金魚
鳳天狼しま
本編
金魚を拾った。
近所の河原で打ち上げられていた、月明かりに艶々としたそれを、私は仕事帰りの夜道で見つけ、こっそり家まで持ち帰った。
私は元々川魚が好きで、よく近所の河原で魚を捕まえては家の小さな水槽で飼っていた。
小さくて可愛らしい金魚だ。
鮮やかな朱色の尾ひれが、藻の隙間からひらひらとたなびく。
片腕を広げたほどの広さの水槽の中を、一匹で悠々と自由に泳ぐ姿は、私が長らく欲していた自由を連想させた。
***
私は今、アキラと言う人間に拾われ、飼われている。
腹を空かした勢いで魚を追いかけ、上流まで上がってきた所を、見知らぬ人間の男に拾われた。
男はアキラと名乗った。
アキラは私にたどたどしく私に話しかけはするが、彼自身は私の言葉は聞こえていないのか、または聞き取ることが出来ないのか、返事はなかった。
食事はいつも、決まった味の不思議な食べ物を与えられる。
到底生き物ではない、丸い形状で水にふやけるそれは、私の口に入るとへにゃりと砕けて、藻のような血肉のような妙な味を憶えさせた。
対して腹も膨れぬ程度に食事を終えると、私は藻の影に隠れて休息を取った。
水槽の中は心地が良かったが、孤独だった。
他の魚は一匹も居らず、男は私の姿が見えないと決まって水槽をトントンと叩いて姿を現すように誘った。
私がひょっこり顔を出すと男は満足そうに笑って、また今日あった我が身の周りの事を色々と話すのだ。
男には年老いた父と母が居るそうで、父は酒が入ると暴れる類の男らしかった。
「母さんは可哀想な人なんだ、あんなに痛めつけられているっていうのに、父のことばかり大切がって」
私が人間の言葉を理解できると、ようやく理解したのだろうか。
そんな考え方はもう古いだの、こんな家出てしまえばいいのにだの、いわゆる愚痴話を私に言って聞かせるのだ。
そのわりに、先程から階下で響いている騒音に彼はさして動じる様子はない。
もう日常事だと慣れてしまっているのだろう、そう考えるとなんだか少し哀れだった。
「魚はいい、綺麗な姿だけを見せてくれる」
アキラはそううっとりと微笑んで、水槽に這わせた私のみすぼらしい小さな手を、トントンと指先で突くのだった。
そんなある日、アキラが見知らぬ女を部屋に連れてきた。
女はまだ垢抜けないおぼこい見目ながらも、水槽の中にいても臭うくらいに甘ったるい雌の匂いを振りまいていた。
時刻は夜中の2時、階下の家族は寝静まっていて、二人からは酷く酒の匂いがした。
女はにこにこと嬉しげな顔で衣服を脱ぐと、寝台の上に寝転がるアキラに絡みついた。
「止めろ!」
しかし彼は女を蹴飛ばすように振りほどいた。
薄闇の中で男の顔は伺い知れないが、その声色はピリピリと水面が揺れる程に怒りに満ちていた。
「そのみっともない脚を仕舞え、阿婆擦れ!」
なんだよゥと文句を垂れる女を家の外まで追い出した男は、部屋に戻って来ると貝のように蹲って動かなくなった。
何やらぶつぶつと呟いていたが、しばらくすると自分がつけた“金魚“という私の名を呼んで、また語り始めた。
「私はどうしてこうなんだ…母のような真面目な人をと思っていたのに…いつも失敗してしまう、いつもいつも………」
履い縋るように私の水槽の前まで来たアキラは、“私は女の脚を見るのが怖いんだ“と泣きそうな声で言う。
不意に、夜空から降りてきた月光に照らされたアキラの顔は、実に恍惚とした目で私の尾ひれを見ていた。
その目の色があまりに美しくて、私はその夜は豆粒程の心臓が逸るのを抑えながら眠りについた。
***
あれから一年、気付けば“金魚“はすっかり水槽をはみ出す大きさになっていた。しかし新たな水槽ならいくらでも当てはある。
私は帰路に。職場で使わなくなった水槽を一つ、荷車で拝借してきた。
人間の死体を洗う為に使っていた水槽だったが、洗剤で洗えば魚にも問題なく使えるだろう。
どうにかこうにか二階に引きずりあげた新たな水槽を、金魚は気に入った様だった。
金魚が私の言葉を理解できると、人間の言葉を話せると気付いたのは、金魚が水槽からはみ出る程に大きくなってからの事だった。
『お帰り』
金魚の言葉は不思議だった、耳が聴こえぬ私でも頭に直接響くように語りかけてきた。
「今日は美味いものを持ってきたんだ、職場の傍に新しく出来た洋菓子屋の焼き菓子だ」
『……!』
金魚は初めて目にするクッキーをまじまじと見て、その芳しい香りを深呼吸する様に吸い込んだ。
『……ありがとう』
礼儀正しくお礼を言って、金魚は500円玉程のクッキーを一口に頬張った。その途端表情がぱっと明るくなる。
「美味いか」
『おいしい、もっと食べたい』
金魚が催促するので、俺は袋に詰まっていた10枚程のクッキーを全てくれてやった。
新しくなった水槽で眠る金魚は、実に美しかった。
