終電明け

緑茶

終電明け

「クソボケがよ」


 俺がその一言を漏らすときは決まってムカついていたときであり、誰にもそれをぶつけられない時だ。そして、ここ数年ずっとそうだ。


 俺は終電に乗って帰宅している。足はパンパンで、目はずっとずきずきしている。身体はどっしりと一枚の熱した板が入ったみたいに熱いし、

 外に流れていく景色は点滅するストロボにしか見えない。俺は何度も寝そうになるが、もし寝過ごしたら大変なので我慢する。

 どうせここで変に寝てしまったら、それを達成感にするのはいいものの、帰宅して眠れなかった場合、また自分に不眠症のレッテルを貼って落ち込む羽目になるのだ。

そもそも俺は立っているのだ。つり革だけが支えだ。


 青白い人口の光と単調な駆動音が響く車内は、俺と同じような状況の中にある連中が行儀よくロングシートに収まっていて、うつむいている。

 そして誰も座席を譲らない。

 俺に。


 その日俺は、俺の先輩であるおっさんに注意された。それでムカつくなら酒でも飲めばいいのだ。でも俺はそうするわけにはいかない。

 なぜならそれは俺のミスが巻き起こしたことで、結果俺は誰の後ろ盾もないままその悲劇を引きずっている。

 ずっとそうだ。俺はまったき孤独であり、誰も俺を救おうとしない。でもそうならないのはひとえに俺がどうしようもない間抜けだからで、

 そもそも俺がちゃんとしていれば、ミス自体起きなかったんだから。でもちょっと待て。俺のミスが俺に起因するならば。


 けっきょくのところ、俺を作り出したものに原因があるんじゃないのか、そう考えるのが筋じゃないのか。

 俺を作るもの。

 俺を、今の俺にしたもの。


「だから、あの女のせいやぁ言うとるやろがぁ、アホが、アホお」


 大声。

 優先座席にそいつはどっかりと座っている。浅黒い肌にシャツ、ハーフパンツ。四十過ぎなのにサンダル履きですね毛が見えているしおまけに臭い。

 周りには誰もいないが気にするそぶりもなく通話している。

 殺意だ。はっきりと。

 今ならそのクソボケを、そいつに投げつけてもいい――でも。


 俺にはできなかった。

 俺には奇矯な性質があって、それは俺がムカついた奴は、だいたい俺がこれまで苦手だった奴に接続されてしまうということだ。

 つまりそれは、俺にとっての怖い存在になるということだ。くろい、もやのかかった、手出しできないなにか。

 だから俺は怖くなって……まるで敗残兵のような気持ちで、そいつから距離をとった。


 しばらく電車に揺られていると、座席の一つが空いているのに気付いた。

 座らない手はなかった……俺は躊躇なく座った。


 またしばらく進む。もうすぐ停車駅だ。降りないと。


 ……そこで気付く。

 俺のすぐそばまで、老人が歩いてきている。杖さえついていないが、六十は超えているだろう。

 なんでこんな時間に。

 いやそんなことはいい。

 俺の中で、一つの問題が持ち上がる。

 俺は席を譲るべきなのかどうか。

 ふつうは深く考えない。

 だけど、その時の俺はひどく傲慢になっていた。先ほどまでの不快な経験を免罪符にしていたのだ。

 俺は、時間がどろりと緩やかになって、その老人と目が合う瞬間まで、延々と考えていた。考えて考えて、答えの時が、先送りになって……。



 突然強い光と衝撃が襲ってきて、俺は意識を失った。



 一瞬寝落ちでもしたのかと思ったが、どうもそうではないらしかった。

 頭をおさえながら起き上がると、わずか数秒ほどで、なにか普通じゃないふうを、感じ取った。


 車内が異常に暗い。

 ゆっくりと輪郭が掴めるようになると、それが奇妙に傾いていることに気付いた。

車両全体が、ななめになっている。

 そして、尻が妙に、座席側に引っ張られているような気がする。

 本能的に俺はぞっとする。

 やばい。

 何かが。

 ぜんぶが変わっている。さっきまでと。


 換気のためほんの少し開けている車窓からは、トンネルの内側の壁が見えて、それが停止していて。

 わずかな赤い誘導灯だけがちかちか光っている。

 あとは、静かなもので。何も聞こえない。

 そう、何も。


