『おとうさん』

 物心ついたときから、私の親は母だけだった。父の所在はわからない。金魚を貰った夏祭りの日、両親の間に挟まるようにして歩く子供たちを見て聞いたときは母はかたくなに話そうとしなかったけれど、あの憎しみをたたえた苦々しい表情から当時の幼い私にもある程度察せられて、それから二度とは尋ねなかった。

 そしてきっと、私は母が名も姿も知らぬ父にされたように。私を捨てたのだろう。

 理由は知らない。知りたくもないけれど、知らない男の人が夜中にやってきていたことは覚えている。多分原因はその人で、母にとっては私よりも優先すべき人になっていたのだろう。

「だろう」ばかり、推量だらけの当てずっぽうだけれど、今となっては知りようもないことだ。

 それでも時折、ふとした時に考えてしまうのは、やっぱり私を見放した酷い人にも、ある程度の愛着が残っているからだろうか。或いは探し出して問い質して、糾弾したい恨みや憎しみからくる執着だろうか。私の心のことなのに、私自身が分からないから、結局どうしようもないのだけれど。

 この「だけれど」の後はなにもない。なのにさもこのあと続く言葉が、思いの丈があるかのような雰囲気だけを匂わせるから、私は私が分からない。

 私は、どうしたいのだろう。


  *


「ただいま」

 サッシに少し砂の詰まって引っ掛かる引き戸を開けて、玄関から延びる暗い廊下の先、曇りガラスの嵌め込まれた仕切り戸越しに淡く灯る橙に向かって声をかける。家の中は変わらず甘い花の香が漂っていて、無意識に鼻腔を開いて深く息を吸ってしまう。外の寒さでかじかんだ赤鼻が、ずびっとはなを鳴らした。

 ローファーを脱いで、土間に一つぽつりと置かれているくたびれた革靴の隣に並べて、仕切り戸を開け居間に入った。暖房の掛かった空気が肌の露出した顔や手を撫で、ぴりぴりと痺れる感覚に目を細めながら、奥のソファで夕刊を読む白髪の後ろ頭にもう一度声をかける「ただいま」

 ややあって「おかえり」と短く返す初老の彼を、私は「お父さん」と呼んで接している。

「もうご飯、食べた?」リビングに入ってすぐ、目の前に据えられている食卓机の私の席に回り、荷物や防寒具を脱ぎつつ訊いてみる。首に巻き付けたマフラーをほどく際の静電気が肌を弾き、髪がいつまでもへばりつく鬱陶しさに漏れた呻き声で彼の首が若干こちらを向くような動きを見せたけれど、すぐに新聞に目を落としてしまったのが目の端で映っていた。

「まだ」やはり少しの間をおいて短く応えて「手を洗ってから入りなさい」感情の見えない声色で指摘された。

「あー、はい、ごめん」

 手袋をしていたからこちらにおいてから手を洗う予定だったのだ——と一瞬頭の内で構築した口答えをすぐさま切り崩して、素直に洗面所に向かう。言葉で対抗しても彼が私なんて歯牙にもかけず、あしらわれて終わることはこの七年で身をもって知っているし、そもそもムキになるほどのことでもないだろう。

 それに――形だけでも、曲がりなりにも。彼なりの“親”らしい躾めいたことをされるのは、なんだかんだ、未だにどこか嬉しいと感じる所がある。『元の』が居ないから“それ”が正しいかどうかの判断はできないけれど、私が彼に父性を求めていることは確かだし、彼もまた私に対して父性で以て接してくれている。無骨で寡黙で不愛想な人だけれど、確かに彼は、私の「お父さん」なのだ。

 冷蔵庫の中身は抑えてある。有り物でクリームシチューでも作ろうかと今晩の献立を考えながら、冷水で洗って痺れる手を拭い花の香りのする廊下を居間のほうへ渡っていった。


 

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金魚鉢 亡糸 円 @en_nakishi

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