ヴィーダーデラブー

尾八原ジュージ

ヴィーダーデラブー

 満月から三日経った明るい夜、ナ族のシェナリは突然「イナ憑き」になった。十三歳の少年は、自分の背の三倍もある棕櫚の木に、猿でもこうはいかないという速さでひょいひょいと駆け上がり、あれよあれよと言う間にそのまま木々を伝って森の中に消えていった。

「イナ」とはナ族の言葉で「森に棲む正体不明のもの」というほどの意味だという。ひとがイナに憑かれて森に消えるというのは、彼らにとってはままあることであった。このときはそれがたまたまシェナリだったというわけだが、これが常にない大問題になった。というのも村ではすでに、彼を隊商に売ることが決まっていたのである。

 山河を越えて遠方の町や村を繋ぐ隊商は、この頃非常に重要な役割を担っていた。この辺りの風土病に効く薬も、各種の儀式に欠かせない香料も、隊商なくしては手に入れることがたいへん難しい。ナ族のひとびとはなるべく有利に取引を行うため、十分とは言い難い金銭や物品に加えて、彼らに人間を売っていた。

 我々の基準からすれば、ナ族のひとびとには美男美女が多い。褐色の肌に黒くてまっすぐな髪をして、手足はすらりと長い。加えて珍しい藤色の目をしているものが多かった。シェナリはナ族の典型のような姿をした少年で、しかも父母を亡くしていたから、何年も前からこの取引はまとまっていた。

 であるからして大騒ぎになった。ナバヤはひとつ年下のシェナリと幼馴染で、すぐに捜索のため駆け付けた。少し欠けた月が煌々と照る中、やがて誰かが棕櫚の木の上に人影を見つけた。夜闇の中でもナバヤにはそれがシェナリだとわかった。左腕に銀色の細い腕輪をはめていて、それが月明かりの下で光った。

 村人はしきりに彼の名前を呼び、それが通じたのか、シェナリは木の幹を伝って地上に降りてきた。もうかなり近くなったというとき、シェナリは突然蛇のように体をしならせて、いちばん近くにいた男の左耳をがちんと噛み切った。獣のような悲鳴が上がった。

 シェナリは耳を咥え、にやにや笑いを浮かべたまま、棕櫚の木をふたたび駆け上っていった。やがて木のてっぺんから、男のつけていた耳飾りだけが落ちてきた。


 シェナリ――というよりは彼の体を借りた妖物は、森で一番高い木のてっぺんに登り、器用にもそこにたて籠った。イナ憑きであるから、数日間ものを食わなかったとて何とでもなるらしい。

 ナ族のひとびとはかわるがわるその下に通って、シェナリの身体を返してくれるよう頼んだ。ナバヤもまた熱心に通った。木の下でシェナリの名前を呼ぶと、上の方からぴいと口笛が聞こえることがあった。そいつを返してくれと叫ぶと、けたけたと笑う声が返ってきた。

 次第に大人たちの顔に焦りが見え始めた。隊商が近づいていたのだ。到着前にシェナリを取り戻さねば取引に支障が出る。出れば薬を手に入れるのが難しい。ナバヤの家では母親と弟が風土病に倒れ、命が削れていくのを待っていた。


 ある夜、ナバヤは少ない酒を持ちだして、例の木の下に向かった。そして「イナと話したい」と呼ばわり、しばらく待った。

 やがて上から「おい子ども、おれを呼んだかい」と放り出すような返事が返ってきた。

「まぁかまってやろうか。ちょうど退屈していたから」

 そう言うなり、シェナリの体を乗っ取ったものがしゅるしゅると木を降りてきて、ナバヤをひょいと小脇に抱えた。そしてまた、驚くべき身軽さでしゅるしゅると上に登った。ナバヤはあっという間に一番高い木の上に連れてこられた。常にないほど月が近くに見えた。