 俺は、息が。ひゅっと詰まった。

 他の連中はどうしたんだ。

 俺は座っている。では、隣は。

 隣にも、座って――。


 そいつは、俺と同じようにスーツを着たサラリーマンだった、それはいい。

 問題なのは、そいつの肌全部に赤い斑点ができていて、瞳孔が黒く濁っていて、口は木彫りの人形みたいにぱっくり空きっぱなしになったままだということだった。


 そして、同じようなやつが、座席のそこらじゅうにへばりついていて、みな、おのおののポーズをとりながら固まっていて、シートと一体化していた。

 誰もいなかった。ただそこにあるだけだった。


 俺はそこから意味を探ろうと必死になったし、しぜんと、直前まで俺のところにやってきていたあの爺さんを探した。


 けど、いなかった。

 そして結果。


 俺は嘔吐した。

 胃の中を全部出し切った挙句、喉が切り裂けそうな痛みの伴う、あまりにも激しい嘔吐だった。


 それでか、どうかは知らないが、俺は強引に、周りの状況を再確認した。

 またしても吐きそうになったがこういうことだ。


 列車は、あの衝撃のあとで、倒れたかなにかで、こうなった。

 それに加えて、どういうわけか、本当にどういうわけか、ああ、考えたくもないことだが。

 みんな死んでいる。

 救いを求めても同じことだった。連結器の向こう側の車両も少し覗いたがどうも一緒の状況らしかった。


 外の様子を確かめたほうがいいのかもしれなかった。

 脱線、だったりするのか。でもそれなら死体の説明はつかないし。

 あれ、俺はどうしてこんなに冷静なのだ。

 まったくわからない……。


 ――まあ実際、その思考回路のロジックは説明できる自信があるのだが、今はいい。

そんなことよりも……。


「あ、ああ……なんや、なんやねんこれ」


 声がした。

 そちらを見た。


 あのクズ男だ。床から起き上がって頭を振っている。

 安堵で胸がみたされる。

 そいつが誰でもいい。とにかく居る。あるじゃなく、居るんだ。

 俺はなんだか、すごい勢いでそいつのことが好きになりそうになって。

 そこで見てしまった。


「にげ、」

「ああ、お前、なんや。おい、どないなっとんねんこれ、なんやねんこれ、どないかせえやこれ! おい駅員――」


 駅員ではなく車掌だとかそんなのはどうでもよくって。

 それ以上言葉は出なくって。

 俺は見た。

 そいつの背後に人が立っている。

 どこからどうやって来たかとかは分からない。理屈に合わないのだ、だって扉が開いてないんだから乗り込む余地なんてないし、他の車両から移ってくるなら俺の前を通らなきゃいけない、ここは最後列だ。

 だから、そいつはいきなり現れたとしか言えないのだ、真っ黒な空間から、霧のように。


 そいつは、でかい図体の男だった。

 巨大なはんぺんに手足が生えているようにも見えた。目がいかれたのかと思ってしばたいたが変わらない。デッサンが狂ってるようで、三半規管が悲鳴を上げる。

紺のスーツを着ている。髪はびっちりとしたツーブロックで。


 ……ああ。見るべきじゃなかった。

 そいつの目は、らんらんと輝いていたのだ。


 その時点で、何かを悟っていたのだろうか。俺は。


「ああ、なんやお前、」

「休日は三日あるといいですよね! でもそれをしないということはやはり社会へのイノベーションが不可欠! 労働は悪なのですから、抜本的解決!! しましょう、そのためにはですねえ、必要なものとそうでないものを分ける、覚悟、決断!!それらをやるだけの力を僕ら自身で気付いていきましょう!! うちの会社に入って個性を発揮しましょう、さぁさぁさぁ!!」

「おい、お前、やかましいなぁ、どないなっとるんや…………ってちょっと、なんや、これ、俺の周りにあるやつ、全部……」

「成長は必須です! それができない人は……今すぐに、畜産業界にでも戻ってください! そこに未来は、ああああありません」


 俺は、止められなかった。

 そいつの手の甲が騒ぐ男の顔に伸びて、その大きな皮膚から、コオイムシの卵みたいに白い綿棒みたいなのがびっしり生えて、その一本が男の鼻の穴に突っ込まれて、そこから何かが流し込まれて。


