樵どもの痴態は、日が変わる頃まで続いたろう。その間、儂はずっと枕屏風の後ろで耳を澄ませていた。さぞかし長い時間だったろうとお前は思うだろう。儂にとっては、それほど長いとも思えなかった。様子を窺いながら、どうしようかと只管考えを巡らせておったから。必死になって考え事をしていると、時間の流れは驚くほど速い。隙間から入り込んでくる風が、夜更けの匂いを運んできたのを感じた時なんぞは、もっと時間があれば良いのにと、頭に爪を突き立てて歯噛みしたほどだった。

 熊五郎の前で踊っていた樵どもも、夜が更けて来ると疲れてきたのか、一人また一人とその場に座り込んだ。ドスンと乱暴な音が響き、続けて酒だ酒だと呼ぶ声が聞こえてきたので、儂は奴らの痴態が漸く終わったと知ったのだった。一人目が踊るのを止めてから、残りの十三人全てが坐するまでに、さほど時間はかからなかった。みんなとっくの昔に、踊り疲れていて、止めるきっかけが欲しかっただけのだろう。儂としては、朝になるまで奴らに踊り狂っておいてほしかったのだが。踊りを止める時はへとへとになっていて、ぶっ倒れたら、そのまま眠ってしまう――そのように事が運んでくれたら……と、どんなに願ったか知れぬ。

 もちろん、儂の思い通りになんかなるはずがなかった。

 踊りを終えた樵たちが眠るなんて、まずあり得なかったのだ。何せ、この後には淫靡なお楽しみが待っていたのだから。

 熊五郎の前にぞろぞろと集まって、酒を啜る十四人の樵ども。誰も、一言も口を利かない。上辺は大人しそうに見せかけている。が、胸の奥で何を考えているのかは、たとえ奴らの姿が全く見えていなかったとしても、容易く知れた。

 奴らの真意は、儂だけでなく、熊五郎にも分かっているようであった。子分どもが口を閉ざし、粛々と酒を啜るようになると、熊五郎は一度、奴らを馬鹿にしたように、フンと鼻を鳴らしたのだ。それから重苦しい唸り声を上げて、おもむろに立ち上がった。それと時を同じくして、どさりと何かが投げ出される音もする。熊五郎が立ちあがった拍子に、奴に凭れかかっていた女の体が、床に転がったのだろう。もはや己が体を支えることさえ儘ならぬほど、骨抜きにされてしまったようなのじゃった。儂の胸に、鋭い痛みが走った。

 思わず胸に手を当てて、息を落ち着けようとする儂。と、そんな儂の傷を皿に抉るかのように、熊五郎の口からこんな言葉が飛び出してきた。

 全て、灯りを消せ――奴の声はゾッとするほど低く、口の中で唾が粘つくのか、にちゃにちゃと湿っぽく、気味の悪い音が混じっていた。子分どもは何も言わずに立ち上がり、どたどたと足を踏み鳴らしながら、周りに点々と置かれていた行燈の火を吹き消したり、壁にかけていた提灯を畳んだりと、彼方此方走り回った。ふっと暗くなって、夜の気配が立ち込める小屋。屏風に隔てられて、奴らの様子は見えない儂でも、辺りが闇に包まれた事くらいは分かった。嫌な予感が儂の背中を撫でる。真ん中で細々と燃えている囲炉裏を除いて、全ての灯りが消えてしまった小屋は、急激に冷え込んだ。寒くなれば寒くなってくるほど、屏風の端から差し込んでくる月の白い光が、美しくも凄惨にも見えるのだった。

