九
遠くで鳶の鳴く声がした。雲の棚引く空は熟れに熟れた酸漿の如き、真っ赤な色に染め上げられている。黄昏をやや過ぎた頃――巨大な火の球の如く燃え上がった夕日は、目が痛いくらいに鮮やかな茜色をした光を、村に投げかけながら、山の向こうに消え行こうとしていた。ほんの一瞬しか見る事のできない、一日のうちで最も美しく、また儚い景色だ。
夕暮れに彩られた空の端に、ちらちらと瞬くものがある。陽が沈み切らぬうちから姿を現した、せっかちの一番星だ。それが次第に輝きを強くし出すと、空は暗くなって、夜が訪れる。その事を知っている鳶や烏は、一番星が見えると途端に焦りを見せ、キンキンと甲高い声を上げながら、塒である山へと翼を急がせるのだった。赤い光を浴び、鳥たちの姿は、まるで墨で描いたように真っ黒に塗り潰されている。何とも言えず、寂しげな様だ。
夕日を浴びてきらきらと、険しい岩肌を輝かせている山の中に、仲睦まじい親子の鳶が、吸い込まれるようにして帰ってゆくのを見届けた後、女――弥助翁の、死んだ息子の嫁は、ざりざりと草履の音を響かせながら、離れ屋の方に向かって歩いていった。その手には、昼過ぎに持っていたものと全く同じ、握飯の二つ乗った笊を持っている。笊の中で握飯が転がるのか、女の足取りは一歩一歩ゆっくりで、傍から見れば呆れるくらい、慎重だった。
たっぷり時間をかけ、離れ屋までの一間を歩く。戸の前に立つと、女は何気ない調子で、
「おじいちゃん、ご飯持ってきただよ」
と、呼びかけた。いつもなら黙って勝手に戸を開けるのだが、今日は何故か気が引けた。
返事はない。暫くの間、耳を澄まして待ち構えてみても、返ってくる気配はなかった。
聞こえなかったのだろうか――女はもう一度、今度は少し声を張り上げて、呼びかける。そうしてすぐに、戸に耳をぴったりと付け、どんな小さな音であろうとも逃すまいとした。
……やはり、何も聞こえてこない。離れ屋の中は、不気味なほどに静まり返っていた。
人気のない離れを前にして突っ立っていると、背中に冷たいものが走り抜けるのを覚え、女は顔を強張らせた。どうやら、中はがらんどうで、誰もいないようだ。だが祖父が――あの祖父が、自分に黙ってふらふらと外を出歩くなんてことがあるだろうか。人に見られる事を、誰よりも恐れていたのは他ならぬ祖父だったではないか。祖父は、この村では既に死んだ人になっているのだから……そんな思いに胸を騒がせて、女は唇を固く噛み締めた。
そうしている間にも、夕日は山の向こうに姿を隠しかけている。辺りは急に冷え込んで、冷たい風が三度ばかり、砂埃を巻き上げながら通り過ぎていった。女は幽かに眉を潜め、鼻からふっと息を漏らす。このままずっと、こうして突っ立っていても、折角の夕御飯が冷めてしまうだけだ。もう良いから、戸を引いて中に入ろう。それで祖父がいるか否かもはっきりするじゃないか――そんな風に女が考えているらしき事は、その心配げな表情に、ほんの僅か混じっている、覚悟の色合いを見れば分かった。笊をしっかりと胸に抱えると、左手を伸ばして戸に触れる。寒いからか、気を張り詰めているからか、指先が震えていた。
力を籠めて、戸を引く。ガラガラと大きな音がしたかと思うと、埃の臭いが鼻を突いた。
狭くて古臭い離れ屋の中に、足を踏み入れる。真正面から差し込んでくる、茜色の光が眩しかった。女は顔を顰め、体を脇に寄せて光の軌道から逸れながら、首を回して辺りを窺う。――と、その眼が囲炉裏の辺りで、ぴたりと止まり、一寸たりとも動かなくなった。
そこには、夕日を浴びて仄かに赤く染まった、大きな肉の塊があった。
女の手が力を失って、だらりと下がる。笊から転げ出た握飯が、床にぶち撒かれた。
少し遅れて、女の膝がガックリと折れる。派手な音を立てて、女は床に座り込んだ。
その顔は真っ青で、冷え込む夕暮れだというのに汗でどろどろに塗れていた。口はパクパクとまるで金魚の如く開き閉じを繰り返し、必死になって空気を求めている様子だった。眼は目尻が避けんばかりに見開かれて、瞳は変わらず、囲炉裏の奥をじっと見据えていた。
悲鳴を上げようとした。しかし、喉が閊えているせいで、甲高い声が出なかった、その代わりに飛び出てきたのは、上擦った声で紡がれる、途切れ途切れの悲痛な呟きだった。
――し……舌が……
――舌がない!
囲炉裏の灰に頭を突っ込むようにして、仰向けに倒れている弥助翁は、舌を引き抜かれ、夥しい血を、口からゴポゴポと溢れ出させながら死んでいた。その顔には、苦しみ悶えた跡がくっきりと残りながらも、それでいてどこか恍惚とした、何かに話しかけようとしているかの如き表情だった。
それから長い時間が過ぎ、茜色の日が山にすっかり隠れてしまった頃、漸うに気を落ち着けた女は、人を呼ぶよりも先に弥助翁に駆け寄ろうとした。がくがくと笑い続ける足を引き摺りながら、じりじりと囲炉裏へと這ってゆく。弥助翁の躯に近付くにつれて、胸をむかむかさせる甘酸っぱい臭気が、鼻を突いた。弥助翁の口から醸されているらしかった。
投げ出された弥助翁の右腕に、女はそっと手を伸ばす。その指が、触るか否かの際どい瞬間、女はアッと小さく呟き声を上げ、眼を丸くした。あと少しで届こうとしていた指は、宙でぶるぶると震えたまま、躯の腕に触れる事はなかった。
倒れている弥助翁の背中辺りから、血で染まった黒い足跡が点々と続いているのを見つけたのだ。それは囲炉裏をぐるりと半周した後、女の入ってきた戸から外へと出ていた。
女はじりじりと顎から汗を滴らせながら、その足跡を穴の空くほど見つめた。そして、おもむろに立ち上がると弥助翁の躯を踏み越えて、足跡を追って囲炉裏を廻り、外に飛び出す。後ろ手で戸を閉めると、そのまま畦道の方へと歩いていった。その足元には、殆ど消えかけて薄らと輪郭を留めるばかりとなった血の足跡が、まるで女を導くかのように、どこまでも続いていた。
畔道の半ばで、女は立ち止まる。そして、未だ血の気の戻らぬ顔を上げ、息を吐いた。
女の突っ立っている所で、足跡は綺麗に途切れていた。
だが、ここまで来れば、弥助翁と一緒に離れ屋にいた者が、どこへ行ったのかは分かる。女は憂いと怯えを含ませた眼で、じっと前を見据えた。女の立つ畔道が続く先――。
それは、村人から十六人谷と呼ばれ、恐れられている北又谷を中に持つ、あの峻岳だったのである。
(了)
十六人谷 @RITSUHIBI
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます