族に白い目を向けられるのがオチとなる。翠は保身のために、ろくでもない男だと吹き込んでいるに違いない。


 洗濯物を干そうとしていると、玄関のベルが鳴らされた。息子に対応させようかなと思ったけ

ど、自分で向かうことにした。祐樹と離れ離れになってからというもの、来客に対して攻撃的な態度を取ることも珍しくない。ストレス解消の対象を失ったことで、どこに怒りをぶつけていいのかわからなくなってしまっている。一〇代の子供にとって、きょうだいとの離別はあまりにも大きかった。


 父親として力になってあげたいけど、どのようにしていいのかさっぱりわからない。自身もショックから酒、煙草に溺れる生活を加速させており、心のメンテナンスを必要とする状態だった。前向きになるきっかけを作らないと、仕事を失っても不思議はない状態まで追い詰められている。


 玄関の扉を開けると、思いもよらない人物が立っていた。二年前に家を出ていった、祐樹がやってきた。


 祐樹は背丈こそ変わらないものの、男らしさを増しているように思えた。二年前に遭ったようなへっぴり腰ではなくなっていた。


 祐樹は笑顔ではじけていたものの、翠は雪をまとった女さながらに冷たく感じられた。二人の間には真夏、真冬くらいの温度差があった。


 翠は冷たい口調で、用件を切り出してきた。こちらへの愛情は一ミリたりとも感じなかった。


「離婚届については役所に提出しました。私たちの婚姻関係は解消されることとなりましたことを報告します」


 翠が離婚届を提出したのはなんら違和感ない。一枚の紙きれを回収するためだけに、わざわざここまでやってきた。


 離婚届を提出したと報告するためだけに、足を運んだとは考えにくい。翠は100パーセント近い確率で、他の用件を伝えにきたと思われる。


 翠はやや早口で続きを話した。早くやり取りを終えてしまいたいという意図を感じる。


「祐樹はここに住みたいようなので連れてきました」


 翠は痩せたのか、顎が一回り小さくなっていた。皮膚を削り落としたみたいで、少しだけ不気味だった。


「祐樹を育てていただけますか」


 敬語で話をしていることから、心は戻っていないのは明白だった。翠の中では完全に赤の他人に位置づけられている。


 裕は息子の意思の確認を取ることにした。本人はどう思っているのかをきっちりと知っておきたい。子育てを面倒になって、丸投げしている可能性は否めない。


「祐樹、ここに住みたいのか」


 祐樹は溌溂とした声で返事をする。


「うん、おとうさんと一緒に生活したい」


 血の繋がった息子なので過去のことを清算して受け入れたいけど、一人の男のわがままに振り回されたくない。相反する二つの感情に支配されていた。祐樹は数年後に、母親と生活したいといいかねない。


 裕は子育てを放棄したのかを確認するために、探りを入れてみることにした。


「裕の引き取りをこちらが拒否をした場合はどうするんだ」


「その場合は連れて帰ろうと思っています。一度引き受けたからには、育てるのを放棄するわけにはいきません」 


 翠は息子と別々になるかもしれないというのに、寂しいそぶりをまったく見せなかった。強がっているのではなく、完全に無関心を貫いているかのようだった。お腹を痛めて産んだ子供に愛情を感じないのだろうか。


 祐樹を取り戻せそうだし、ここは帰ってもらったほうが得策だ。貞夫にぞんざいに扱われたら、心変わりしないとも限らない。気乗りしているうちに、話を片付けてしまいたい。


「翠、あとは任せろ。祐樹は立派に育て上げて見せる」


 祐樹と別れるにもかかわらず、翠は感情を取り乱すことはなかった。息子への愛情を一ミリたりとも持っていないかのような反応は悲しかった。


「ありがとうございます。祐樹のことをよろしくお願いします」


 翠は深々と頭を下げる。100パーセント演技だとわかる状況であっても、丁寧な対応を取るのは日本人らしいといえる。よくも心にもないことをできるものだと感心する。


「私は用件を終えたので帰ります」


 裕は心にもなかったことを口にしてしまった。完全に消えていたはずの感情がどこかで芽生えたのだろうか。祐樹と別々に生活していたことで、脳の一部を破損したのかもしれない。


「一緒に生活するという選択肢はないのか」


 祐樹は父、母の双方と生活したいと考えている確率は高い。彼の願いを叶えるためには、同居するのが唯一の手段となる。


 翠は過去を清算する意思はさらさらないのか、首を何回も横に振っていた。


「私は新しい人生を歩んでいるところです。あなたと一緒にいることはもうないでしょう。元々、結ばれるはずのないカップルだったんです。根本の部分は一〇年、二〇年たったとしても変わることはありません」


 裕は破局直後の穴埋め、翠は他の男性と接点を残すために始めた交際。偶然にも利害関係が一致していただけで、崩れてしまうのも時間の問題といえた。一〇年間も共に生活していたのは奇跡としかいいようがない。


「酒に溺れている人間の傍にいたら、暴力に発展しかねません。女性は危険だと感じたら、すぐに避難しなくてはなりません」


 一緒に生活していたわけでもないのに、アルコールの量を増やしたことを見抜かれている。裕は自分の手元を嗅いでみると、確かにアルコールの匂いはする。


「直哉さんと出会ってしまったら、叶わなかった夢を追い求めることになります。未来の私を必要としてくれる人に対して失礼に当たります」


 未来はダメなのに、現在ならいいという感覚は理解しかねる。本来なら逆であるべきではなかろうか。


 翠にそのことを指摘したとしても、聞き入れてくれるわけではない。裕は話を切り上げることにした。


「翠、おつかれ。あとは任せろ」


 翠は軽く頭を下げたのち、祐樹の方を少しだけ見つめていた。彼女の心にあるものは、ほんとうはどうなっているのか気にかかった。

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