一章 神鷹鈴と七瀬秀一

人生とは孤独であることだ。

誰も他の人を知らない。

みんなひとりぼっちだ。

自分ひとりで歩かねばならない。


ドイツの小説家であり詩人の、ヘルマン・ヘッセの言葉だ。

人間は、究極的には分かり合えないのだと、私は思う。自分は他人ではないし、他人もまた自分ではない。自分のことすら真に理解できていない者が、誰かを理解することなんてできるわけがない。

だからこそ人間は皆、孤独なのだ。


そう考えていた猫に……荒野に投げ棄てられた猫箱の中身に手を差し伸べ、その心臓を取り出してくれた“キミ”は、彼女にとって運命だった。

人生が孤独という絶望で塗り潰されているのならば、真実という光で闇を照らしてくれたのは、“あなた”だった─────





「なんでこんなクソ暑い中、そんなに飛ばして走れるんですか…」

膝に手をついて息も絶え絶えの青年は、額の汗を拭いながら目線を上げる。そこには

、彼女の走る速度に必死についていった彼を、励ますように微笑む女性が立っていた。彼を見つめるその目元は涼しげでありながら、その表情はどこか愉しげだった。

「もちろん、先頭を誰よりも速く走るのが楽しいからよ。高校まであなたも陸上やってたんだから、分かるでしょ?七瀬君?」

そう言って、その場を左回りに歩きながらクールダウンする彼女を、青年は改めて見た。スポドリを片手に、ポニーテールに結った黒髪を風になびかせながら、こちらに笑顔を向けている。もう一本全力で走れますよと言わんばかりに、まだまだこの先輩は元気のようだ。

「でも、流石に現役で日本女子短距離界の女王には敵わないですよ。100mの11秒前半も大概ですけど、200mの日本記録更新はやばいです」

「22秒5を切った時は、流石の私も震えたわ。なんというか、理想の景色を見たまま走れた感じ。100mだとどうしても物足りないのよ」

スポドリを飲み干し、中身が空になった容器を手元で遊びながら、彼女は地面に座り込んだ七瀬に近付いた。最速であるためのように、極限まで無駄を削ぎ落とした身体は、Tシャツやロングスパッツ越しにも美しく見えた。


この走るために生まれてきたような女性は、神鷹鈴という。一京大学に通う法学部四年生で、“天は二物を与えず”のことわざを鼻で笑ったような女性である。本人の資質もさることながら、実家は超大金持ちでそこの令嬢であるし、神様はとことんこの人に与えすぎだ、というのが、彼女の周囲の人間に共通している評価だ。法学部に入ったのも、実家の近くにある日本屈指の難関大学である一京大の中で、最も難しいから受験してみた、という話でそれを聞いた七瀬は耳を疑った。学力の関係で法学部を泣く泣く諦め、それでも大学のブランドを捨てられなかったから、文学部を受験したという彼の立場は、もはやないと言っていい。

そんな彼女に、嫉妬とも羨望ともいえない感情を抱く彼は、七瀬秀一という。彼女と同じ一京大学に通う三年生で、容姿は平凡で運動も特別にできるというわけではないし、自慢できることといえば、名門の一京大学に通っていることくらいである。父母は共働きだったおかげか、経済的にも不自由な思いは全くしなかった。至って普通の中流階級出身の人間と言えるだろう。

 

「ほら、七瀬君も座っていないで動かないと。歩いて乳酸を除去しなきゃ、後々辛くなるわ」

夏の太陽のような眩しい笑顔で、鈴は七瀬に手を差し伸べる。この笑顔を向けられる男性は、七瀬以外にまずいないのだが、彼はこれが必ずしも幸福なことではないと知っている。

水分補給をして、鈴の手に引っ張られるままに七瀬は歩く。十分も歩いて少しは筋肉の硬直がとれたところで、鈴が鼻を鳴らして七瀬に問う。

「それじゃ、二セット目いくわよ。今度はもっと、先頭に食らいついてね」

七瀬に闘志のこもった眼差しを向ける鈴に、彼は冷や汗をかいた。相手の体力の都合などお構いなしである。

─────そう、神鷹鈴は、絶望的に相手の事を考えられない女性である。

馬沢都立公園で一般開放されてるサブトラックにて、再び二人は走り始めた。気持ちよく第三コーナーの風を受けて、自分の目の前を突き進む鈴を感じながら、七瀬は午前中のある出来事を思い出していた。




