口縄坂の宵
香久山 ゆみ
口縄坂の宵
居心地の悪さを感じながら、早く時間が経つことを願っていた。
課の送別会。話し相手もいない私は、隅っこの席で、黙々と酒を飲み、誰も箸を付けない残飯を片付けていく。向こうの席では、同僚たちが、あの人何しに来たんだろーねーと、ちらちら視線を送ってくる。欠席したらしたで文句を言うくせに。大嫌い。会社には私の居場所なんてないのだ。私より仕事の出来ない同期や後輩たちが、笑顔と愛嬌だけで出世していく。私はいつまでも主任どまり。溜め息を飲み込むために、お酒を流し込む。うぷ。真っ白な顔をした私を、後輩の女の子が八の字眉で覗き込む。「大丈夫ですかー? 同じ方向の人いるかなー。一人で帰れますぅ?」「大丈夫大丈夫」私はひらひらと手を振る。強がっちゃって。まあ、散会後、トイレに寄ってから居酒屋を出ると、店の前にはもう誰も残っていなかったわけなんだけど。
このまま電車に乗って帰ると、吐き戻してしまいそうだったので、酔いが醒めるまで歩くことにした。日中の気だるい暑さをかき消すように吹く夜風が気持ちいい。ああ、このままどこまでも歩いていけそう。
千鳥足で、口縄坂まで辿り着いた。両手をお寺と石塀に挟まれた、百メートルほどの石畳の小さな階段道だ。頭上には、満開の桜が、街灯のオレンジ色の光に照らされている。星のない夜空には、満月だけがふわりと浮かぶ。時間が遅いせいか人通りもない。鼻歌混じりに一段一段石畳を踏みしめて行くと、どこから出てきたのか、「にゃあ」と、足元に黒い猫がまとわりつく。一段進むたびに一匹また一匹と猫の数は増えて、横の石塀の上からも白い猫がこちらを見てる。あんたたち一体何匹いるのよぅ、なんだか愉快な気分になって、階段を上りきった私は、いちばん上の段に腰を下ろした。ふぅーと息を吐く。少し酒臭い。疲れた。休憩。石塀に体を預け、目を閉じる。
「――あの、大丈夫ですか?」
どれくらい眠っただろう、男の声で目を覚ました。見上げると、まだ幼さの残る顔立ちの青年が、こちらを見ている。
「大丈夫ですか」
ぼんやりした目のまま返事をしないでいると、もう一度声を掛けられた。青年は栗色のふわふわ猫っ毛の髪で、きれいな顔だなあ。
「ひとりで帰れますか」
「……ダメかも。ひとりじゃ帰れないかもしれない」
私は青年に凭れ掛り、上目遣いで少し甘えた声を出してみる。
「じゃあタクシー呼びましょうか? それとも救急車?」
青年は意外と大きな手で私の体を支え、座り直させてくれた。ダメか。小さく舌を出す。青年の白くて長い指はひんやりとして気持ちいい。
「うそ。私はひとりで大丈夫よ。少し酔いを醒ましてただけ」
「そう」
青年はそう言うと、そのまま背を向けてしまった。肩に掛けた大きな一眼レフカメラを構えて、幻想的な口縄坂にレンズを向ける。
「なにしてるの」
「写真」
「見ればわかるわよ」
返事もないので、次々とシャッターを切る青年の横顔をぼんやり眺めている。陶器のように白くて滑らかな肌ね。と、座ったままの私の足元にまた猫が寄ってくる。喉を撫でてやると「にゃあ」と気持ち良さそうな声を出す。
「ここの猫は人懐っこくてかわいいわね」
「生きていくためだよ」
振り返りもせずに青年が答える。生きていくために愛想がいいなんて、まるで会社の連中みたいね。少し小憎たらしくなってほっぺを突いてやると、嬉しそうに「にゃあ」と鳴く。ばーか。
「あなたは愛想悪いけど、生きていけるの?」
「僕は、生きてくより大切なものがあるから」
「なに?」
「美」
「び?」
「芸術」
最後のシャッターを切って、青年は構えていたカメラを下ろして肩に担ぐ。そのまま階段を一段下りかけて、青年が振り返る。
「一緒に来る?」
私の足元に数匹の猫がまとわりつく。どうして青年の方には寄っていかないんだろう。
「いい。やめとく。私は生きてく方が大事だもの」
「そっか」
青年がかすかに笑う。口縄坂を下りていく。桜が舞う夜の闇の中に彼の華奢な後ろ姿が溶けていく。「にゃあ」猫が甘えるように私に身を寄せる。生きていくのも大変ね。ランチの残りをバッグから出して猫にやると、私は口縄坂をあとにした。帰ろう。明日も仕事だもの。
口縄坂の宵 香久山 ゆみ @kaguyamayumi
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