 それから、小屋の中でどんな事が繰り広げられたのか――詳しく説くまでもあるまい。

 甘ったるい吐息と激しい息遣いが聞こえた。みちみちと肉を爆ぜる、淫猥な音も響いた。

 汗の他に、生臭い臭いが鼻を突いた。それが何であるか、考えるだけでも厭わしかった。

 十五人の男が一斉に、女を弄び始めたのだった。儂には見えなかったのだが、その美しい体はきっと、男たちの汗と汚れに塗れた醜い体の波に埋もれているに相違なかった。

 儂は冷や汗で濡れ鼠のようになった。汗は眼の中にまで入り込んできて、それが沁みて痛かったので、瞼をきつく閉じてしまった。どの道、眼は既に用なしだった。

 頭を押さえた。ずぶりと突き入れるほどに、爪を立てた。鋭い痛みなど、胸を締め付ける後悔と恐怖の念に比べれば、屁でもなかった。儂はそうやって己に傷を作りながら、蹲る体を更に強張らせ、亀みたく丸まった。そうして石の如く、いつまでも動かなかった。

 いったい、どこまで卑屈だったのか――何よりも恐れていたことは、もはや起こってしまった。これ以上に悪い事などあるはずがない。それなのに、儂は何もしなかったのだ。

 またしても、儂は逃げたのだった。体を丸めて己が殻の中に閉じ籠り、何もかも忘れて楽になろうとしたのだ。気を失うことを望んだ。そのまま眠るようにして死ぬことさえ願った。恐怖を抱かずして、苦痛を味わうことなくして死ねるのなら、そっちの方を選びたかった。

 少しすると、頭が朦朧としてきた。儂は泥沼に沈みこんで、何も分からなくなった。

傍らに置かれた布団や着物の臭いに、頭がやられてしまったからのようだった。或いは、胸の内で堪え切れなくなった色々な思いが、遂に砕け散るか頭の中まで上ってくるかして、脳を目茶目茶にしてしまったのかも知れなかった。儂の気を逆立てていた糸が、プツンと切れたような感じも、微かにだが覚えていた。その音を耳の片隅で捉えた途端に、ふっと意識が遠のいていったのだった。頭はがっくりと垂れ落ち、体に力が入らなかった。

 儂は気を失った。何もかも捨て去って、辺りに散らばっている塵と一緒になりながら、昏々と眠り続けたのだった。芙蓉の吐息も熊五郎たちの笑い声も、儂を思い煩わせることはなかった。心を掻き乱すものは何もなかった。儂は心安くしていられた。女を失った悲しみだけは、夢の中まで追ってきたようだが。

 忘却の眠りに底まで堕ち、闇の中に安らぎを見出す儂。ただそれは、束の間の安らぎに過ぎなかった。その穏やかな時が、どんなに長く続いたとしても、いつかは必ず、醒めてしまう類のものだった。儂にとっての、大いなる永久の安らぎとは、死を置いて他にあり得なかった。そして、儂は未だ、死ぬことができなかった。張り詰めていた心の糸が切れてしまったというだけであって、何も頭の中にある血の管が切れてしまったわけではないのだ。心こそ引き裂かれても、悲しい哉……体には、どこにも死ぬ理由などなかった。

 どのくらいの間、眠っていたのかは自分でも分からぬ。――が、切れていた心の糸が、再び繋ぎ合わさると、儂はハッと眼を覚ました。同時に体をがくがくと震わせる。止め処なく流れていた汗はすっかり引いていて、体が氷のように冷たかったのだ。儂は蹲ったまま、胸や腹に熱い息を吐きかけた。少しの間そうして温まっていたから、眼を醒ましはしても、見えるものは暗闇ばかりだった。

 体が温まってくると、儂は漸く面を上げた。まず見えたのは、屏風の端から射している、月の光だった。夜が更けてくると共に、いっそう冷たく、眩くなった光に、儂は顔を顰め、掌で顔を擦った。血走った眼をぎょろぎょろと動かしながら、辺りを窺うと、小屋の中が異様なほどに静まりかえっていることに気付いて、はてな……と眉を潜めた。

