七種夏生

だからいま、彼は中にいる


 寮を出る時、彼の隣が空いていたから即決した。

 よろしくお願いします、なんてよそよそしい挨拶を済ませて。

 網戸の音が聞こえるとすぐにベランダに出た。洗濯物の皺を伸ばしてから干す彼の姿に感心した。

 築三十年のボロいアパートで、壁に耳を当てると生活音が聞こえた。電話をかけると隣の部屋から彼の声がして、壁一枚隔てたこの距離を楽しんでいた。


 数週間経ったある日、彼の部屋の前に傘が置いてあることに気がついた。

 どうやら、傘が外にある時は彼は家の中にいるようだった。雨の日は傘を持って出かけるし、晴れの日は家の中に収めてから出かける。

 それが面白くて、私も真似をしてみた。

 部屋の前に置いた傘が私達の在宅不在を示す目印、二人でそう決めた。



 深夜になっても傘がない日が続いて、さすがにおかしいと思って壁に耳を当てた。

 彼の声ともう一つ、女の笑い声。

 カッとなって部屋を飛び出す。

 鍵はかかっていなかった。土足で踏み込むと、部屋の中に私の知らない女がいた。トイレから戻ってきた彼が取り乱して慌てて私に駆け寄る。

 女は逃げ出した、残されたのは私と彼の二人。

 口論だったのがいつの間にか手が出るようになり、彼が私の頬を叩いた。

 だから、頭に血が昇って台所へ走った。追いかけて来る彼を威嚇するつもりが、振り向いた瞬間に包丁が彼の胸へ突き刺さった。

 私が悪いわけじゃない、突っ込んできた彼が悪い。

 ぶつかって来た彼が悪い。


 あぁ、いや……そんなこと言ってる場合じゃない。

 どうしよう、これ。


 結果、どうしようもないと察して彼を殴りつけた。

 まずは口を、誰にも喋らないように。

 次に目を、瞳に焼き付けないように。

 違う脳だ、記憶を消さないと。

 手足が邪魔、そこも潰して。

 心臓を刺さないと、もう一度。

 喉も切り刻んでおこう、息が出来ないように。

 殺しておかないと。


 これだけ血が出ればもう、大丈夫でしょ。





 引きこもりを始めて一週間、友達から電話がかかって来た。


「学校来てないけどどうしたの? あぁ、そうなの、お大事にね。ところであんたの彼氏も見かけないんだけど、どうしてるか知ってる?」

「さぁ? 最近会ってないから」


 チラッと、彼の部屋の方を見つめる。

 どう処理したかは覚えてないけれど異臭がしないってことは、うまくやれているんだろう。

 一週間も前のことだから最近の彼が、死体がどうなっているかは知らない。


「でも、家にはいると思うよ」

「家にはいる? どうして?」



「傘が、部屋の前にあるから」

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七種夏生 @taderaion

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