踏み外さないように
香久山 ゆみ
踏み外さないように
地下資料室へと続く階段を見下ろして、私は溜め息を吐く。
階段は苦手。幼い頃、田舎の祖母の家の急勾配の階段から転げ落ちて骨折したトラウマから、私は階段を使うことができない。階段の前に立つと、また転げ落ちてしまうんじゃないかと不安になり、心臓がばくばく鳴って、足が竦んでしまう。学生時代はエレベーターのある校舎だったため、ほとんど階段は使わなかった。就職するときも、平屋の社屋の会社を選んだ。なのに。地下室があるなんて、聞いてないよ~。
地下室へと続く階段は、まるで地獄の口のよう。かたかたと足が震える。目を閉じて、大きく深呼吸して、えいやと足を踏み出す。まずは一段。ふう。踏み外さないように、踏み外さないように、手摺を握りしめ、慎重に足を進める。――真っ直ぐに前を向いていれば、踏み外すことはないよ。――田舎に帰るたびに階段の前で立ち尽くす私に祖母は言ったものだ。よし。私は真っ直ぐに地下室へと視線を向け、ゆっくり階段を下りていく。
「おーい」
地下室まであと数段のところで、声を掛けられた。
「おい、まだか? あと三十分で銀行さんが来るんだから、急いでくれよ」
階上から上司が急き立てる。はい。返事をしたものの、私の足は、地下室まであと少しのところで動かなくなってしまった。
私、なにしてるんだろう。地下資料室へ取りに行くのは、決算書だ。今日、銀行が融資の件で聞き取りに来るために用意するらしい。粉飾決算書。そんなの提出していいんですか? 驚いて尋ねた私に、だってしょうがないだろう、どこもやっていることさと、みんな薄笑いを浮かべた。ああ、私もいつか彼らみたいな笑い方をするのだろうかと思いながら、上司の指示を受けて地下資料室に向かった。そして、あと数歩で。
――真っ直ぐに前を向いていれば、踏み外すことはないよ。――祖母の言葉が、耳の奥で響く。田舎に帰るといつも、ひとりで階段を上れない私の手をぎゅっと握って、一緒に階段を上がってくれた。私が踏み外してしまわないように。
手摺を握りしめる手に力を込める。大きく息を吸って、吐く。私は地下室を背に、階段を引き返した。クビになるかもしれない。でも。
踏み外さないように、しっかりと上を見て。私は階段を駆け上がった。
踏み外さないように 香久山 ゆみ @kaguyamayumi
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