 あの、狂気に彩られた猥らな宴は、どうしたのだろうか。儂の耳には、男どもの足音も下品な息遣いも、野蛮な笑い声も、芙蓉の艶めかしい吐息も喘ぎ声も、届いてはこなかった。聞こえてくるのは遠くで響く孤狼の遠吠えくらい。それともう一つ、ぴちゃぴちゃと水の滴る音だった。

 儂はむっくりと身を擡げ、膝を引き摺ってそろそろと前に進んだ。確かな事は定かではなかったが、周りに満ち満ちる闇の濃さからすると、儂が眼を醒ましたのは丑三つの頃であるように思えた。草木も眠る丑三つ時……とは言え、肉欲の塊のような樵どもが、そうあっさりと獲物を手放すなどとは、儂には到底、考えられなかった。一たび解き放たれた男の淫欲が、殊に山暮らしの樵の欲情が、たった一刻そこらで綺麗に治まって堪るものか。

 あまりにも深閑とした佇まいに、かえって胸騒ぎを覚え、もぞもぞと這い寄って屏風の縁に手をかける儂。十五人の樵どもや、女はいったい何をしているのだろう……そんな思いが瞬くうちに膨れ上がって、堪え切れなくなった儂は、亀の如く首をうんと伸ばした。

 眼から上の辺りだけを、屏風の縁からそっと覗かせて、怖々ながらも囲炉裏の方を窺う。

 火の殆ど消えかかった囲炉裏。その中で未だ頑張って爆ぜている小さな火種が、小屋の真ん中をほんのり照らしている。その弱弱しい朱色の光の中に、囲炉裏の傍にいる者どもの姿が、影法師となって浮かび上がっているのが見えた。言うまでもなくその影法師は、女と十五人の樵どものものだった。どれもみな、囲炉裏を囲むように横たわっていて、身動き一つしない。どうやら前後不覚に陥って、一人残らず眠っているらしいのだった。

 みんな、寝てしまったのか――と儂は小さな声で呟いた。樵どもが、こんなにも早くに宴を切り上げてしまうのが、意外でならなかったのだ。いや、意外どころの話ではない。同じ男として、奴らのあまりにも大人しい振る舞いは、到底信じられたものではなかった。

 しかし、幾ら意外だと思っても、現に一人残らずぶっ倒れている樵どもの姿を見ているのだから、信じる以外に道はない。儂は胸にモヤモヤとした後味の悪い疑念を残しつつも、取り敢えずは、熊五郎らに姿を見られなかったことと、思ったよりも事が速く運んだのに、ほっと胸を撫で下ろした。こ奴らが朝まで女と一緒に乱れるなんて事があったならば、儂は手も足も出なかったろう。それが、こんなにもすぐに潰れてくれるとなると、今からでも決して遅くはないという、春霞のように儚く頼りない望みを持てたのだった。

 儂は膝を引き摺ったまま、屏風の後ろから抜け出て、囲炉裏の方へと躙り寄っていった。熊五郎らに気兼ねする必要がないと知って後、真っ先に案じられたのが他でもない、女のことだ。大勢の男どもの慰み物となり、その体を散々弄ばれて、果たして、無事なのかどうか。樵どもと一緒になって、床に倒れているので、遠くから見ただけでは、ただ眠っているだけなのか、それとも気を失っているのか、どちらとも見当が付かない。まさか嬲られ過ぎて死ぬような事はあるまいな……と、そんな恐ろしい不安はすぐには消せなかった。そして怯みながらも、ずるずると囲炉裏に近づいてゆくのだった。屏風のある所から、倒れ伏している女までは、囲炉裏を隔てて一間ほど。短いはずのその一間が、儂には千里の道よりも長く感じられた。

 痺れて力の入らない足を引き摺りながら、じりじりと間合いを詰めてゆき、漸うにして女のいる所まで、あと二尺ほどという所まできた、その時だった。一息吐いてから前に踏み出した右の掌が、何やらべったりとした水溜りに、幽かな水音を立てて浸かったのだ。

