竜を選ぶ

ばーとる

 エメラルドグリーンの海に一艘の船が漕ぎ出だす。海岸線に沿って数時間進むと、ようやく見えてくるのが洞窟の入り口である。歴史よりも古い時代から波に削られ続けたのであろう。船が洞窟に侵入すると、大樹が枝を広げたかの如く、道がいくつにも分かれている。そのうちの1本に、船は這入っていく。


 船には男が数人と、小さな女の子が1人乗っている。奥へ進むにつれて、辺りは暗く、空気は冷たくなっていく。女の子はうつ向いたまま、鍾乳石からぽたぽたと落ちる水の音を聞きながら、寒さに自らの身を抱いた。闇が視界を閉ざすと、彼女の表情はうかがえなくなる。終いには松明の明里のみが漆黒に行くのが見えるのみになった。


 この暗さの中でも問題なく目が見える生き物が、この洞窟には住んでいる。女の子が流した涙をしっかりと目に捉えた彼が、そのうちの一匹だ。


*   *   *


 船という物を生まれて初めて見た。ボクしか知らない隠れ場所で翼を乾かしていると、海の方からやってきたのだ。爺ちゃんから聞いていたけど、人は竜よりも泳ぐのが苦手だから船に乗るのだという。船が洞窟の奥の方に向かうのを、ボクは息を殺して見送る。船の上には、人が何人か乗っているのが見えた。細い腕に細い脚。そして丸い頭。初めて見るけれど、彼らが人間であることは確信できる。


「竜神様や竜神様や、どうか雨を降らせてくださいまし。竜神様や竜神様や、どうか雨を降らせてくださいまし」


 船の方からそう唱えるのが聞こえてくる。ボクは感動した。竜と人、まったく別の種族なのに同じ言葉を使う。これは学校では習うことだけど、実際に聞くとなんだかすごいことを経験した気分になる。


「竜神様や竜神様や、どうか雨を降らせてくださいまし。竜神様や竜神様や、どうか雨を降らせてくださいまし」


 男たちによる唱和は続く。これがはたしてどういう意味なのかはボクにはわからない。竜神様とは誰のことなのだろう。竜の神と言うくらいだから、一番の長老であるボクの爺ちゃんのことを言っているのかもしれない。でも、いくら物知りの爺ちゃんでも、雨を降らせるようなことはできない気がする。


 船に乗ったご一行のことがとても気になるけど、近づきたいと思えるほど、ボクには勇気がない。友達はボクのことを臆病だって言うけど、よくわからない物に近づいて、何かあったら何もかもがおしまいだ。ボクの考えは間違っていないと思う。


 いくら暗闇に強い竜の目でも、角を曲がった船を追うことはできない。ついに、船は見えないところにまで行ってしまった。さて、早くおつかいを済ませて家に帰ろう。ボクは水の中に飛び込んだ。


 夕ご飯に食べる兎の肉と、爺ちゃんのための薬草を買い、家路につく。今日見たものを、早く爺ちゃんに話したい。爺ちゃんに、人についていろいろと聞いてみたい。泳ぐ速度も上がる。


 すると、またさっきの声が聞こえてきた。


「竜神様や竜神様や、どうか雨を降らせてくださいまし。竜神様や竜神様や、どうか雨を降らせてくださいまし」


 しかも、それを唱和する声は、どんどんと大きく響くようになる。来た道を引き返そうかと迷っているうちに、船が再び姿を現した。正面の角を曲がって、こっちに向かってくる。まずい。そう思ったけどもう遅い。


「竜神様!」


 人の男が、そう叫んだ。ボクからは船を見ることができているけど、人にボクの姿が見えているのかはわからない。竜ほどは目がよくないと聞くけど、どれくらいよくないのかは、ボクにはわからない。


「どうか、どうか私たちの村に恵みの雨をもたらしてください! お願いします!」


 額に玉の汗を浮かべ、一番偉そうな人がそう言った。後ろに居るほかの男も、なんだかあわただしく動いている。何をしているのかと思っているうちに、何かが水の中に投げ込まれた。


 女の子だ。


 さっき船の上で涙を流していた女の子。彼女が船から落とされたのだ。どうして? 人も竜も、水の中では呼吸ができない。どうしてあの子を水に落とす必要があるのだろう。こんなことをしたら、彼女は死んでしまう。竜は竜を殺さないのに、人は人を殺してしまうの? そう思うと、同じ言葉を喋ると気付いたときの感動がすーっと消えた。


 船は女の子を捨てると、踵を返してきた道を戻って行ってしまった。本当に女の子のことを見捨ててしまうらしい。


 このままだとあの子は死んでしまう。今はまだ手足を必死にばたつかせて、生きようと頑張っているけれど、限界は遠くない。


 でも、人は怖い。


 助けてあげても、人と言う生き物は仲間のことを殺してしまう。だとしたら、このまま放っておいた方が自分の身のためかもしれない。恩を仇で返すかもしれない。


 ここでボクはあることを思いだした。人は竜よりも体が小さくて弱い。だから、人は道具を使う。船や松明も、人が使う道具だ。でも、女の子は今何も持っていない。だったら、ボクを傷つけるのは難しいだろう。


 ボクは、女の子を助けることにした。


「ほら、背中に乗って」


 女の子は表情をこわばらせながらも、差し出した手を掴んでくれた。


「ありがとう」


 そして、か細い声で、そうつぶやいた。


*   *   *


 家に帰ると、爺ちゃんにとても叱られた。人の子なんか拾ってくるんじゃない。その一点張りだった。どうして? ときいても、答えてはくれない。爺ちゃんは人を忌み嫌っているみたいだった。


 ボクが爺ちゃんに怒られている間、女の子は横で泣いていた。そして、しきりに「ごめんね。ごめんね」と繰り返していた。とても可哀想だ。人間にも捨てられ、竜にも助けてもらえない。彼女はこれからどうしたらいいのだろうか。さっきは人のことを、仲間を殺す悪魔のような種族だと思っていたけど、この女の子は何も悪いことをしていない。この女の子個人には、何も罪なんてないのだ。


 僕は怒った。


 洞窟中に響くくらい大きな轟を上げた。


 爺ちゃんだけではなく、母ちゃんにも父ちゃんにも怒られた。


 でも、そんなのは知ったことではない。


 それからボクは荷物をまとめて、女の子を連れて家を出ることにした。人を殺す人からも、竜を見捨てる竜からも離れたところで、2人静かに暮らそう。訳も分からず敵を作るような存在と、一緒になんて居られるか。大丈夫。僕は強い。兎だって獲ろうと思えば自分でも摂れるし、女の子と一緒なら洞窟の外にだって出られる。


*   *   *


 それから竜と人は、2人以外の誰も知らない砂浜で二人仲良く暮らした。

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