「あが、がが~~~~~~~~~~~~っ、ぴょおおう」


 ゴムを引っ張ったみたいに男の身体が奇妙にねじくれて、その場で倒れて。

 あとは、さっきまで見ていたように、その全身に、ぼつぼつと赤い斑点ができて、硬直した。


 パサリという音。

 俺はもうそいつを恨む道理はなくなった。

 異常な男が、俺のほうをむいた。

 男の目はいきいきとしていた。


 そして、歯を。

 むきだしにした。

 白い、真っ白な歯を。

 そしてそれがひらいて、言葉を出した。

 水の詰まった耳で聞いたような、頭の中に直接届くような、やけに甲高い声で。


「おつかれさまですって言うべきじゃないんですよ!!お元気さまですとかそういうのにしなきゃ!!」


 ……俺は。

 立ち上がって、はしりだした。



 ドアを開けて違う車両に入る、そこで一瞬目を瞑って、次に開いた時には、何もかもが元通りになっていることを期待したがそうはならなかった。

 振り返ると奴がゆっくりとこっちに向かっているし、俺の周囲には、誰かだった何かが散らばっている。

 俺は荒い呼吸をしながらひたすら逃げている、逃げている。


「筋トレをすれば解決しますよ!! 筋トレをすれば解決しますよ!!」


 声が近づいている。逃げる。

 逃げながら、スマートフォンを取り出す。

 それは当然圏外だった……――。

 ……わけではない。

 みっつ、柱が立っている。そう、通話が繋がるのだ。

 だがそこで俺は躊躇した。

 俺の心に滞留する何かが引き留めた。どうして?


「体を動かせば、ポジティブになりますよ!!!!」


 そいつはやってくる。

 扉を開けてやってくる。

 身体がでかいので、少しかがみながらやってくる。

 更に前に進む、進む。

 俺は逃げる、逃げる。体内の温度がどんどん上がってきて、息が加速度的に荒くなっていく。その中で自問自答がぐるぐるぐると渦を巻く。

 なんでだ、どうして電話しない、緊急通報すればいいだけだ、圏外じゃないんだから。警察じゃなくたっていい、どこだっていい、お前はそれほど国家機関に恨みはないはずだ。

 むしろ恨む奴らを軽蔑する側だろう、逆張りは得意なんだ、じゃあなんでお前はいま、かけようとしないんだ、どうしてどうして。

 俺の手は震えている。スマホは、ただ持っているだけで何の役にも立っていない。

よろめきながら斜めになった車両を奥へ進んでいく。振り返ると奴はのっそり進んできている、一歩一歩がでかいから、すぐにでも追いついてくる、おまけに、ああ、最悪だ――。


 奴は、足元に転がっている人間だったものを、蹴散らしながら進んでいるのだ、何もそこになかったかのように、押しのけている、そのたびヒトガタはねじれて転倒する。かつてないほど直接的な嫌悪感がこみ上げてくる。


 おまけになんだ、あいつは……ああ、あいつは……おまけにツーブロックだ…………。


「戦争に反対するために、持続可能な社会をみんなで作っていきましょう! これを僕はエヴァリュエーションと呼んでいるんですが!!!!」


 くそっ、くそっ。

 俺の心は、一度嫌悪感に支配されるとそれが自動的に恐怖へと変わるという厄介な仕組みを持っている。

 だから数秒、ほんの数秒動けなかった。

 だから俺は、そいつがいよいよ俺に向けて手を伸ばせる位置に近づいてくるまで、逃げられなかった。


 ……体に電流が走る。

 背を向ける。走れ、逃げろ、今すぐ。

 しかしそこで。

 ひっかかった。

 俺は転倒した。人だったものに引っかかった。

 その拍子に、俺の手からスマホが転がり落ちて、それはあろうことか、ああ、そいつの足元にいって、それから……。


 ばきっ。

 ひどくかわいた軽い音と一緒に。

 頼みの綱は破壊された。

 まだ何もしていないのに。


 そしてそいつは俺のところにやってきて、目の前まで。

 それから、またあのコオイムシの手を俺のところに差し出して……。

 ああ、俺はあっさりと死ぬ、死んでしまう。

 あの、転がってる連中と同じように。どうしてだ、どうしてこんなことになったのだろう。何もかもが訳が分からない、と同時に、何もかもが用意されたことのように思えて仕方なくなってしまう、急に突然に。それは発作だ。

 本当に良くある。一日の最後が嫌な気持ちで締めくくられると、俺は、俺をこんな気持ちにさせたすべてが、あらかじめ用意されていたように思えるのだ。それは陰謀論じみた考え方で、俺はそういう時、何もかもに当たり散らしたくなる。

 だから俺はそいつから目を離せなかったし、他のことを考える余裕なんてなかったはずなのに。


 あれっ。

 そもそも。そもそも俺は本当に死にたくなかったのだろうか。

 ……あれっ??



