ジルとジョーのリリック

燈子

第1話 Jill

ご主人様がご機嫌の日は、私はきまって焦燥感に駆られる。鼻歌を歌いながら、あの人は玄関で靴を脱ぐ。

 仲間の内で、たまに飼い主をなんと呼んでいるかという話になることがある。私は、飼い主をご主人様と呼ぶことにしているがそれは少数派であった。仲間の内の大抵は自分の方がご主人様だと思っている。

「ジル、そんな様子では、飼い主に飽きられちゃうわよ。飼い猫になったらおしまいよ。こちらが振り回すの。」

仲間はよくこう言った。そんなこと知るものか。私は、自分が、気まぐれで自由奔放な、いわゆる猫らしい性格ではないことを承知していた。しかしそれが誇りでもあった。私は猫でありながら、どこかで猫でないのだ。

 雪が深々と降っているのを、夢うつつの中で眺めながら、私はソファの上で寝そべる。

 飽きられちゃうわよ。仲間の言葉がぐるぐると頭の中で巡る。飽きる。そんな言葉まで知ってしまって。人間という生き物と暮らすことによって、飽きるという言葉の意味がどことなく分かってしまう。全ての生き物は、満ち足りないはず。不完全なはず。飽きるという感情を何かに対して抱くことができる、高等で傲慢な人間という生き物に心底嫌気が差す。それでもご主人様のことは、愛している。心の底から。

 真っ白い雪を眺めてみても、心の落ち着きは得られなかった。こういうときに人間であれば、ため息も出るのに。

 ミャーと私は鳴いた。

 「おかえりなさいって言うてるん?」

ご主人さまは気だるそうにソファに座って足を組んだ。優しい声色と相反する乱暴な態度に、私の本能は不意にそそのかされて、ご主人様の目を眺めることしかできなかった。目をしっかりと見て初めて、彼が疲れていることに気が付いた。黒目がちの切れ長の一重が、疲れると二重になる。その時の目に見つめられると、胸が騒いだ。赤いお月様を見ているみたいだ。疲れているから逆にご機嫌なのだと私は妙に納得した。先ほどの焦燥感はみるみるうちに消えていった。

 私は顔をご主人様の足に擦り付けた。精一杯の思いをぶつける。ご主人様はくすりと笑う。ご主人様はゆっくりと、私の体を撫でる。

私はとても幸せで、そのまま眠ってしまった。

 

 柔らかな光が私の体を包み、その暖かさで目が覚める。触ると冷たそうな、雲一つない青空に太陽ひとつ。太陽の存在感はあるのに、空気は冷たく張りつめていた。大きな窓がある部屋にいると、孤独感が増すので困る。私は、ゆっくりと体勢を起こした。ご主人様は行ってしまわれたみたいだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ジルとジョーのリリック 燈子 @chihiroxxx

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