 今度は額にぴったりと掌を当てられた。「おれの目を貸してやる」

 妖物が低い声でそう言った途端に、ナバヤの視界は飛んだ。

 黒々とした広大な森を越えた。そして遠い海に浮かぶ漁火を見た。

「こいつはあれを見たがっていたのだ」

 そう言われて我にかえると、ナバヤはやはり元の木の上にいた。脇にいた妖物は自分の――シェナリの胸元に手を当てて話を続けた。

「船でどこか遠くへ行きたいと言っていた。隊商と共に行くのではなく、自分だけで行きたがっていた。こいつはみずからの末路を知っているぞ。隊商と行けば、まもなくさる金持ちの手元に渡ることが決まっている。そいつはこいつがもうふたつかみっつ年をとるのを待ってから、殺して剥製にするつもりだ」

 ナバヤは頭の血が一度に凍ったような心地がした。なぜシェナリはそれでも隊商に行くつもりだったのだろう。ナバヤがそう問うと、

「隊商の持ってくる薬がなければ、おまえの母親も弟も死ぬそうじゃないか」

 そう言って妖物は笑った。ナバヤは何も言い返せなかった。

「おい子どもよ、どうする?」

 と、妖物はシェナリの口を借りて言った。

「どうする? どうしたい? こいつを返してほしいか?」

「わからない」

 ナバヤは素直に答えた。薬は必要だが、シェナリが踏み入れねばならない運命のことを思うと、すぐに返してくれとは言えなくなっていた。

 家族と友だちの命を引き換えにすることは想像するだに耐え難かった。だが、自分が代わりに隊商へいくことはできない。ナバヤの顔には左半分を縦に割るような大きな傷が走っていて、剥製にするには見た目を損ねすぎている。いずれ苦海に落ちて死ぬというなら、シェナリはイナ憑きのまま木を伝って、どこまでも逃げた方がいいのではないかと思った。だが母と弟の顔が目に浮かぶと、そうしてくれとは言えなくなった。

「シェナリはどうした」

 そう聞くと、相手は「おれの隣でちゃんと世界を見ている」と答えた。シェナリの肉体の隣にはナバヤ以外誰もおらず、そこに視線を向けているのを悟った妖物は「そこではない」と言って笑った。

「おい子ども。お前は酒をくれたし、それにこいつはお前のことが特別好きだそうだ」

 妖物は突然そう言うと、シェナリの美しい顔ににやにやと人外の笑みを浮かべた。

「そこでおれの名前のひとつを教えてやる。おれの名前はヴィーダーデラブー」

 ナバヤは驚きつつ、その名前を口の中で繰り返した。ひとの名前ではないなと思った。妖物は続けた。

「おれはひとの魂を入れ替えることができる。お前が望むなら、お前とこいつの魂を入れ替えてやろうか」

 ナバヤははっとして目を見張った。それならば友だちと家族の命を引換ずに済むのではないか。ところが突然、妖物はシェナリの喉をのけぞらせて笑い始めた。

「ははは。こいつ怒っている。すごく怒っているぞ。ははは。わかった、わかった、しないよシェナリ。それはやめよう」

 そう言うと、ヴィーダーデラブーはナバヤの顔をすっと真っ直ぐに見つめた。「おい子ども、やっぱりこの話はやめだ。で、隊商はいつ来るのだ」

「明後日だ」ナバヤは問われるままに答えた。

「わかった。ではお前はもう帰れ」

 言うが早いか、ヴィーダーデラブーはナバヤの体をまた小脇に抱えて飛んだ。数秒のち、かれはひとりぼっちで自宅の前に佇んでいた。

 シェナリは翌朝、ふいに木から下りて自分の家に帰った。そして翌々日、なにごともなかったかのように隊商に連れられていった。

 出立の直前、シェナリは一人でナバヤの家を訪れた。いつもより良い服を着て、両腕に腕輪をはめていた。黒髪が肩の上で渦を巻いていた。彼は別れを告げようとするナバヤの耳に素早く顔を近づけ、

「そのうちこいつと、だれかの魂を入れ替えてやるからな」

 そう言ってナバヤの耳をひと噛みした。それから美しい唇を横に広げて、けたけたと笑った。


 五年が過ぎた。ナバヤの母は死んだが、弟は薬に頼りながらまだ生きている。

 ナバヤは一度、降霊術師にシェナリの魂を降ろせるか頼んだことがある。降霊術師は首を振ると、「そいつはまだ降ろせない」と言った。ならばシェナリはどこかで生きているのだろうとナバヤは思っている。

 ヴィーダーデラブーがどこへ行ったのかは、まるでわからない。

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