白く濁る

 多分八月も終わり頃の斜陽が、朦朧とする私の視界をだいだいに焼いていた。

 母と二人暮らしをしていたアパートの小さなリビングはゴミが散乱し、ちゃぶ台のカップ麺の残り汁には毒々しい色のカビが膜を張っている。

 季節のせいもあって一ヶ月放置したゴミ袋からは度し難い腐乱臭が溢れ、外の喧騒なんて聞こえないくらいに絶え間なく鳴る蝿の羽音に鼓膜が痺れ、じんわりと熱を帯びていた。

 お腹が空いて動けない。二段だけの背の低い本棚にもたれて座り込み、ただ浅い息を繰り返した。トイレに立つ気力も失って垂れ流した糞尿の水溜りを、短い糸くずみたいな蛆虫が這っていた。

 頭の所在を棚に任せて、隣の金魚鉢を見やる。私の目が辛うじて映したのは、世話を放棄され、水面に小さな波紋を描きながら横たわるように浮かぶ眼の白く濁った金魚だった。かつての光を受けて輝く紅の鱗は見る影もなくよどみくすんで、鉢の底に剥げ落ちて沈んでもいた。

 私もそう遠くない先で『こう』なるのだろう。白濁とした金魚の眼が、責め立てるようにこちらを見据えていた…ように見えた。

 ごめんなさい。美しいあなたを、殺してしまってごめんなさい。

 謝ろうとして口を開いてみるけれど、結局声に出せていたかは分からない。私の身体は私の意思を無視して、肺を空っぽにするように深い深い息をいた。身体が途端に冷たく、重くなっていく。まるで際限のない水底へ沈んでいくような錯覚の中で、抗いようもない気怠さに包まれながら、私の世界はいよいよ暗転していった。


   ✻


「どうかしましたか」

 少し遠くのほうから、私に問いかける声がする。引き戸に手をかけて佇む先生は、教室の後ろで飼っている金魚に餌を撒き終えた手を水面にかざしたまま、ぼんやりしていて固まっていた私を怪訝けげんそうに見つめていた。いつの間にか陽はひどく傾いていて、弱々しい陽射しが私の影を長く長くかたどっていた。

「…もうこんな時間になっていたんですね」

 黒板の上にかけられた時計の針は、生徒の完全下校まで残り十五分しかないことを示していた。

「もう部活生も撤収し始めています。君も早く荷物をまとめて——」言いかけて、私の背後で開け放たれた窓から吹き込んだ木枯こがらしが先生の顔を撫でた。無駄に長くてなびく前髪のせいか煩わしそうに目を細めて、窓を閉めようと私の方に距離を詰めてくる。すれ違い様に無意識に首を竦めてしまう私を先生の冷たく据わった目が見降ろす肌寒い感覚を覚えながら、それでも動くことが出来ないでいた。

 カラカラ、ゴン、カチャリ。依然固まったままの私の背後で、窓が閉まる乾いた音が二人しかいない空疎な教室に耳が痛いくらいに響いた。

「…完全に陽が落ちるまでには帰りなさい。教科書等の置き勉は厳禁ですよ」

 きびすを返して教室から出て行った先生を見送って、胸にたまった息を吐いた。二学期も末、十二月半ばの今でも、先生の雰囲気はどうも受け付けない。金魚のような魚類には表情がない分感情を察する無駄な気苦労がいらなくて楽なのだけど、魚のそれに似通ったものを感じる先生の無表情は、彼が人間であるせいか感情が読み取り切れないことがただひたすらに不気味だった。

(…どちらかといえば蛇みたいな感じだけど)

 先生と彼の不気味な雰囲気に委縮する私の図は、蛇に睨まれた蛙という言葉を連想させた。蛙は私だ。不服だけれど。

 内省ないせいもそこそこに、さっさと荷物をまとめて教室を出た。

 正門をくぐるころには陽は西の空に完全に沈み込んで、墨汁に浸かったような通学路を白か橙の無機質な街灯が点々、いかにも頼りなげに照らしていた。街灯真下の白と夜の黒が繰り返す不安なまだらの上を、けれども私は躊躇うことなく、一人でせこせこと歩いていく。

 私は、家へと帰っていった。

 

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