まるで死人のように青白い首筋や腕が月光に映え、それでいてその尾ひれは、てらてらと川魚のように美しい鱗模様を煌めかせていた。
ふと、“川に戻そう“と、私は思い立った。
水槽に腕を突っ込むと、ひやりと冷たい感触がする。
微睡みの中から目を覚まさぬ金魚を抱き抱えると、私はあの日捕まえた場所である河原へ向かった。
***
夢現に優しい歌が聴こえていた。
故郷で聴いていた、船乗り達に伝わる歌とも違う。
聞き慣れたその声に目を覚ますと、アキラが私を抱き抱えて見下ろしていた。
『その歌はなぁに』
「……」
私の問いに答える事無く、アキラは私を抱えたまま、河原を進んで行く。
水面に私の体をざぶりと降ろしたアキラは、「さよなら」とだけ言って私に背を向ける。
知っている、さよならは別れの言葉だ。
『アキラ』
「……」
いくら語り掛けても、いつも饒舌な彼は珍しく黙ったままだった。
どんどん小さくなっていくアキラの背中にそわそわとしたものを感じながら、私は頼りなく震える声でその歌を歌った。
私が故郷に居た頃に聴いた別れの歌。
難破した船乗り達を黄泉路へと見送る時の歌。
きん、と耳が切ない程に鳴って、私の目に涙が溢れた。
***
あくる朝、町内に多数の心肺停止者が続出した。
不思議なことに犯人らしき者の挙動は知れず、ただ一様に眠ったまま心臓が止まっているらしかった。
まるで死神の子守唄でも聞かされたかのように。
父と母が居なくなってこざっぱりとした一階を通る。
蘇るのは幼い頃の記憶。
階下に降りると、失神した母のむき出しの白い脚が転がっていた。母の脚からは饐えたような臭いがしていて、私は堪らず吐き気を催したのだ。
幼い私はその意味する所が分からなかったのだが、あれこそ母が父に依存的になっていた理由だったのだろう。
私は身支度を整えると、合同の葬儀場へ向かった。
そこには隣町に住む同僚たちの姿もあった。
同僚たちが手馴れた手話で話しかけてくる。
「お前だけ助かるとは、不幸中の幸いだな」
「私は耳が聞こえませんから」
「……?そんな事とっくに知ってるさ」
私の言葉の意味する所が分からない同僚は首を傾げる。けれども私は分かっていた、“あれ“が金魚の別れの挨拶だったのだと。
聴こえぬ私には効果は無いようだったが、私の耳骨にもきんと響くような歌声。
あれが金魚の真の“声“だったのだ。
「しかし人間の死体ってのは何度見ても薄気味悪いねぇ」
「それが正常ですよ、私なんてもう何も感じなくなってしまった」
「女の裸は怖いのにか?」
「裸というか、脚ですね」
同僚とそんな問答していた矢先、葬儀場の入口にひとりの女性がぽつねんと立っているのが目に入った。
喪服から覗く血色の薄い肌、漆黒に艷めく黒髪。
初めて会う筈なのに、その女性の姿には不思議と見覚えがあった。
「こちらに、アキラさんという方は居られませんか」
「私の事ですか?」
彼女は実に美しい指先で、手話を紡いだ。
話してみると彼女は実に不思議な女性だった。
私のあらゆる好みを知っているのかと言う程に気が合って、その日以来、私はすぐさま彼女の虜になった。
どうせ彼女の脚を見ればまた同じことの繰り返しだろうと分かりつつも、私はそれでも彼女をもっと知りたいと躍起になった。
そんな私たちが恋に落ち付き合うのに、そう時間は掛からなかった。
彼女は己の名を“おきん“と名乗った。少しばかり古めかしいその名前も、彼女の着飾らぬ風貌に不思議と嵌っていた。
そして葬儀から一周忌を迎えたある晩の事、おきんは私に突然「脚を見て欲しい」と言ってきた。彼女には私が“女の脚嫌い“だという事は言っていないはずだった。
どうしてかと問う私に、彼女は「お願いです」とばかり懇願してくる。
彼女との関係性を壊したくなかった私だったが、不思議と彼女ならば大丈夫では無いかという気もしていた。
「分かった」
一階の客間で晒させる訳には行かないだろうと、私は彼女を二階の自室へと通した。
そこにはあの日の金魚の水槽が捨てられずに残っていた。
「こんなに小さかったかな……」
「……?これはだいぶ大きい方だと思うが」
私の言葉に不思議な眼差しで微笑んだおきんは、徐に靴下を脱ぐと、長いスカートをたくし上げて、物言わずに私の目の前に己の脚を晒した。
彼女の脚には見事な鱗があった。
月明かりにてらてらと輝く、川魚のように美しい銀の鱗。
私は吸い寄せられる様にして、水槽の前に、彼女の側へ近寄る。
「……触れても良いか」
「アキラさんなら」
すべすべとした彼女の内腿、その外側の肌に、銀色の緻密な鱗が装飾のように広がっている。
「ああ」
私はそれを、とても美しいと、感じ入っていた。
金魚 鳳天狼しま @karupastaro
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