盲目の読書家

零河 昏

第1話

 金盞きんせん高校に於ける終業式の日。夏休みを翌日に控えた生徒達は、軒並み浮き足立っていた事だろう。しかし教員一同に関してはその限りではなく、むしろ夏休み目前とあって、調子に乗った生徒達がたがを外してはしゃぎぎ回り、何かしらの問題を起こすのではないかと、常よりも緊張感に包まれていた。

 故に、終業式の最中に起こった悲しい事件、或いは、更に悲しい事件の引き金となる出来事について、何人たりとも教師陣を責めるべきではない。


 強いて言うのなら、俺の不注意が招いた事態だ。


 俺が悪い。全て俺の責任であるとも言える。

 突然押し入って来た暴漢から、喉元にナイフを突き立てられた事も。

 教職員一同が誰一人として前へ出られない中、だけに飛び出させてしまった事も。

 その後輩こと、瑞乃みずの ゆずりはが、暴漢相手に大立ち回りを演じた事も。


 そして彼女が、見えない傷を負った事も。


 後で知った事だが、件の暴漢は学校関係者に個人的な恨みを抱いていたらしい――そんな、ナイフで武装した迷惑極まる暴漢は、高校一年生の女子が単独で相手をするには、些かどころではなく随分と分の悪い手合いだ。だが杠は、結果として暴漢の殺生に成功した。


 彼女は人を殺したのだ。

 暴漢を殺して、俺を助けた。


 ――己の双眸りょうめと引き換えに。


 暴漢の持ち込んだナイフによって、杠が右目を穿たれ、喘ぎ苦しむ声が、今でも耳から離れない。そのままの勢いで馬乗りにされ、彼女が左目までをも喪った瞬間をよく覚えている。血潮と混ざり合った涙が、勢いよく噴き出していた。叫喚と共に、彼女が己の左目から力任せにナイフを引き抜き、今度は暴漢へ突き返した瞬間も、それから殴られ蹴られ、それでも暴漢へ立ち向かい、奪ったナイフで眼球を貫き脳を傷付け絶命させるまでの一部始終も、全部、忘れる事はない。


 斯くして、俺こと桐嶋きりしま 優希ゆうきは特筆すべき傷も負わずに、絶体絶命の境地から生還を果たした。

 代わりに杠は――見えない傷を負った。


 ようになる、傷を。


 これが全ての始まりであり、全ての終わりである事は、これより後のエピローグを知っている者であれば、誰の目から見ても明白だろう。



===



「先輩先輩!」と、杠は以前と変わらぬ口調で言った。「点字は表音文字に分類されていますから、ほら! 覚えるのは一瞬なんです」


 それから彼女は、厚紙に印字された凸凹を右手の人差し指でなぞりつつ、「つ・き・が・き・れ・い・で・す・ね」と、一音一音区切って口に出した。今はまだ夕方なのだが、まぁ彼女は文章を音読しただけだ、という事にしておく。

 しかし……何とも、習得の早い事だ。彼女が目覚めて一週間、既に点字をマスターしてしまったらしい。


「これでまた、沢山の本を読めそうです」


 そんな風に、杠は笑って見せるけれど。

 彼女の目元を分厚く覆う包帯は、ぐっしょりと湿っていた。その包帯は、まだ交換して間もないのだが――彼女の包帯が湿っているのは、最早いつもの光景である。


 だが、それもこれも全て俺の責任。桐嶋きりしま 優希ゆうきという男が、半ば強引に背負わされた罪である。

 せめてもの贖罪しょくざいにはなるかと思い、俺はそっと口を動かす。重く閉ざされた唇を開き、地球の重力にすら勝てそうにない舌を懸命に持ち上げる。


「何だったら、俺が代わりに音読しようか? 杠本来の読書速度には、遠く及ばないだろうけど……」


「いえ、わたしの速読は文章を塊として捉えるので、まぁ、つまり……」


 ――視力あっての能力。


「ま、まぁ、」と、取り繕ったように杠が続けた。「ですが、お気持ちだけ頂いておきます。やはり、わたしは『読む』という動作が好きなのであって、ただ物語を追体験したい訳ではないんです」


 彼女は昔から、俺の事を知ろうとしてくれていた。かれこれ半年程前――思えば、彼女が俺への好意を露わにしたのは、殆ど高校入学と同時だったようにも思われる。よく考えてみれば、一目惚れという寸法なのだろう。


 だが、俺には彼女と付き合う心算がない。

 傍目から見れば仲睦まじい光景に見えているのかも知れないが、その実、俺達二人の姦計は、彼女からの一方的なアプローチの上に成り立っている。


「へぇ、流石は読書家。言葉の重みが違うね」


 にも関わらず。俺は彼女の視力を奪った。

 俺の所為で、彼女の視力は喪われた。永遠に、戻る事はない。


 こんな状況になって初めて、俺は彼女の事を知ろうとしている。事実、杠に関する事柄であれば、このような状況に陥ってから知った事の方が多いかも知れない。

 先程彼女が話してくれた彼女の信条も、今し方初めて知った所だ。


「優希先輩への『愛』も、これまた重みが違いますよ――!!」


「『友達として好き』の最上級かー、嬉しいなぁ!」


LOVEえるおーぶいいーと書きます」


「『ライク』って読むんでしょ? 知ってる知ってる」


「小学二年生からやり直してはいかがでしょう」



===



 そんなこんなで。気付けば彼女が入院している病棟に通い初めてから、半年が経とうとしていた。あの頃にはまだ健在だった軽口も、今では滅多に聞かなくなった……時折、思い出したかのように、ぽつりと口に出すのみである。


