二章 神鷹探偵事務所

某都にいながら自然豊かな風景を楽しむことができる、龍國市。ここでは、四季を通じて様々な景色を堪能することができ、都民が憧れる街の一つである。

鈴と七瀬が通う一京大学も、この龍國市の中心部にある。龍國駅から一京大学の正門へとまっすぐに伸びるメインストリートは、「大学路」と呼ばれている。様々な種類の桜が約二百五十本も植えられており、花見の名所として広く知られている。夏には生命の息吹を感じさせるような新緑、秋には艶やかで燃えるような色を放つモミジ、冬には夜を彩るイルミネーション、と一年を通して景色を楽しむことができる。


その一京大学から向かって北東に十五分、自転車を走らせた場所に、鈴と七瀬が普段走る馬沢都立公園がある。球場やプール、陸上競技場やサブトラック、テニスコートや一般人向け広場、と幅広い層に活動する場所を提供できる、都内でも有数の運動公園である。広場のほうでは八月上旬に夏祭りが開催される。

一京大学から東に十分ほど歩いたところには、龍國市の名所の一つ、穂谷天満宮がある。縁結びにご利益がある場所ということで、そこを訪れてから夏祭りに参加する男女も多い。去年、逢沢が鈴を誘ってはみたものの、二つ返事で断られてしまった。傷心した彼を慰めようと、男二人で祭りの屋台を踏破した七瀬には、記憶に新しい一夏の思い出である。



「去年は気分が乗らなかったけど、今年は別に行ってもよかったのよ?なんなら逢沢君も誘ってね。でも、どうしても外せない用事ができてしまったの」

「その気持ちだけでも、逢沢に伝えてやるとあいつは喜びますよ…」

七瀬は逢沢の気持ちを代弁するように、鈴に促した。

「そうなの?じゃあ気が変わらないうちに伝えておきましょうか」

辺りは既に暗くなり、陽は完全に沈み込んだ夜の世界を、闇を切り裂くように白の高級車が走る。リムジンだと気疲れしてしまうという鈴の文句から、彼女専属の執事に与えられた送迎車はBMWとなっている。

その車内では、既に中身が空になっているプロテインの容器を、曲芸師のように指で回しながら、鈴がスマホで逢沢への文章を作っていた。

「バスケットボールですら、俺は満足に回せないというのに……この人の運動神経はどうなってるんだろうな」そんな鈴の姿を、七瀬は半ば呆れながら隣の席で見つめていた。

今夜は、来週の計画を事細かに説明するということで、七瀬は鈴と一緒に彼女の送迎車によって帰路についた。行き先は、七瀬の家でも鈴の屋敷でもない。

彼女の遊び場、神鷹探偵事務所である。


馬沢都立公園から南西に二十分ほど車を走らせたところに、街と住宅地の境界にその探偵事務所がある。神鷹鈴が大学生になってから、陸上以外にも一つだけ楽しみが欲しいという、彼女の我儘の具現化がその事務所である。

総員三名、鈴の兄が名前を貸して所長となっており、活動には関与していない。学生故に非正規職員の二人が主力の事務所となっている。

鈴と七瀬が車から降りたことを確認し、執事の沖田は助手席越しに窓から顔を覗かせた。

「では、ご夕食のほうはこちらでいただかれるということで、メニューはお嬢様の仰ったとおりでよろしいですね?」

「ええ。お願いね、爺や」

「沖田さん、すみません。よろしくお願いします」

二人の言葉に、沖田は微笑みながら頷き、ゆっくりと車を走らせていった。闇に溶ける光が消えるのを見届けてから、鈴は後ろで手を組んで七瀬のほうに振り向く。

「それじゃ、入りましょうか」

「……はい」

七瀬にとっては、最後に来たのが実に三ヶ月ぶりとなる神鷹探偵事務所。こぢんまりとした二階建てビルの、二階にその事務所はある。一階は鈴の執事の沖田が、道楽として土日のみ喫茶店を開いている。

沖田の清掃が行き届いてるおかげで、七瀬と鈴が足を踏み入れなくても、二階への階段はもちろん部屋の中も綺麗だった。


「お腹も空いてるでしょうけど、さっきの軽食で少しだけ我慢してね。爺やに家での夕食を取りに行かせてるから。まぁそこで楽にしていなさい」

「はい」

鈴に勧められるまま、七瀬は部屋の中央にあるソファに腰掛ける。それまで試験勉強続きのために、椅子に座りっぱなしで疲労がたまっていた彼の腰には、ソファの座り心地が酷く優しいものであるように感じた。

