雨音駒音共に高く

大臣

 

 放課後。職員室から教室に戻ってきて、鏑木はため息をついた。HRが終わった時の晴天から一変。豪雨という奴だ。委員会の仕事だとかなんだとかで担任に呼び出されていたせいだ。

「ったく……まっちゃんのやつよくも……」

 後はもう帰るだけと言わんばかりにまとめられたリュックに手を置いて、手持無沙汰げに外を眺める。窓際の彼女の席からは雨に沈むグラウンドの様子がよく見えた。この分では帰れそうに無い。

「松本先生に呼ばれたのはお前が提出物出してなかったせいだろ? 自業自得さ」

 完璧に不意を突かれたからだろうか。ぼんやりとさせていた表情は驚きに変わって、首がすさまじい速度で逆側へと回る。鏑木の目線の先には、さっきまでの彼女と同じような表情でスマホをいじる男子生徒がいた。

「笠野、帰ってなかったの?」

 若干裏返った声はまさに表情通りと言ったところで、笠野は肩をすくめて、自分の鞄の中を漁り始める。

「約束してたんだから待つさ。この雨じゃ帰れないしな」

「___それもそっか」

 理由を聞いて鏑木は頬を少し緩ませながら立ち上がる。彼女が笠野のところにたどり着くのと、彼が鞄から、布にくるまれた何かを取り出すのはほぼ同時だった。中身は駒箱で、布の裏には八十一マスの盤面があることを、鏑木は知っている。

「さっさと並べて指すぞ」

「うん。今日こそ勝つよ」

「言ってろ」

 軽口をたたきながら、それでも二人の手は止まらない。笑いあいながら手慣れた仕草で箱を開け、空いた方の手で小突きあって、中に入っていた駒を並べていく。そしてすべてがそろった時、彼らの表情は真剣そのものになっていた。

「よろしくお願いします」

 挨拶のタイミングもまたほぼ同時。振り駒をして、脇に置いた対局時計代わりのスマホを押して。後にはピンと張り詰めた空気と、周りの音だけが残る。いつもなら、そういう風に進んだはずだった。

「__なんで何も言ってくれなかったのさ」

 久々に先手を引いた鏑木は、飛車を三筋に振った。それ自体はよくある形だ。まず角道を開けて、それから飛車を角道のために突いた歩を利用するように活用する三間飛車。良く言えば攻撃的かつ効率的。悪く言えば防御が薄く後が無くなりがち。

「対局中にはしゃべらない主義じゃなかったのか」

「指しながらでもこれくらい答えられるでしょ」

 実際、笠野の指し手に揺らぎはない。一度も鏑木が見せたことが無い戦法を使っても、セオリー通りに、そして一切のブレなく指している。対して鏑木の方は手が震えている。対局中にそういった癖を見せる人もいないわけではなかったが、そんな癖が彼女に無いことを笠木はとうに承知していた。

「全く、何もかもがあべこべだ」

 それでも、目の前で対局が進行していることは変わらない。笠木は淡々と自分の陣形を__得意としている四間飛車の陣形を組み上げていく。こちらは逆に相手の攻めを受け止めたりだとか、カウンターをして攻めたりだとかを考えている陣形なので、決して相性が悪いとは言えない。とはいえ、笠木も相振り飛車の経験が多いわけではない。一番よく指している鏑木は居飛車党だったはずだし、ネット将棋でも相振り飛車はほとんどが暴力的な殴り合いになるというのが笠木の経験だった。将棋の中でも研究が進んでいない分野であるから、暗礁地帯が多いのは当然だが、それはこの対局の趨勢を決めるものではない。

「いいから、早く答えてよ」

そう。経験が無いのは鏑木も一緒なのだ。条件が等しいのならば、戦えない道理はないし、ここが暗路であっても負けていい言い訳にはならない。

「引っ越し、明日って。教えてくれても良かったじゃん」

 だからこうやって、不服そうに頬を膨らませている鏑木が、もうしばらくしたら涙すら浮かべると笠野が予想をつけていたとしても、負けていい理由にはならない。これは真剣な勝負なのだからと、そう普段なら考えるはずだった。

「別に、話す機会が無かっただけだ」

 当然、求めてもない答えだったのだろう。鏑木の表情は余計にしかめっ面になる。駒音も叩きつけられたためか少し大きくなる。雨音の音が余計に気になったからだろうか。鏑木は窓の外に表情を向けた。対して笠野は、気に留めていない素振りで中盤に差し掛かった盤面を見て、考えを巡らせている。

「……そうやって、いつもいつも明後日の方向で気を回して、バッカじゃないの」

 笠野に鏑木の表情が見えるはずはない。当然だ。彼の目線は盤面を向いている。だというのに、彼は次のセリフで表情について言及した。

「また思い通りにいかないからって泣き顔か? いいからさっさと指せ。今日は勝つんだろ」

 駒同士がぶつかり合って戦端が開かれた時が中盤の始まりだという。先手を取っていて、かつ攻めの陣形を選択したのは鏑木。十数手前にすでにそれは始まっている。きっちりと陣形を決めきっての総攻撃だ。対する笠野は序盤の陣形を安定をとったために攻めが遅い。必然的に受けの展開だ。

 一つ、手を指して、彼は脇の対局時計代わりのスマホを見た。今までほとんど同じペースで指してきた笠野が、少しペースを落としている。それでも特に表情が乱れることは無かった。

