蒼穹のツバサ
此木晶(しょう)
蒼穹のツバサ
鼓動がビートを刻む。モニターの隅に映る数字の減少に合わせて、テンポを速めていく。時間と共に、ゆっくりとゆっくりと緊張の圧力が高まっていく。
無慈悲に刻まれるのはミッション開始までの残り時間。言い換えるならば、それは戻って来られる保証のない片道切符が切られる瞬間。
その事実はじわりじわりと沈黙を落とし、真綿で首を絞める如く暗く重い空気を作り出す。
そんな中。
「エアレースって知ってるか?」
努めて陽気な声が共有回線の中で響いた。
「あれか」「リノのだろ」「モーターレースだな」
言葉は違えども、意味するところは同じ『知っている』という十九の返事が答える。
と為れば、続く言葉は大体決まっている。
「それがどうかしたのか」と誰かが発した問いは、誰も抱いた疑問。
「へへ、実は、昨日ベースのライブラリーで映像データ見つけてよぉ。凄かったぜ」
「なにぃ、てめなんで教えなかった」
「るせ、女ンとこしけこんでたのはお前の方だろうが」
「そういう時は全員に緊急連絡まわすのが礼儀ってもんだ」
それぞれに事情は違えども、望むのは唯一つ、『空を取り戻す』その為に片道切符を手にした男達だ。『空』に対する想い、情熱は人一倍強い。
地上に出ることすら叶わない今の時代では特に。
『空』は奪われた。十数年前、突如飛来した『黒い月』は高度一万メートルの位置に停止し不可視の力場を発生させた。後に天蓋と名づけられる事になるそれは、外側からありとあらゆる物を素通しとしながら、内側からは電波、物質を問わず殆ど全てを遮断する。結果、天蓋に覆われた地球には無数の宇宙線が降り注ぐ灼熱地獄と化した。地下へと生存の場を求めた人類は、幾度もの試行錯誤の末、天蓋突破の手段を見つけ出す。
それは、音速の五倍の速度で天蓋へと突入する事。
たったそれだけの事を得る為に失われた命の数は数知れず、それを実現する為に払われた犠牲は膨大だ。
例えば、プロフェッサー・アレクは数度に渡る被爆により避けようのない病を患いながらボロボロの体で死のその瞬間まで天蓋のメカニズム解析に尽力した。
かつてのイーグル・ドライバー、ブレント・ギブソンは天蓋突入実験の最中、『黒い月』からの攻撃に依って命を落とした。
具体例を挙げていけば限がない。
今ある成果は全て、屍と悲しみの涙と誰かの無念の上にある。
「すごかったぜ、アンリミテッドクラスのゴールドファイナル。あの一騎打ちはわすれらんねぇ」
「あー、くそ。見たかった」
「もう見られねぇ、だろうな……」
「死にたくねぇ」
その一言に沈黙が落ちた。
忘れようとしていた事実が浮上する。水底から上る泡のように現れ弾けた。恐怖が伝染する。
「いやだ」
狂気が形成される。
「俺も死にたくねぇ」
絶望が顕現する。
沈黙。死へと至る緩慢な時間が過ぎる。
諦観が、諦めの言葉が低く、細かく震える中、その問いは発せられた。
「なあ、その記録。何年の奴だった?」
「……ぁあ、悪い覚えてねぇ」
「そうか。アンリミテッドのゴールドファイナルの一騎打ちって言ったよな。その内の一機の翼は、何色だった? 純白か。そのノーズアートは天使の翼だったか?」
声に必死さが混じる。
「待て、待ってくれ。今思い出す。……確かにそうだ、純白の機体だった。確かにアレは、天使の翼だったぜ。相手は」
「相手は濃紺の機体、『ターコイズ・ブルー』。パイロットの名はスキップ・フューリー。白い機体の名は『ホワイト・ウィング』。パイロットはコージ・シンジョウ。俺の爺さんだ。は、ははははは。まだ残っていたんだなぁ」
最後の方は涙で擦れていた。泣きながら、笑っていた。
だけどそれは、希望の涙。故に、ゆっくりと絶望を駆逐する。
「本当か、それ本当なのか」
誰かの声。確かな興奮がある。
リノのエアレース。
レプシロ機をもって約十三キロの円形競技場を電柱ほどの高さの超低空で時速八百キロのスピードで疾駆する、頭の螺子が二、三個飛んでいなければ出来ないようなレースだ。それは、星に届けと願う熱き想いを忘れられない飛行機乗り達が繰り広げた熱き饗宴。
リノの空は気が遠くなるほど真っ青で、蒼空に響く爆音は、見るものの魂を揺さ振り震わせたと言う。
「ああ」
「名前が違うぞ」
「婿入りしたんだよ」
「なんで黙ってた」
「言っても信じねぇだろう。そんなこたいいんだよ。とうに失われたと思ってた映像があったんだぜ。爺さんに何度も何度も聞かされて見せられて、もう一度見たいと思ってたレースが。約束しろ。帰って来たら俺に映像データの場所教えるって。いいな。帰ってきたら、だぞ」
信じられない事を叫んだ。
彼らが駆るは、進路変更に必要な最低限の推進器と二回こっきりのブースターしか備えていない、飛行機と言うよりも弾丸に近い代物だ。実際、地下一千メートルよりマスドライバーに依って打ち出される特攻兵器だ。口さがない連中などWWIIに実際に使われた日本の有人特攻兵器に準え、『オウカ』もしくは『バカボム』などとも呼称する。
言ってしまえば、有人ミサイル。『黒い月』からの攻撃を避けるためだけに乗せられるパイロット。気休めのように脱出機構は備えられているが、生還の確率などゼロに等しい。