ソファの後ろでは、鈴が簡素なキッチンでコーヒーを淹れている。砂糖を加えたミルクと共にコーヒーを摂取すると、筋グリコーゲンの再合成に効果的だ、という話から、七瀬は彼女によくカフェ巡りに付き合わされている。

七瀬は意識を目の前のテーブルに移した。卓上には、既に封を切られていた手紙が一通置かれていた。


この探偵事務所には、神鷹鈴という大学生探偵の評判を聞きつけた、物好きが依頼を寄越してくることが殆どである。事件解決率100%であることから、能力は高く評価されているものの、学業が本分ということもあって常に引き受けられるわけではない。更に彼女は、大学陸上界の短距離女王であるし、事件の調査に時間を割いている余裕はあまりない。三ヶ月前の事件を解決できたのは、警察が犯人に辿り着けなくとも、状況証拠がある程度は既に揃っていたからである。

「そう…俺たちはただの学生だ。個人で一から調査するには限界がある」そう思いながら、七瀬は三ヶ月前の苦い記憶を思い出した。連続殺人事件の依頼を引き受けた鈴と彼は、なんとか犯人に至ることはできたものの、その過程で七瀬が傷を負った。それまで鈴とあらゆる事件を解決してきて、有頂天になっていた彼の愚かさ故に起こったものだった。

明確に自身の命の危機を感じて以来、彼は事件のあるところに首を突っ込む自分を改め、今日夏休みを迎えるまで、慎ましく勉学に励んできた。走ること以外の趣味である、ミステリに絞った読書をすることもなくなっていた。手痛い失敗の経験は、彼から真実を探求する意欲を奪ってしまった。


「これが今回の依頼書ですか?」

七瀬は脚の間で手を組んで、放り出されている紙切れを見つめる。

約二年、七瀬は鈴と探偵業を続けてきたが、出先で偶然事件に巻き込まれたことを除けば、依頼の事件に関する全ての情報は、引き受けた時点でこちらに揃っていた。

七瀬の目の前に置かれている封筒は、中身が依頼データのUSBが入っている厚さもなかった。本当に、ただ手紙を入れるためだけの封筒のようだった。

「私たちにとっては依頼状、差出人にとっては招待状、といったところかしらね」

鈴が、コーヒーカップ二つと牛乳パックを載せた盆を両手に持ち、キッチンから出てきた。

「俺たちにとっては…ですか?」

鈴の要領を得ない返事に、七瀬は首を傾げる。彼女は、コーヒーの芳香な香りを漂わせながら、テーブルに盆を置き、テーブルを挟んで彼と向かいのソファに座った。

「そう。私の勘だけれど…私たちが招待に応じて行こうが行くまいが、必ず事件は起きるでしょうね。」

鈴はコーヒーにシロップも入れて、息を吹きかけて冷ましながら一口飲んだ。まるで子供のような彼女の振る舞いに、七瀬は一瞬微笑ましい気持ちになる。いやいや、と彼は頭を振ってそれを否定し、口を開く。

「因みに、なんで事件が起こるか見当はついてるんですか」

「ええ。七瀬君は手紙の内容を読んだ?これは毎年来ている手紙なんだけど、例年と違って最後に興味深い一文が添えられているのよ」

「へぇ」

七瀬は持っていたカップを置き、裏返して置かれていた手紙を手にとった。内容は、以下の通りだった。




拝啓


毎年のようにこの時期、都内は猛暑が続いていますが、いかがお過ごしでしょうか。

六月の日本陸上選手権大会、見事100mニ連覇と200m大会新で三連覇を達成されましたね。本当に、おめでとうございます。鈴さんと親戚である私も、大変誇らしく思います。

さて、例年通り開かれている親族会議の件ですが、今年は鈴さんの偉業を讃えようということで、華やかなパーティーを開催したいと思います。

毎年この時期、学生であるがために忙しいところ、本当に申し訳ございません。学生である鈴さんにとって、最後の重要な夏であることは、重々承知しております。

貴女がお越しいただけたならば、心より満足できるものにするよう、朏家次期当主として誓います。

良いお返事をお待ちしております。


三日月だけが見ていた真実は、白日の下に晒されるでしょう。


敬具



令和◯年八月◯日 


朏家次期当主  朏紗夜



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三日月の呪縛 静姫沙也 @natukaeru_fake

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