 出し抜けに掌に走った水の冷たさ。儂は吃驚して、手を引っ込めた。すぐ傍に樵が一人倒れていたので、必死に喉を引き絞り、声を出す事だけは何とか凌いだ。飛び出しかけた悲鳴が胸まで逆戻りして、心の臓を急がせた。誰かが寝返りを打った拍子に、徳利を引っ繰り返しでもしたのだろう――と、初めのうちは、そんな風にしか思っていなかった。

 儂は顔を顰めた。実は小屋にある酒は、どれも儂が田兵衛の機嫌を取るために、持って来たものの一つでな。こんな飲んだくれどもには、一滴たりとも渡したくなかったのだ。

 それが、こうして毀れて水溜りを作っていることを思うと、何もかもを奴らに奪われた事の悲しみが募る。儂は目をしょぼつかせ、せめて掌の分だけでも――と、顔を近づけた。

 掌を濡らす水を、舌で舐め取ろうとする。途端に儂の鼻を、凄まじい悪臭が貫いた。

 鼻を強かに殴られたかのような衝撃を喰らって、思わず儂は膝立ちになり、顔から手を引き離した。そして、自分の手を濡らしている、水のようなものを、まじまじと見つめた。

 何という臭気だろう。甘酸っぱく生臭く、ぬるぬると鼻の辺りをいつまでも漂っている。ちょっと鼻孔を掠めただけでも、猛烈に気分が悪くなった。こんなにも酷い臭いは、終ぞ嗅いだ事がなかった。左手で鼻を押さえつつ、その場から二歩ばかり引き退いたほどだ。

 樵の一人が、酔い潰れて反吐でも撒き散らしたのだろうか。いや、反吐だってこれほど臭くはあるまい。儂は掌を床に擦りつけて水を拭いながら、何気なく水溜りに眼をやった。ぬめぬめと粘っこい、黒い水溜り。それをじっと見ているうちに、儂は妙な事に気付いた。

 儂は始め、水溜りが黒いのは、光が照らず影に包まれているからだとばかり思っていた。が、どうやらそうではないらしく、水溜りそのものが、黒々とした液汁を湛えているようなのだった。試しに掌に目を戻すと、まだ拭い切れていない水滴が点々と指の先に付いていて、それもほんのりと濁った黒味を帯びているのが見える。儂は床に左手をつきながら、じりじりと退いて、月の光りの差し込んでいる辺りまで戻ろうとした。

 すると、何度目かに伸ばした左手が、傍らで仰向けにがっていた樵の体に触れて、儂はハッと首を曲げて樵の方を見やった。腕は、樵の頬を強めに打ったらしく、その弾みで、儂に後頭を向けていた男の首は、ぐらぐらと頼りなく揺れ、終いには儂の方に、ごろりと勢いよく顔を向けたのだった。幽かに映える月光が、その男の頭を背後から照らしていた。

 男の口の中から、どろりとしたものが毀れるのを、儂は見た。それが床にぼとりと落ち、まるで生きているかの如く広がってゆくと同時に、さっきまでのそれとは比べ物にならぬほど強い悪臭が鼻を貫いた。むかつく胸を押さえながら、大きく口を開く儂。反吐が出ると思ったのだが、出てきたのは聞こえるか聞こえないかくらいの、か細い悲鳴だけだった。

 儂は漸く全てを悟った。この悪臭を放つ水の正体も、樵たちが、こんなにも早く酒宴を終えた事、或いは酔っ払っているというのに寝息一つ立てずに大人しく眠っている、そのわけも。そして、儂が気を失っていた間に、囲炉裏の傍では何が行われていたのかも……。

 樵が吐き出している、どろどろとした黒い水は、血だった。酒気と腐汁、そして腸から染み出る、ぬとぬととした汁――人の体の中から絞り出したものを、全て綯い交ぜにした血反吐だったのだ。それを吐き出しているのは、傍に転がっている樵だけではなかった。