 俺の家は昔ながらの家で、それは建物の作りがどうとかいう話ではなくて、精神的なものだ。

 男は一家の柱になれ、女は男に仕えろ。そんな中にあって俺は育った。俺は幼いころから母が祖父母に敬語を使ってるのを見ていたし、俺の親父は、俺の食事が遅いと何度もしかりつけてきた。

 でも俺は当時それに対して何の違和感も覚えなかったし、俺は単純に特別間抜けで鈍くさいと信じ込まされていた。いや実際そうだと思うけれども。

 とにかく俺はたぶんいわゆる抑圧というのを受けていたのだと思う。

 お前は男としてこうあれ、だからいい会社に入れ、父さんもそうしたんだ。

 うん、わかった。俺は頑張る、勉強をたくさんして、それからそれから。

 ……俺は鈍くさい。

 おまけに、すっかり何かを決めることが出来ない。

 だから、俺にはこれぐらいがちょうどいいし、何かを自分でしてこれなかった罰なのだ、そういう気持ちで俺は今の会社に入った。

 俺は仕事ができない。できない割に、一丁前に社会規範だけは身につけていたから、単なる無能として社会の構成員でいられる。いられてしまう。

 社会は本当のクズは助けてくれるけど、半端なクズは自助努力の対象だから救ってくれない。ちょうど俺のような。

 だから。まぁこれは仕方ないことだ。どれだけ残業しても、どれだけ心身に不調が出ても、仕方ない。

 仕方ない、しかたない……。



 いや、うそ、嘘嘘嘘だ。

 やっぱりなしだ。


「うう、あああああ…………」


 死にたくない。

 今ここで死んだらどうなる、全部がなしになる。

 死ぬこと自体は怖くない。だって死んだあとは何もないのだから、考えたって仕方ない。

 じゃあ何が嫌なんだろう。

 要するに、それは、ああ。


「いやだ、いやだぁっ……」


 死んだら、まるで俺が、何もしてこなかったみたいじゃないか。

 これまでのぜんぶで、なにも。なにひとつ。

 俺にはわかる。

 それだけは明確に嫌だ。


 ――今日だって。仕事をしてきたじゃないか。


「にくをくわないやつをねっとでさらして、わらいものにしましょおおおおおおおおお」

「厭だぁー------------!!!!」


 そこで俺がとった行動は今思えば錯乱そのもので、俺はたぶんそいつにありったけの『いやだ』をたたきつけようとしただろう。

 こういう時ホラー映画のヒロインなら銃を使ったのだろうが、あいにくそんなものは手近にはなかった。あるのは、足元に転がっている無数のヒトガタだった。


 それは俺に覚悟を問うていた。いろいろなものを乗り越える覚悟を。俺はいよいよ本当のクズになるのか、そう思うと涙と鼻水が止まらない、畜生、ああ、懲役何年なんだ、ごめんよ母さん……。


 ……俺は投げていた。

 ヒトガタは――死骸は軽かった。

 まるでパイ投げみたいに、どんどん投げることが出来た。シュール極まりない光景が始まった。


 俺はおそらくそのとき、頭の中で無限に再生される、今日の上司のことを考えていたのだと思う。そしてそれを振り払うために必死になっていたのだ。おかしな話だ、俺は目の前の怪異のことを、何一つ考えていなかったし、そいつが別物に見えていた。というより、現れた最初の瞬間の、あのどろどろした黒いもやに見えていたのだ。

 それは――いつも俺が帰る前に見上げる、あの救いようのない、真っ黒な空に似ていて。


 気付けば、その怪物がどんどんたたらを踏んで、後ろに倒れこみそうになっていた。

 だけども俺は投げ続けている。


「ごばっ、げほっ、す、スクショ、魚拓、がぼっ」

「うるせええええええ、死ねえええええええええええええええええええええええ」

「べ、ベスト盤、ハッシュタグ、オタ活、がぼっ、げふっ…………もう、やめてくれえええええ…………」


 俺は止まらなかった。

 最後には。

 倒れこんだそいつのもとに駆け寄っていた。

 俺はあろうことか下半身に強い疼きを感じていて、それはかつてないほど自分が強い男であることの証明なように思えて。

 俺は興奮していた。俺は血まみれのそいつを見て、制御できない獣のようなものになっていた。息が荒い。頭があつい。


 はあはあ。はあはあ。もうすぐだ、もうすぐ俺の何かしらが完成する、何だろう、それは……。


「お前には価値がない、お前には価値がない、価値、価値、価値、価値、価――…………」


 うるさい。うるさい、うるさい、うるさい…………。

 俺はこぶしをふるう。

 これまで俺に向けてふるわれてきたこぶしのぶん、俺はそいつを殴ろうとする、無防備なそいつを、てかてかした、紺色のスーツを着た、ラグビーをやっていそうな、不動産業をやっていそうな、ツーブロックのそいつを、思い切り殴りつけて、あわよくば、ぶち殺そうと…………。


 ……そこで、電話が鳴った。

 電話は俺のものではなかった。

 壊れているから当然だ。

 では、誰からだろう。

 振り返る。

 他人の電話だった。

 それが鳴っている。

 誰に向けて?

 それは。

 それは――……。



 ……気付けば俺は駅のベンチで寝ていた。

 駅員に起こされたのだ。

 めをこすって起きると、そこは早朝だった。

 寒い。ぶるりと身体を震わせる。

 そして反射的に、時計を見る。

 そこには時刻と、今日が、今日か明日か、それとも昨日かが表示されているはずだ。


「…………あ」


 結果。

 今日がいつなのかは、ご想像にお任せするとして。


 さて、俺は立ち上がる。

 あれは何だったのかと鈍い頭で考える。

 結果として俺は無傷だし、スマホでニュースを見たところで、何も書かれていない。

 すべては幻だったのか。

 そしてすべては無意味だったのか。

 まるで分からない。


 ……本当に?


「おい、こら、〇〇ぁ」


 電話がかかってきた。

 糞上司からだ。


「お前何してんの?そこで、なあ何してんの?今何時だと思ってるの?ああ、おいこら」

「…………」


 俺の中に、また酸っぱいものがこみ上げてくる。

 怒りと恐怖の間の、あの感じだ。

 しかし、その間にも駅員からのアナウンス。また電車が来るらしい。

 俺はそれに乗って、今から電話の続きの内容を聞かされることになるのか。


「とりあえず言い訳はせんでいいわ、こっち来たら話しよう、な、そうしよう。分かったな、今すぐこい」


 ……俺はこぶしを握っていた。

 傍らを見る。

 同じように、ホームに立っている者たち。

 イヤホンから音が漏れている。掲示板のまとめサイトを見ている。赤文字だらけの動画を見ている。

 しかし生きている。

 俺はこれからどうすべきなのか。

 これから何を選んで、何を決断して、どういう道に進むべきなのか。

 ……まもなく電車が滑り込んでくる。

 俺は、記憶を反芻する。


 俺があの時あいつを殴って殴って、それからあいつはどうなった?

 死んだのか? 死んだなら、俺が殺したということになる。俺の、俺自身の殺意で。

 でも、もはやその事実は確認しようがない。


 しかし。

 俺には選択肢がある。今の俺には。

 その感覚。憑き物が落ちたかのようなそれは、急に胸にすとんとまいおりてきたのだ。

 あの地獄のような一晩があったからか。

 いやしかし、これから俺がやろうとしていることは、結局あの幻の夜がなくても、何も変わらないことであって。


「でも」「だったら」


 俺は何をしてもいいんじゃないか。

 その責任は、自分がとるという前提で。

 俺は大人だし、そうする義務がある。

 それは何もしないよりはずっと大変なことのはずだ。


 でも今は、どういうわけかそれが誇らしいことだと思えるし、そう思えるようになったのは明らかな変化だった。


 そう、俺は何をしてもいい。

 だって、事実がどうあれ、俺の心そのものは、あの化け物と対峙できたんだからな。


 ――俺は笑って、疲れた身体を引きずりながら、再び上司に言葉を返そうとする。

 電車が来る。俺は口を開いて、俺の決断を話す……。


 上司が唖然とするのか、憮然としたままなのか、明日以降何かが変わるのか、変わらないのか。

 それはないしょだ。しかし。



 ――明けない夜は、ない。

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終電明け 緑茶 @wangd1

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