「それ。さっきから思ってたことだけど、なんで」

 そう言われて、初めて笠野が動いた。その時がこの対局が始まって初めて、笠野が鏑木の顔をちゃんと確認したときで、予想と違ってその表情に涙など浮かんでいなかった。

「こういう風な攻め方されるの、初めてじゃないでしょ」

 笠野の動きが完全に止まる。別にまだ鏑木が手を指していないから、持ち時間に問題はない。むしろ長話は鏑木に不利になる。でも彼女は話を続けた。

「二か月前。たった一度だけ、私が勝った時。あの時も同じ攻めをした」

 直前の手番まで駒を握っていた、笠野の右手が震えた。小さな動揺を見逃さなかったためか、鏑木は左手を握りこむ。

「そんなときのこと、覚えているはずがないだろ?」

「いいえ。その二週間後、私が調子に乗って同じような攻めをしたとき、逆に返り討ちにされた。そのまた一週間後にも。別のやり方で」

 鏑木の眉間の皴がどんどんとその幅を狭めていき、笠野は深呼吸を一度入れて、目線を鏑木にきちんと合わせた。直前よりも明らかに鋭い目線だったが、鏑木はそれを全く気にしていない。三回とも戦型は相居飛車。

「なのに今、あんたは、私が勝った時と同じような流れで、何の対策も取らずに、ただ流れるままに指している」

 将棋において同一局面、同一進行というものは無いわけではない。恐らく普通の、普段の対局であれば、鏑木も追及しなかっただろう。だが今日ばかりは、笠野の性格をよく知る彼女だからこそ、追及は止まなかった。

「笠野あんた、手抜いてるでしょ」

 鏑木の視線が一層鋭くなって、ついに一手が指された。それは前回、鏑木が勝利をおさめた時には、まるきり検討にすら上がってこなかった一手で、笠野はその視線を盤面と鏑木の顔とで往復させる。

「……聞きたいことがある」

 話をしている間についてしまった持ち時間の差を埋めるように、今度は笠野の方が話を切り出し始める。視線は鏑木から外れていなくて、だから彼女は意識して表情の変化を抑え込んだ。

「なにさ」

「勝てると予想している道を放棄して、どうして指したこともない局面に突っ込んだ」

 リスクのある行動はするものではないのではないか、当然の、勝負の文字列を重要視するのなら、まず思い浮かぶであろうことを、ただ当然のように笠野は聞いた。そして、だからこそであろうか。鏑木は質問そのものを鼻で笑った。

「きちんと準備してきっちり勝つつもりだからに決まってんでしょ、アホ」

 まだ対局は続いているというのに勝ち誇ったような笑みを鏑木が浮かべて、笠野はしばしあっけにとられる。

「別に引っ越しのこと教えられたって、対局でぼこぼこにされたって、私はちゃんと受け入れられた。ちゃんと考えて、次を目指せるんだ。だから私をちゃんと見て、話せよ」

 その声は怒っているようにも、泣いているようにも笠野には感じられた。どっちかわからないという事実そのものに、天を仰がされた。

「そっか、悪かった」

 笠野の視線が外れたからか、それとも彼の表情の変化に気が付いたからか、鏑木が険しい表情を緩ませた。彼女からは見えにくかったが、それでも笠野がほんの少し笑っていることに、付き合いが長いからこそ気が付いた。でも、その笑みが視線をこちらに向けてからも保たれていることにはおどろかされて、息を呑む。

「ちゃんと正面からはっ倒してやるよ」

 その一言と共に、笠野は向き合っていた鏑木の角を取った。もちろん、鏑木から直ぐに取り返すことができるから、駒の損得は無い。でも、お互いが大駒をどこにでも打てるようになるということは、つまるところ盤面に緊張感が走るということだ。

「——上等じゃない」

だというのに2人は、心底楽しそうにニヤリと笑った。それ以上言葉が交わされることは無く、互いに浮かべたその笑みが途絶えることもない。雨脚は一層強くなり、駒音も高らかだ。

言葉の代わりに指し手を。雨音には駒音を添えて。会話をしていた時よりも明らかに、二人は通じ合っているように見えた。実際そうだったのだろう。いつの間にか差異の無くなっていた駒音にも、今が最も激しいであろう雨音にも、二人は全く気付いていない。必要なことは盤上にすべてそろっているのだから。


「___うん、確かに強くなったなぁ」

 二人の対局が終わったのは、ちょうど雨が上がるころだった。もう時間も遅い自覚はあったので、感想戦もそこそこに帰り支度をはじめていたのだ。

「何よ今さら」

 対局に勝利したのは、鏑木だった。真正面から打ち破って、きっちりと勝利を収めた。

「色々と準備してたんだよ。研究して、予想して、ちゃんとバレないように。まさか、序盤から予想を外されるとは思わなかったが」

 呆れたように肩をすくめる笠野に、自慢げに鏑木が笑う。

「勝ってもらって、それから言うつもりだったんだ。引っ越し」

「もう前日じゃん」

「だから時間が無かったんだよ。これは本当」

 軽口の様に話しているのはもうほとんど終わったことだからだろう。何か今から変わるわけじゃない。ただのかかわり方の問題だったのだ。自分の中にあるイメージで話すくらいなら、相手にちゃんと聞けという、それだけの話だったのだ。

「また指す。今度は俺が勝つ」

「いいや、次も私が勝つ」

 再戦を誓いながら二人は荷物をまとめて外に出ていく。自信ありげに笑う鏑木が夕日によく照らされていて、いい笑みを浮かべるもんだと笠野も笑う。そんな風な穏やかな会話をしながら二人は外へ出ていった。

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雨音駒音共に高く 大臣 @Ministar

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