金魚鉢

亡糸 円

『いい思い出』

 近所の神社の境内で催された夏祭り。参道に沿って肩を突きあうくらいに狭く並んだ屋台の単色の看板が、裸電球の無遠慮な光を受けて美しくもなく鮮やかさだけを際立たせて視界を襲い、チカチカして目が痛かった。

 着慣れない浴衣を着せられて、最初こそ朝顔柄のかわいらしさにはしゃいでいたけれど、すぐに歩きづらさと蒸し暑さに辟易へきえきして帰りたがっていたことも覚えている。

 屋台の食べ物も幼い時分ではあまりに多い人並みが怖くて、初めに並んで買ったかき氷を最後に、ぐずって本堂の隅に座り込んでしまったりもした。

 このように全体的に夏祭りにはいい思い出のない私だけれど。一つだけ明確に『いい思い出』と呼べそうな記憶がある。慣れない着衣、夏の暑さ、祭りの雰囲気に圧倒されて座り込んだ本堂の隣、掛けられた沢山の絵馬を背にして構えられた小さな屋台があった。暖簾のれんには黒に縁どられた赤字で『金魚すくい』。そこでの記憶。

 なぜか並んでいる人はいなくて、がらんと空いた水桶の中を泳ぐやせっぱちの金魚たちと、それをぼんやり眺める店主のおじさんを交互に見比べ百円玉を差し出した私は、おじさんから受け取った三枚のポイでどうにか金魚をすくおうと奮闘した。

 結局浴衣の袖をずぶぬれにして三枚すべてのポイに穴を空けただけの私に、おじさんは疲れた顔に貼り付けたような笑みを浮かべてアルミボウルを手に適当な金魚を一匹すくい上げると、しぼりの付いた小さなポリ袋にボウルの水ごと金魚を入れて私にくれた。金魚は小さく細かったけれど、境内のどの屋台の看板よりも鮮やかで、それなのにひどくやさしい真っ赤な鱗を外の明かりにきらめかせながら元気に泳いでいた。

 夏祭りに来て初めて出会った敵意のない色彩に、きっと私は魅入られていた。境内の煩わしい裸電球を受けてきらめく金魚をもっと見ようとポリ袋を光源のあるほうへ振り回す私を「優しくしてあげてね」といさめたおじさんの言葉に素直に従って、母親の待つ鳥居の下まで抜き足差し足、行きかう人たちのことを盗人ぬすっとを見るような目つきでにらみながら戻ってきた娘をみた母の頓狂とんきょうな表情——いや、印象としてそう表現しただけで、実際どんな表情をしていたのかは、やっぱりあまり覚えていない。

 家に帰った後、母が押し入れから引っ張り出してくれた小さなガラスの鉢に近くの川の水を足して、そうして金魚を飼うことにした。満足に泳ぐこともできない金魚鉢のサイズに申し訳なさを覚えつつ、その中をくるくる旋回する金魚の動きを、それに伴ってきらきら光る鱗の赤を、幼いころの私は飽きることもなく見続けていた。


 これは後から知ったことだ。私が挑んだ金魚すくいの屋台に客が集まっていなかったのは、あの屋台のおじさんが地元の組合で疎外されていて、要するに地域ぐるみの嫌がらせに遭っていたかららしい。彼はそうした冷遇に耐えられず祭りが終わった後すぐに自殺してしまっていた。今となっては、どうしようもない話だ。

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