なのに。それでも。それであっても、生きて戻ってくるのだと、生きて戻って来いと叫んだ。
恐怖や絶望は伝染する。
だが、希望もまた人の間を渡り、その輝きを増すのだ。
「おれにも教えろ」
「みんなで見りゃあいいだろうが」
「よし、俺はとっときの店を教えてやる」
「では、オレも参加希望だ」
沈黙がどこかへ消し飛んだ。緊張はとうの昔に品切れた。そこにあるのは、ただ空に憬れ愛した男達の姿だけ。
「間もなく時間だ」
共通回線に映像が入る。映ったのは初老の男だ。今回の計画の最高責任者、左目は潰れ、しかし残った右目の輝きは冷たく鋭利だ。
「ちったぁましな顔になったな。何があった?」
その負傷がなければ自らがこの作戦に志願していたであろう、いや、実際左目が利かない状態でありながら参加しようとし止められた経緯を持つ。軍人は、人の為に戦いの矢面に立つが勤めと信じ実践する愚直なまでの真っ直ぐな、生粋の、叩き上げの軍人。その人柄からベースの人間からは『親父』と呼ばれる。
「別に。何もないさ。親父」
誰かが答えた。多分不敵な笑みと共に。
「そうか、ならいい。今更とやかく言おうとは思わん。詫びるつもりもない。ただ、これだけは言っておく。帰ってきたらたらふく酒を奢ってやる。行って来いっ」
故に、雄叫びが反撃の嚆矢となった。
アラームが鳴り響く。
神経加速剤がパイロット達に投与されていく。
対衝撃用シートが機構を展開しパイロットの体を固定する。自由に動かせるのは手首から先と眼球だけになる。網膜に目まぐるしくデータが投影されていくが、パイロット達にはゆっくりと、酷くゆっくりと映る。やがて、射出に必要な準備が全て終わる。
カウントダウン。
オペレーターの一人が『幸運を』と共有回線に流した。
加速が始まった。体感的にはゆっくりとした、けれど現実には瞬き数度の距離を駆け抜け地上へと打ち出される。くすんだ空が広がる。天蓋に遮られ、歪められた空だ。そこに、人が焦がれ愛し、挑み、夢見た面影はない。何ものをも拒む無慈悲さがあるだけだ。
直ぐに天蓋の持つ反発力に接触、ビニールの膜に突っ込んだような感覚が伝わってくる。瞬間、ブースターに点火。
加速。加速。加速! 突き抜ける!!
天蓋の中は極彩色だ。無造作に選んだインクをぶち込んだように渦を捲き、色彩を変える異界の大気を切り裂いて機体は飛ぶ。
「撃って。撃って、撃ちまくれ。残弾なんざ気にするな。ありったけ全部であいつらを援護しろ。鉄骨でもスクラップでも何でもいい、あの空に届くんなら何でもだ」
ブロント・ギブソンの犠牲と、プロジェクト・シュート ザ ムーンの失敗により『黒い月』に迎撃機構が備わっているのは分かっている。その迎撃性能を踏まえた上での有人特攻兵器だ。二十機つぎ込めば二割は『黒い月』に辿り着けると計算が出されている。援護の必要など何処にもない。寧ろ、その行為はベースの位置を『黒い月』に知らせる事に繋がり、ベースそのものを危険に晒しかねない。それでも、『親父』は命じ続ける。たとえ少しでも、『黒い月』のシステムを撹乱し、奴らの援護となるように。それしか出来ない自分を責めながら。
現実から乖離したような、剥離して漂っているような理解の範疇を超えた空間で、閃光が散る。果たしてそれが、援護射撃のミサイルが迎撃されたものなのか、僚機の爆発なのか確かめる余裕もないままに突き進む。衝撃に機体は揺す振られ続け、『黒い月』からの攻撃をバレルロールで避ける度に強い慣性が体を締め付ける。感覚は暴走し、神経は焼き切れる寸前もいいところだ。それでもただ、前を向き、空を目指す。
不意に視界がクリアになった。天蓋を抜けたとデータが示す。ならばその先にあるのは、『黒い月』。光を吸い込んでしまう漆黒の、輝きのある闇の球体がある。本当に破壊できるのかと不安を掻き立て、恐怖をもたらし、絶望を促す異容が、そこにある。
だが、そんなものなど最早関係ない。そんなもので奴らを止められよう筈もない。
なぜならば!
空がある。
青い、何処までも蒼い透きとおった本当の空が。熱望し、切望し、願い焦がれた空が、今此処にある。蒼穹の空が!
「ひゃっほう!」
誰がとなく叫んでいた。
そこにあるのは喜びだ。『今、空に在る』という純然たる喜びだ。
だから。
更に、加速する。
「天蓋突破。七機確認しました!」
オペレーターの悲鳴のような報告に、『おお』と空気が震えた。
「モニターに映せ」
「はい」
いつもならば気にもならない筈のもどかしい一瞬が過ぎ、大型モニターにそれが映った。
「ツバサ……?」
その場にいた誰もがそれを見た。『黒い月』へと向かう機体の後部から伸びる、天蓋を通してさえなお白い二条の翼を。
「ヴォルテックス(翼端渦流)?」
そんなものが発生するような大きな翼をあの機体達は備えていない。
ならば、あれはなんなのか? 夢でも見ているというのか?
誰もそれに答えは出せず、けれど等しく一つの想いを抱く。
そう。
まるであの翼を駆って空を飛んでいるかのようだ、と。
蒼穹のツバサ 此木晶(しょう) @syou2022
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