 ただ儂が気付いていなかっただけで、眼を凝らすと、二尺ほど離れた所でこっちに顔を向けて倒れている男も、囲炉裏の周りに固まって伏している男たちも、みんな口から同じ、どす黒い色をした血反吐を吐いているのが見えたのだ。彼方此方の惨たらしい光景が目に飛び込んでくる度、小屋の中に漂っている血の臭いが濃くなってゆくように、感じられるのだった。儂は怯えるあまり、鼻を押さえる事も忘れて、手足を振り回して暴れ狂った。

 気付くのが、あまりにも遅かった。

 奴らは――十五人の樵たちは、眠っていたのではなかった。口から血を吐いて、死んでいたのだ。月明かりに照らされた樵の死顔には、くっきりと苦痛の跡が刻み込まれていた。

 引き攣った喉で、わけの分からない囈言と呟きながら、子供のように足をばたつかせていると、不意に囲炉裏の奥で、もぞもぞと何かの蠢く音がした。儂の体は、その小さい音のために、金縛りにかかったかの如く固まってしまい、辛うじてぎょろぎょろと動く眼を、かっと見開いて、囲炉裏の奥へと向けるばかりだった。

 儂の見ている前で、蠢いていたものが、むっくりと身を擡げた。そして、衣擦れの音を響かせながら囲炉裏を跨ぎ、こっちに向かって歩いてくる。冷たい月明かりに、その姿が照らされた。

 立っていたのは、一人の艶めかしい女だった。

 その姿は、見るも哀れで、……凄絶だった。

 皺だらけの翠の着物はすっかり肌蹴て、雪よりも白い胸や、ほっそりとした脛が覗いている。振り乱した髪の毛は、天に向かって伸びる歪な枯れ枝のようで、ギトギトと脂ぎった輝きを帯びていた。体からは、だらりと力が抜けきっていて、足取りも頼りない。頭が、眠る赤ん坊の如くぐらぐらと揺れていて、両手を前に突き出してやってくる様は幽鬼を思わせる。虚無を形にしたようなその佇まいに、儂は息を呑んだ。空ろなその瞳を見ていると、腹の底に寒気を覚えた。

 顔は、只管に儂の方を向いていた。その口元は、真っ黒な影に覆われて見えなかった。月光に顔が照らされても、鼻から下だけは黒いままなのだった。そこだけが闇に溶け込んでいるので、まるで顎の辺りが、ごっそりと削げ落ちているようにも見えた。目を背けたくなる容貌だった。しかも、影は顎の先から、ボトリ……と、大粒の雫となって滴っていて、着物にも、袖や裾から覗く手足にも、黒い点が幾つも付いていたのだ。その影のわけが、果たして何であったのか――それは、女が近付いてくるにつれて、どんどん濃くなってゆく、あの臭気のためにすぐ分かった。

 儂は鼻を塞ぐのも忘れ、ゆるゆると頭を擡げながら、顎のない女の顔を、まじまじと見つめた。

 光の中に現われたのは、女には相違なかった。だが、儂の知っている女ではなかったのだ。

 痩せこけた腕を伸ばし、老婆のように歪んだ指を蠢かせて、静々と歩いてくる女からは、儂の見知っていた人物の面影が、すっかり消えうせていた。それまでのは、愚鈍……そう、愚鈍という言葉が何よりも似合う女だった。その、雪の如く真っ白な肌と同じように、浮世の汚れを知らず、人を疑うことを知らず、人の嘘を知らぬ。何を言っても、あどけない眼をぐりつかせながら、すぐ鵜呑みにしてしまう――そんな子供のような女のはずだった。