 俺はそんな杠を見ていられなくて。けれど、逃げ出す事も出来なくて。

 彼女の親類縁者と顔を会わせる度、毎度の如く嫌みや暴言を吐かれ――そして泣かれる。目の前で、泣き崩れられる。


 そういう出来事は、時が経つに連れて減っていく傾向にあるものだが、しかし杠の場合は違っていた。彼女は日を追う毎にやつれていく、目を覚ます度に、彼女の内に巣食う絶望感、喪失感は日に日に増して行った。だから彼女の家族から飛ばされる言葉は、会う度に鋭さを増していたのだろう。



 ――今日は学業が長引いてしまった為、日課となっていた杠の元への訪問が、常よりも三十分程遅れてしまった。何かお詫びの品でも買っていくべきかと思案したものの、結局は可及的速やかに杠の元へと駆け付けた方が良いとの判断で、俺は急ぎ足に彼女の病室へと入った。ノックもしなかった事は反省すべき点であるが――と。

 そんな思考は、およそ暢気のんきと言わざるを得なかった。


 俺は気付いていなかったのだ。

 彼女の危うさに。彼女の心が、とっくに擦り切れていた事に。


 大好きな本が読めなくなって。

 ただそれだけの、けれど何よりも大切な理由。

 時間が解決してくれる訳もなかった。むしろ、時が経つにつれて彼女の絶望は、より深みを増して行った事だろう。


 ――見慣れた病室に、見慣れた後輩の姿は無かった。

 それだけで、全く知らない空間のように思えて仕方が無い。


 すみません、すみません、と、周囲の看護師や患者に片っ端から声を掛ける。

 急ぎ足に――いいや、最早全速力で駆けずり回って。そして俺は、病院の屋上にまで辿り着いた。


 空調が効いた病院内を走っていたにも関わらず、俺の体は汗でびしょ濡れだった。もしかすると、それは冷や汗であったのかも知れない。何か嫌な予感がしていた。


 ――盲目のままでどうやったのか、杠は安全策を乗り越えて、一人夕焼けを見据えていた。

 嫌な予感は増して行く。

 心臓の鼓動は速まり、それは警鐘へと姿を変えて脳に響く。


 自殺。


 考えるまでもなく体が動いた。

 屋上から身を投げ出し、飛び降り掛けた杠の腕を掴み、引き留める。


「杠。君の事が好きだ、ずっと俺を愛していてくれてありがとう。君は視力を喪ってしまったけど、それでも俺は君を愛している。俺を好きで居てくれる君が、堪らなく愛おしい。生まれて来てくれてありがとう――どうか、死なないで――!」


 自分でも驚く程に舌が回った。心はやけに冷静だ。

 だから、分かってしまう。


 ――あぁ、どうせ俺の言葉なんか、届かないんだろうな……。


 杠は、一瞬だけ目を見開いた。

 それだけだった。


「はっ」


 彼女の嘲笑は、果てしない絶望のようでもあり、どこまでも続く落胆のようでもあった。


「今更、なんなんですか。そんな言葉でわたしを止められるとでも思っているんですかッ。わたしを、わたしの事を、そんな軽い女だと思わないでくださいよッ!!」


「思ってないよ、そんな……でも、実際に君が望んでいた言葉じゃないか。喉から手が出る程欲しがっていた言葉を、想いを、偽って! 今後の人生全部懸ける積りで口にしたってのに――その言い方は酷いでしょ……!?」


「そうですよね、ありがとうございます。本心で語ってくれて……でも、その気持ちには応えられません。恋愛感情も無しに、わたしは優希先輩と付き合いたくなんかないんです。先輩のそういう目なん、て……そっ、その申し訳なさに、申し訳なさに塗れた瞳なんか! そんな動機で、そんな、償いの為だけにわたしと添い遂げようとする先輩なんかッ――」


 最期に、彼女は、泣いて見せた。

 だから、俺もそこで初めて、涙を見せた。


 傷を負ったのは、君だけじゃない。

 君の所為だ。君の所為で俺の人生は狂わされた。


 君が答えのない問いを提示し続けるから。だから俺は思い悩んで、出した結論まで否定されて。何が正しくて何が間違っているのか、もう何も分からない。

 自罰的で、杠には何もしてあげられなかったけれど。償いにはなっただろうか。


 尤も、杠は償いなんて求めてはいなかったようだけれど。


「――そんなの、見たくありませんでした」


 言って、彼女は俺の手を振りほどいた。


 見ていない筈なのに、

 彼女の、二度と光の宿らない双眸は、確実に俺を見据えていた。見据えたままに、俺の視界からは消えて行く。


 行くなとは言わない。

 引き留める事も出来ない。


 俺は彼女の何でもないのだ。彼氏でもなければ、血縁者でもない。

 強いて言うなら、先輩。


 だから、今になって俺に出来る事なんて殆ど無い。

 『独りにしない』だなんて、そんな無責任な事は言えないけれど。

 今だけ、この一瞬だけ。

 彼女が地面に到達し、首がひしゃげ、頭蓋骨が割れ、臓腑がぐちゃぐちゃになって、その命を散らすまでの刹那だけは――


「俺も、もう生きたくない」


 ――誰よりも近くに、居てあげようと思うのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

盲目の読書家 零河 昏 @aburaage_10

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