8.夜明けに友達を朝ご飯


 小さな唇を潰した私はあふれる血を止めようと布を巻き付けた。けれど彼女の血はとめどなく溢れ、大地を濡らした。

 致命傷だった。


 私は理解する。

 ――彼女は、ここで死んでしまう、と。

 何が悪かったのか。不注意か。脱出が遅かったのか。気付くのが遅れたのか。



 ああ、と私の口から言葉にならない嗚咽が漏れ――

 気付いたメイが、私の頬をそっと撫でる。


「……あなたのせいじゃないわ。助けてくれて、ありがとう」


 それは違う。

 私は助けられなかった。最後の最後で、しくじった。

 涙する私に、彼女はそっと笑って告げる。


「ねえ。……お願いがあるの」


 私は耳を寄せる。せめて彼女の話を聞こうと。

 メイはそんな私に微笑み、


「私を、食べて欲しいの」


 ――え?


「あなたは人間を食べると、人になれるのでしょう? あなたが怪物のままだと、太陽に焼かれて死んでしまうわ。私は、友達を焦がしたくないわ」


 私は首を振った。

 そんなこと、出来るはずがない。

 私達は一緒に美味しいご飯を食べようと約束した。お祭りに行こうと約束した。

 友達を食べようとは言っていない。そんなものは美味しくない。


 ……彼女は「嘘なの」と笑う。


「本当は、私、お祭りなんて行かなかったの。お父さんとお母さんはいつも、私を置いてお祭りに行ったわ。みんなの騒ぐ音と肉の焼ける音、ソースの香りを嗅ぎながら、私は馬小屋で藁を被ってたわ。馬の糞のくささに耐えながら。……覚えてるのは味がしない粥と、カチカチに固くなったパンだけよ」


 美味しいもの、食べたかった……。

 彼女は血濡れた手で私に触れ、柔らかく微笑む。


「奴隷に売られる途中で、馬車が転んで……あなたに助けて貰った。あなたから貰ったサンドイッチが、私の人生で初めてのご馳走だったわ。最高のお昼ご飯だった」


 だから、あなたに返したい。

 素敵な素敵な朝ご飯を。


「大丈夫。私はきっと美味しいわ。館のみんなに追いかけられるくらいだもの」


 彼女が私の頬を撫で、人差し指がゆっくりと私の唇をなぞる。

 つるりとした卵のような指の平が私の唇にキスをするように当てられ、口へと忍び込む。


 ダメ、と私は否定する。

 それ以上はダメ、と。

 けれど私の舌に指先が絡んだ瞬間、どうしようもない甘美な本能が私を揺する。


「泣かないで。私は死ぬんだもの。だったら友達に美味しく食べてもらいたいわ。そして私のぶんまで、美味しいご飯を食べて。ね?」


 そうして彼女が泣きながら私の腹の口に指を入れ――

 友達のお願いだから、と笑う。


 私は泣きながら、口にする。


 飴玉をなめるように、ちろちろと彼女の指先を舐める。涎を絡めて指をなぞり、やがて我慢できずに前歯を立てる。爪先が潰れて血が溢れ、とろりと口の中を汚した瞬間、耐えがたい歓喜が溢れてくる。

 私は泣いた。

 人間を食べれる喜びと友達を食べてしまう悲しさが混濁し、気付けば中指を口に含んでいた。もう舐めるなんてまどろっこしいことは出来ず、しゃぶりつくように彼女の指を噛み砕く。

 口の中で中手骨を転がす罪深さに涙が止まらない。どうか止めてと願うのに、怪物の本能はどうしようもなく私の空腹を満たし、彼女は「私をどうぞ」と差し出してくる。


 手首は指よりも歯ごたえがあり、前腕の肉はしゃぶりつくほど柔らかく上質。上腕はより強く硬く、肩はこりっとした丸みがたまらない。

 足の指は軟骨のようにこりこりしていた。下腿は絡み合う二対の骨が程良いアクセントに。膝のお皿は箸休めとなり、太股は人体の中でもっとも食べ応えがあった。

 そして私はモツに手をつける。

 彼女の腹を優しく裂き、細長い腸をつまんだ途端、私の心は天にも昇る悲しい幸福に包まれた。

 ずるずると小腸を引き抜き堪能した。大ぶりな大腸を頬張り、肋骨と背骨をつまんで砕いた。肝臓は私が食べたどの肉よりも絶妙な肉汁がしみ出し、膵臓は何よりも軟らかく、秘蔵はどんなデザートよりも濃厚な舌触りだった。あふれる血液にそれらの臓器をひたして貪る度、怪物の本能が震えた。その興奮は性的な絶頂にも似ていた。


 だから――私は泣いた。

 私の舌が喜べば喜ぶほど、この先二度と、友達と一緒に美味しいご飯を食べることはないのだという失望感に。


 ……それでも。

 それでも私は、彼女を喰らう。

 私の、友達たっての願いだから。


 心臓に手をつける。既に拍動を止めた拳サイズのそれを捻り取って口に含む。命の味がした。むしゃりと林檎のように囓り、口周りを血に染めながら犬のように貪る。

 肺も肋骨もあますところなく堪能し、残すは首から上。

 物言わぬ骸となった彼女の顔を抱き締め、頭から啜る。愛おしい緑の髪も、楽しげにつんと立った睫毛も、可愛い鼻も口も耳も丸っこい頭も、その全てを私の中に収めていく。

 彼女と過ごした一晩の思い出と共に。


 食べて、食べて――

 私は泣いた。

 あまりに美味しかったから。




 そうして彼女はいなくなった。

 大地に残るのは血の痕のみ。人としての形も、肉も骨も心もなく、愛らしい笑顔もない。



 私はそっと立ち上がる。二本の足で立ち上がり、二本の腕を確認する。

 手の平には五つの指があり、もう、蜘蛛の糸が出ることもない。

 自分のお腹をさする。怪物の口はもうない。友達を食べて満足したかのように、つるりとしたおおへそがあるだけだ。


 空を見上げる。

 森の闇を晴らすように、うっすらと朝日が昇っていた。

 私は瞼を細め、もう一度だけ彼女がいた場所を見下ろす。

 もう何も残っていない場所。けれど私は覚えている。ここで、大切な友達を食べたことを。





 そして私は背を向けて、ゆっくりと歩き出した。

 どこに行くかなんて、分からなかった。それでも私は歩き出した。


 彼女のぶんまで、生きて、美味しいご飯を食べるために。

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夜明けに友達を晩ご飯 ―こうして彼女は私の胃袋に収まることになりました― 時田唯 @tokitan_tan

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