 それが、どうしたことだろう。たった一晩で、人間の形相とはこうも変わるものなのだろうか。或いは、儂は幻に魅せられていたのだろうか。それは、今でも分らぬ。

 女の虚無に満ちた瞳の中には、嵐を前にして急ぐ流れ雲の如く、重く暗い灰色の狭霧が漂っていた。灰色――あの時の女の様子を言うのに、これほど似つかわしい色も他にないだろう。幾つもの色を練り混ぜた後に出来上がる混沌とした灰色……。血に塗れていても、女の顔は静かだった。しかしその眼だけには――刺々しい刃を秘めた雷雲の如き、不穏な気配を醸していたのだ。渦巻くのは禍々しき狂気であり、また底知れぬ憎悪でもあった。

 女は、すす……と足を忍ばせて儂の前までやって来ると、膝を折って屈みこんだ。背を丸めているので、儂よりも小さくなる。手を床につくと、屈むというよりは、地面に這いつくばるような無気味な格好になった。女はその蜥蜴の如き構えのまま、首だけをあらぬ方に曲げて、儂の顔を下から覗きこむ。ぎしぎしと首と腰の骨の軋む音が、遅れて響いた。

 無理に体を曲げているから、苦しいのだろう。捩じられた首が戦慄きながらぎちぎちと音を立てる。かっとひん剥かれた眼からは瞳が消え、淀んだ白まなこが、ぎょろぎょろとのたくる蛆虫の如く蠢いていた。その淀みの中には、つつ……と口元から糸を引いて黒い血が流れ込んでいる。その様はまるで血の涙を流しているよう。べっとりと顔の下を覆い隠す夥しい血は、女の顔を、この世のものとは思えぬ形相へと、塗り替えていたのだった。

 ぎゃっと喚いて飛び退くと、女は捻じ曲がった首を、ぎしぎしと軋ませながら戻して、手と膝を引き摺りながら、犬の如く儂の足元に近付いてきた。何があっても逃すまじ……女の濁った眼の中に、儂は鼈よりも甚だしい確執を見た。

 だらりと伸ばした儂の左足、その踵を、這い寄ってきた女が痩せこけた腕でがっしりと掴んだ。弱弱しい見かけとは裏腹に力は強く、万力のように儂の踵を締め上げた。痛みに歯を食いしばる儂に向かって女はせせら笑い、口を窄めて、ぶっと何かを吐き出す。黒い、べったりとしたものが、儂の鼻にひっ付いて、粘々した液汁を垂らしながら、つつ……と引き摺り落ちていった。それが何であるか分かった途端に、我慢できなくなって、反吐をぶちまけたのは、先に話した通りだ。

 殺した男の一人から食い千切った舌だった。

 反吐と血で汚れた儂の胸倉を、女は右手で掴んで捩じ上げた。女の整った鼻先と、儂の不格好な鼻とは一寸ほどの隔たりしかなかった。左手は変わらず、左足の踵を離そうとはしなかった。それだけでは飽き足らずに爪を突き立てて、肉を抉り出そうとまでしてきた。

 女が口を開く。ゾッとする血の臭気が、顔に降りかかった。ごぽごぽと喉の奥を鳴らしながら、女は言葉を紡ぐ。顔こそ端麗だったのに、口から吐き出される声は低く野太く、僅かながら震えていた。まるで男が女の声色を使いつつ喋っているような、ちぐはぐな感じがあった。一言一言、何か言うたびに口の端から、どろどろと血が毀れた。

 ――あんたさえ。

 ――あんたさえいなければ。

 口の中の苦みを少しでも薄めようと、儂は金魚の如く口をぱくぱくと開いた。と、それを見た女は、儂が何か言いたそうにしていると思ったのだろう。胸倉を掴む手に力を籠めた。

