レクイエム

悠井すみれ

第1話

 荒野に陽気な音楽が響く。


 ヴァイオリン。トランペット。トロンボーン。フルートにサクソフォン。パーカッションも揃ってる。

 華やかなトリル。青空を駆けるファンファーレ。コミカルな低音のメロディーと、ドラムのリズムの追いかけっこ。


 サーカスの幕開けのような、明るい行進曲。冬の澄んだ空気によく通る。


 ぴしりと並んだ褐色の制服が、軍隊式の発声で拍子を取る。


いちアインスツヴァイ! いちアインスツヴァイ!」


 数えられているのは、足を引きずる囚人の群れ。まだ人間らしく見えるやつ。痩せこけて死体みたいになったやつ。中には本物の死体もいる。夜の間に死んだやつも点呼では数に入れなきゃならない。運んでいるやつらに表情はない。仲間が死んだ悲しみも、荷物を背負わされている忌々しさも。

 擦り切れ、疲弊しきった人間の残りカス。あらゆる惨めさと絶望のカタログ。それを飲み込む冷たい鉄の門。掲げられた文字は。


 ARBEITアーバイト MACHTマハト FREIフライ.


 労働は自由にする。


 そんな題目に騙される者がまだ残っていると、連中は本気で信じているのだろうか。逆さのBが人の営みの何もかもを嘲笑うかのよう。


 ――そんな顔しなさんな。俺だって明日は我が身だ。


 囚人の一人と目があった気がして、俺は軽く肩をすくめた。ヴァイオリンを弾きながら出来る最小限の動作。その間にも、指は馴染んだ運動を続けている。単純明快なメロディー。凍傷になりかけた指でもこの程度は出来る。

 オーケストラをやっていたお陰で、この役目にありついた。仲間が労働に行くのを見送り、新たに輸送された連中を歓迎する華やかなバンド。何て陽気な葬送曲。


 少しばかりのましな待遇。労働に行かなくても良いし、チップ代わりに煙草を恵まれることもある。何より音楽を続けられること。それだけ揃えば魂を売り渡すのに十分だ。今の俺はナチスに言われるまま曲を奏でる操り人形プッペに過ぎない。軍歌も「旗を掲げよファーネ・ホーホ」もお手の物。総統閣下お気に入りの、ヴァーグナーでも弾いてみようか。

 そう、深く考えないことだ。この世界にあるのはただ明るい空と音楽だけ。星は屈辱と迫害の象徴ではなく、天高く輝いて。

 考えないことだ。明日がどうなるのか。戻ってこない囚人はどこへ行ったのか。立ち上る煙の意味は。SS親衛隊の指先が分けるレヒツリンクス、どちらが地獄なのか。あるいはどちらも?

 あるのは、この一瞬だけ。この一瞬の音に、どれだけ心を震わせるか。


 ――だから、そんな顔しなさんな! 音楽って良いだろうが!


 目の前を通り過ぎていくボロ切れたち。そいつらに届けとばかり、俺はヴァイオリンをかき鳴らす。

 あいつは思想犯アカだがユダヤ人嫌いはナチスと一緒だ。俺もひどく殴られた。ここに入れておくのは勿体ない、立派な反セム主義者アンティ・ゼミート。なあ、殴ったのは許してやるから、インターナショナルでも聴いてみないか?

 力なく引きずられてるあいつは、エホバの証人。それが今では気力を失くしきって、イスラム教徒ムーゼルマンになっちまった。ぐったりとした様子が、礼拝の様子にそっくりなんだ。先生、お祈りに音楽はいらないのかい?

 ピンクの囚人章。ホモ野郎だ。同じ監視員カポに取り入って、良いもの食ってやがる。あんた、仕事でも楽させてもらってるんだろ? 俺の曲を聴く余裕ぐらいないもんかねえ。

 無気力な無表情な無感動な灰色の、顔、顔、顔! 誰も俺の音楽を聴かない。聴いてくれない。通り過ぎる。


 ――聴いてくれよ!


 俺にはもう他に何も残っていないんだ。家族はいない。殺された。友人知人も。家も財産もない。祖国なんて始めからない。誇りもなくした。自分で捨てた。

 音楽だけ。この卑怯な楽士に残されたのは。あと何ヶ月……ひょっとしたら何日、何時間? 残された時間を、顧みられない曲を奏でて潰すのか。滑稽に、無為に。ああ、まるで道化だ。


 トランペットが派手に音を外した。


 一度くらいなら仕方ないが、その後も音程が定まらず、無様な旋律を垂れ流している。


 ――何をやってやがる。


 俺はトランペット吹きを横目で睨んだ。まだ若いポーランド人だ。顔を真っ赤にして、腕を震えさせて、それでも楽器を吹き続けている。勝手に手を止めたら何をされるか分からないのだから当然か。その気力は認めてやろう。だが、俺の音楽を邪魔したのは許せない。


「何、ぼんやりしてたんだ?」


 行進を見送り、曲を終えると、俺はそいつを問い質した。

 トランペットはぼんやりとした目で俺を見上げると、次の瞬間顔をくしゃりと歪め――慟哭した。崩れ落ちて、拳で硬い地面を叩く。

 嗚咽とポーランド語――ポーランド語なのにラテン語だ訳が分からない、これは傑作――の間からなんとか拾い出した、意味をなす単語。「私のマイネ・フラウ」「あのイン・デア列に・ライエ」。トランペットが指さす先の、不吉な煙突。


 ――ああ。


 俺は理解した。そして、さっきのように肩をすくめる。


「遅かれ早かれあんたも同じところに行くんだ。悲しむことじゃないさ」


 トランペットは俺のドイツ語を理解したかどうか。

 答えを聞く前に、俺の囚人番号が呼ばれた。そうだ、俺は名前もなくしていた。


「お前はあっちだ」


 見慣れた褐色の制服。眩しい金の髪と碧の瞳。後世に遺伝子を伝えるべき見事なアーリア人。そのSSが示した先は。


 煙突への道。


 俺は三度目に肩をすくめた。呆然と俺を見上げるトランペットに、笑いかける。


「ほらな」


 次いで、SSにも笑いかける。すると、そいつはぎょっとしたように一歩退いた。そして言い訳のように、呟く。


「今日到着する中にヴァイオリン奏者がいるんだ。悪く思うな」


 怯えているのか? こんな痩せこけたヴァイオリン弾き、薄汚いユダ公を相手に。ご大層に武装している癖に? 罪悪感? まさかそんなはずはないか。


「こいつは連れて行きますよ」


 寒暖にさらされ、日光を浴びて。すっかり痛んでしまった愛器を示す。それなりに値の張るやつだったのに哀れなもんだ。


 SSの返事を待たずに歩き出す。ヴァイオリンを構えて。


 ――本当の、俺の音楽だ。


 俺が奏でる、俺のための。

 人生を締めくくるに相応しいのは? さあ、どの曲を弾こう。


 俺は頭の中の譜面を一心にめくり始めた。

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レクイエム 悠井すみれ @Veilchen

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