序章 ブルームーン
「ど、どうして…」
月の光をそのまま反射しそうな、清らかな純白の天蓋で覆われたベッドの上に、最も大切な者が眠っている。彼の生命活動は既に停止し、月明かりに照らされたその表情は、苦悶に満ちたものだった。周囲に血痕は見られないことから、彼はおそらく絞殺されたのだ。
「…ッれが……誰が。だれが誰がダレガァぁァァアァッ!!」
少女は狂乱し、周囲の棚の上にあるものを片っ端から壊し始めた。綺麗に並べられた数冊の本を、引っ掴んでは破り捨て、紫苑が生けられた花瓶を、渾身の力で床に叩きつけた。目の前に突きつけられた事実は、我を失うほどに、彼女にとって到底受け入れがたいものだった。
明日は、彼にとって何よりも誉れある日になるはずだったのだ。彼女もまた、彼に訪れるべきだった運命を、心から祝福するつもりでいた。
自身の半身であり、誰よりも愛していた兄。それを喪ったことによる深い悲しみと、彼を自分から奪った者に対する怒りで、彼女の精神は崩壊しかけていた。あまりの気持ち悪さに、視界が歪んで立っていられなくなり、棚にもたれながら絨毯の床の上に座り込んだ。
────ふと、悲しみに暮れる彼女の目に、割れた花瓶で無惨になった紫苑が映った。彼が生前、最も大切にしていた花であったことと、よく聞かされていた花言葉を思い出す。
「ええ、忘れないわ。絶対に。あなたが私のもとを離れてしまっても、全ての思い出を……私は絶対に忘れない」
押し寄せる負の感情の波によって、バラバラになってしまいそうな精神を、なんとか継ぎ接ぎだらけの状態で持ち堪える。
「そして……あなたを殺した奴に、同じ苦しみを味わわせてやるわ。私の全てをもって、真実を突き止めて裁いてやる」
彼を殺した人間に対する憎しみが、彼女の精神を再構築していく。全身全霊をかけて、犯人を滅ぼさんとする絶対の意志の力が、死にかけた彼女の精神を蘇らせる。
犯人は、龍の尾を踏み、その逆鱗に触れたのだ。その対価をもってして、犯人の滅びはここに確定した。怒り、荒れ狂う龍鬼となった者に食い殺される、その運命が。
──────そう、これは復讐の物語。
大切な者を亡くした少女が、自らの復讐を果たさんとする、救済のない悲劇の演目。
しかし、彼女が事に及ぶ前に、真実に辿り着く者がいれば、その運命は変わるのかもしれない。
もっとも、その確率はあまりに低い。彼女の強い意志は、あまりにも強固なものである。逆巻く炎の中で、一心に鍛えられた剣のように、彼女の意志はいかなる運命をも斬り伏せる。
屋敷中に響いた、彼女の叫び声に気づいた使用人たちが、ようやく部屋に到着した。荒れ果てた部屋の中とベッドに横たわる彼の様子を見て、ある者は悲鳴を上げ、ある者は何があったのかを彼女に問い質そうとする。
電気をつけて明るくなった彼の部屋で、彼女は床に座り込んでいた。使用人たちの言葉は、彼女の胸の内にまで入ってこない。曖昧な返答をして、彼女は窓から見える三日月に目をやる。
「半月のように、完全に半分じゃなくてもいい。でも、どうか私に……力を貸して」
彼女の言葉に、使用人たちは頭を抱える。それがどうしたと言わんばかりに、彼女は窓を開けて三日月に手を伸ばす。月の光を一身に受けたその眼差しは、まだ憂いが混じりながらも、希望の光を灯さんとしていた。
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