先刻、一京大学の食堂にて。

「おーっす七瀬、前期最後のテストはどうだったい?」

七瀬と同学年で一年の時からよく絡んでいた逢沢が、窓際のテーブル席に座る彼の前に席を取った。

「まぁ、なんとか。後期から就活の準備もしたいし、前期のうちにかなり履修したけど……まあフル単いけたと思う」

「んー、流石は七瀬だなぁ。お前の生真面目さの七分の一でも俺にあればなぁ…」

「逢沢は要領いいんだからさ、もっと真面目にやりなよ。地頭は僕より全然良いんだし」

「お、言ってくれるねぇ。嬉しすぎて逢沢さん泣いちゃいそう」

そう言って笑いながら、逢沢は七瀬と同じメニューのカツカレーを頬張った。

実際、逢沢は七瀬の完全上位互換といったスペックを持っており、一京大学の女性陣の憧れの存在である。もっとも、彼は一人の女性しか興味がないから、自分がモテることを歯牙にもかけない。

そう七瀬が思っていたところに、ちょうど神鷹鈴がやってきた。

「あら、逢沢君が七瀬君と同席してたのね。二人だけのとこ悪いけど、私もお昼をご一緒するわ」

そう言って鈴は七瀬の隣に腰を下ろした。彼女が選んだメニューは、シーフードカレーと山盛りのサラダ、胡麻ドレッシング付きだった。

「いやぁ、七瀬と二人だけの男飯だと味気なかったんで。めっちゃ嬉しいですよ神鷹さん」 

「逢沢…お前なあ」

逢沢はこうは言うが、なんだかんだで七瀬と二人だけでいることを楽しんではいた。鈴とお近づきになりたいという目的で、七瀬と友人になった逢沢であるが、約二年経った今では、二人は親友として確かな友情を築いている。

「逢沢君は中々嬉しいこと言ってくれるわね」

軽く逢沢に微笑み、鈴は淡々と食事を進める。この素っ気ない態度ですら、七瀬を除いた他の男性陣からすれば、喉から手がでるほど欲しいものである。それくらい、鈴は周囲の男性に対して興味がなかった。

「やったぜ七瀬、今日は一週間前より一秒近く顔を見てもらえた!」

ささやかな幸せを喜ぶ親友の姿に、七瀬は罪悪感のような申し訳無さを感じた。逢沢が七瀬の立場なら、鈴にぞっこんの彼はどれほど幸せなのだろうか。

いつもより手応えのある反応を貰えた逢沢を尻目に、鈴はサラダを平らげてからカレーを食べ始めた。常にベジファーストを徹底しているのだから、彼女のアスリートとしての意識は高い。女性が浮かれるようなスイーツの話など、未来永劫、彼女の口から出ることなどないだろう。

「それで、七瀬君は午前で前期の講義全て終わったんだし、午後からは夏休み、暇よね?」

「へ?まぁそうですね。何かご予定でも?」

「せっかく時間が取れたんだし、久しぶりに二人で走るわよ。七瀬君も体力つけなくちゃ」

まさかのお誘いに、七瀬は狼狽えた。無論、喜びではなく絶望からである。鈴と一緒に走るとなると、翌日の朝は起き上がれないことが約束されてしまう。それくらい、彼女の普段の練習量は半端ではない。

もっとも、彼女は休むべき時を理解し、徹底管理された食事と睡眠をしっかりとっているから、そのメニューに耐えられるのだ。一般的な大学生と同じ生活を送る七瀬が、それをこなすには些か厳しいものがある。

「えー!いいなぁ七瀬…鈴さん、俺も一緒に走っちゃ駄目ですかぁ?」

七瀬の辛さなど考えたこともないであろう、逢沢が呑気に同行を求めた。そんな彼の言葉に、鈴は首を傾げて逢沢を見る。

「なんで逢沢君は、私たちと走りたいの?逢沢君、別に運動部や身体を動かす系のサークルに入ってないわよね?」

「はい?そうですよ。でも現役短距離界の女王の走り、やっぱり近くで見てみたいんですよ」 

「なら、普段の部活で走る私の姿で充分じゃないかしら。もっと言うなら、大会か記録会の時に観客席からも見れるし。どちらにも逢沢君は来てくれているから、今更指摘することでもないと思うのだけれど」

「う゛っ…」

「それに、一緒に走って逢沢君ついてこれる?七瀬君は自分で身体を鍛えているから、一応は私のスピードについてこれているけど。陸上もやったことがない人間が、果たして私と同じ景色を見ることなんてできるかしら?」

「すみません…」 

「分かってくれたのならいいのよ。私に並ぶ資格がない者が、私と一緒に走ろうだなんて、あまりにも烏滸がましいものね」

逢沢の純粋な恋心を、完膚なきまでに叩き斬る鈴の言葉は、まさに人間を棚ごと圧し切った、かの名刀のごとき切れ味だった。「本当に、この先輩は相手のことが分からない」そう七瀬は思った。彼女は相手の心を全く理解できない、というわけではない。ただ、そのように生きてきた彼女は、意識しないと相手の心を把握できない。

「それでも、二年前と比べたら全然マシなほうだ…」残っていたカレーを完食し、七瀬はしみじみと思う。初めて鈴と会った時、彼女には間違いなく人間として大切なものが欠けていた。

「ごちそうさま。まぁ逢沢、元気出しなよ。今度、お前が観たいって言ってた映画、チケット代と飯代奢るからさ」

「七瀬……ありがとうな、恩に着るよ…」

「私もごちそうさま。じゃあ七瀬君、またあとでね。場所と時間の指定についてはメールで連絡しておくから。逢沢君も充実した夏休みを」

七瀬が返事をする前に、そう言って颯爽と席を立った鈴を、逢沢はスプーンを口に咥えたまま見つめる。彼女に気を取られていたせいか、半分ほどしか食事が進んでいなかった。



最終直線で、ぐんぐんと自分と距離を離して光の中を突き進む鈴の姿に、七瀬は目を細める。「そう…この人はこれでいい」七瀬は心の中で呟いた。

決して揺らぐことのない、確固とした己の信じる道を駆ける彼女が、七瀬には何よりも美しく見えた。あらゆる柵に囚われず、誰の手にも捕らえられない逃亡者。彼女の抱える自由と孤独は、一際輝きを放って燃える流星のようだと、七瀬は思う。

だからこそ、星のような輝きを放つ彼女が、彼のもとに降りてきたのは、ある意味で奇跡だったのだ────────



「もう…動けないっす。エネルギーゼロです」

鈴の差し入れのゼリー飲料を啜りながら、七瀬はタータンの端で大の字に倒れていた。

時刻は既に十九時に迫る。途中で一時間休憩を挟んだとはいえ、まさか四時間みっちり走らされるとは、七瀬は夢にも思っていなかった。脚どころか腕を動かす気力すら、もう七瀬には一片たりとも残っていなかった。改めて、逢沢がこのメニューに付き合っていなくて、良かったなと心から七瀬は思う。彼の体力では、途中で熱中症になって倒れて、病院に搬送されてしまうかもしれない。

情けない状態にある七瀬の周りを、鈴は左回りで歩きながら、微笑を浮かべて彼の顔を覗き込んでいた。七瀬の目には微笑を浮かべているように見えるが、実際そうであるかは定かでない。

逢魔時、誰そ彼時。日も暮れて、相手の顔の判別がつかなくなる時間帯。自分の目の前にいるのは、果たして人なのかこの世ならざる者なのか。そんな判断すらままならない、幻想の存在が許されうる昼と夜の境界にある。

ポニーテールを解き、美しい漆黒の長髪を優雅になびかせる鈴は、まさしく幻想の住人のようだった。その表情には……やはり笑みが含まれている。ただ、今回のような表情には、七瀬にある確信めいたものを抱かせた。髪で顔が半分隠れたせいもあって、彼に微笑む神鷹鈴という存在は、美しくはあるけれど不気味な雰囲気を漂わせている。

そう、これは彼を死へと誘う死神の顔。七瀬が初めて鈴と会った時から、幾度となく見せられ続けた魔女の表情だ。七瀬はこれを目にした時、自分を待つ運命を察することになる。

「す、鈴先輩……」

縋るような、祈るような声音で七瀬は鈴に呟いた。それを快諾と捉えた彼女は、顔を隠していた髪を耳にかけて、彼に満面の笑みを見せる。

「事件の香りがしますよ、ワトソン君」


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