 しかし次の瞬間には表情を和らげて、有ろうことか――儂に莞爾と微笑みかけさえした。

 それと同時に、儂の胸倉を掴む手が、ほんの少しではあったが和らいだ。儂は荒い息を吐きながらも、女をぎょろりと見据える。

 逃げようと思っても、女の左手が儂を放そうとはしなかった。親指の爪が踵の皮を引っ掻いて破り、肉の中に突き入ろうとしていた。痛みが、儂の顔を丸めた紙屑のようにクシャリと歪めた。

 女は、忍び笑いを漏らした。そして、胸倉から右手を離す。それをそのまま、己が胸元に差し入れた。女の艶やかな手つきに、儂の目は及ばずして、女の胸の辺りに向けられる。暗かったせいと、女の惨たらしい形相に、気を取られ過ぎていたせいで、その時まで気づかなかったのだが、すっかり肌蹴きった着物は、胸元も緩んでいて、よれよれに解けかかった帯の上に、ふんわりとした弛みができていた。

 ――いやよく見ると、それは肌蹴た着物が拵えた弛みなどではなかった。

 腹の中に毬の如き丸いものを入れているためにできた、膨らみであるように思えるのじゃった。胸元に差し入れた女の手は始め、まるで乳房を弄ぶかのように蠢いていたが、そのうち腹の辺りまで降りていって、隠してある丸い塊を嬲り始めた。何か探っている様子だった。一言も口を挟めないで、ただ成り行きを見守っている儂に、女はせせら笑いを向け、同時に手を胸元から引き抜いた。そして引っ張り出してきたものを、儂の前にグイと突き出したのだ。

 もう、吐くものは胃の中には残っていなかった。だからどんなに恐れ戦いても、気分を悪くしても、口から出るのは死にかけの蚊よりも弱弱しい、途切れ途切れの息だけだった。

 女が胸に隠していたのは、田兵衛の躯だった。とは言え、田兵衛の四肢を余さずして、胸の中に隠しておく事などできはしない。毬のように丸いもの……あるのは首から上だけだった。苔よりも深い蒼に染まった顔は、ぐっと歯を食い縛って眼を怒らせている。儂に夫婦柳の生えた岩から突き落とされた時の、驚愕と苦悶の形相がしっかりと刻みつけられているのだった。女は躯の蓬髪をしっかりと掴み、鈴のように儂の前で軽く振ってみせた。

 顎の下には、黒い染みのどろりと付いた皮が、びろびろと下がっていた。その奥には、石榴の如く爆ぜた、ぐちゃぐちゃの肉片が覗いていた。錆びた鋸や、鈍い石包丁なんぞでゴリゴリと挽き、半ば引き千切るようにして、首を胴から切り離したのだろう。傷口や、伸びきった首の皮が、無残な斬首の光景を、儂の脳裏に、ありありと浮かび上がらせた。

 刈り取られてから、ずいぶんと時を経ていたのだろう。傷口はすっかり乾ききっていて、毀れるものと言えば血ではなく、紅色をした、小さな肉の欠片だった。ぶよぶよとした、蟲の卵の如き無数の肉片は、毀れ落ちると音もなく床にぶつかり、そのまま四方に散った。

 さっきまでの悪臭とは、少し違った甘酸っぱい臭い。それは腐りかけた肉が醸し出す、死の香だった。月明かりに青白く映える田兵衛の顔は一面濡れていて、つるつるしていた。

 と、儂の眼前から、スッと田兵衛の首が引っ込んだ。それと同時に、儂の足を傷つけていた女の左手が、さっと離れる。見ると女は儂に横顔を向けており、胸に首を掻き抱いていた。

 田兵衛の両頬に掌をそっと当て、まるで赤子をあやすかのように、ゆっくりと己が顔の辺りまで持ち上げる女。いったい何をする気なのかと、儂はただただ唾を呑みこんでいた。

 田兵衛の口は半開きで、唇の端から平たい舌が覗いていた。それを押し戻すようにして、女は田兵衛と唇を合わせる。ぴちゃぴちゃと、ぬめり気のある水音が、儂の耳に響いた。艶めかしい吐息も聞こえてきた。女が首を、さも愛しげに弄ぶ様子が、はっきりと見えた。

 山地乳……儂は思わず、そう呟いた。

 山地乳と呼ばれる化け物のことは、知っておるか。――そうだろうな。久しい以前に一度、話してやった覚えが、儂にもある。

 山地乳は、奥州の山に出たと言われる、猿に似た物の怪だ。蝙蝠が年老いると、野衾という化け物に変わり、更に年を経るとこの化け物になると信じられておるのだ。夜更けの山小屋に忍び込んでは、眠っている者に屈みこみ、尖った口先を獲物の口に押し付けて、寝息を吸い取るのだ。寝息を吸い取られた者は、その様を誰かに見られていたなら長寿を得るのだが、気付かれずにいると、夜明けと共に山地乳に胸を叩かれて、殺されてしまう。

 むしゃぶりつくようにして躯の首に齧りついている女は、まさにその“山地乳”だった。樵たちは、女に殺されたのではなかったのだ。女の姿を借りた山地乳に口を吸われ、その正体を見破ることができなかったために、舌を抜かれて殺されたのだ。一人ずつ、容赦なく……。酒に酔っ払っていては、舌を抜かれて事切れた仲間になんぞ、目がゆくはずもない。精を出しきって疲れ果てたとか、そんな風に思って、次は俺が、いや俺こそがと、勢い勇むに決まっておった。月明かりだけを頼りにまぐわうのだから、殺されてゆく者の悲痛に歪んだ顔や吐き出される血反吐など、見えなかったのだろう。舌を抜かれていては、声も出まい。

 ――それから少しばかり経って、女は田兵衛から口を離した。その赤く濡れた唇には、毒々しい紫色をした舌が垂れ下がっている。それはまるで、花弁を加えているようだった。

 ごくりと音を立てて舌を呑みこんだ後、女は唇を湿し、再び儂の胸倉をむんずと掴んだ。その指がゴワゴワと蠢きながら、胸を這い上がって行ったかと思うと、そのまま両手で、首をしっかりと握りしめた。のどぼとけを強く押されて、思わずえづく儂。その拍子に、体の中に残っていた空気を全部吐き出してしまい、慄然と共に猛烈な息苦しさに襲われた。

 女の満足げな低い笑い声が、かっと熱を帯び出した耳に纏わりつく。

 メリメリと嫌な音を立てながら、女の指に力が加わった。もはや絞め殺すのではなく、首を絞め千切って殺そうとしているのではないかと思えるくらいに、強い力だった。女の腕に――いや人間の腕に、これほどの力があるだろうか。狂気の持つほんとうの恐ろしさ、それを儂は死の瀬戸際になって、ひしひしと味わったのだった。

 もう何が何だか分からなくなって、やたらめったら両手両足を振り回す儂。握り締めた拳が、女の顔を幾度となく打ち据えた。だが女は儂を離しはしなかった。それどころか、一瞬の隙を突いて胸を肘で強く突き、儂を床に転ばしてしまった。どうと仰向けに倒れた儂の腹に馬乗りになって、更にぎちぎちと首を締め上げる。そうなると、儂に逃れる術はなかった。

 女を傷めつけても逃れられないと悟ると、今度は腕を頭の方に伸ばし、体をくねらせて、少しでも後ろへ退こうとした。汗ばむ指が床の上を這い回り、あちこちを爪で引っ掻く。

 と、その時だ。右手の指の先にゾッとするほど冷たく、固いものが触れるのを覚えた。それは棒のように細長く、指先で幽かに触れただけでも、ズッシリと重みが伝わってきた。

 儂は躊躇わず、それを引っ掴んだ。そして一瞬の間も置かずに腕を振り上げる。掴んだものの正体が何であるかも分からぬままに、満身の力を腕に籠め、女の頭に振り下ろした。

 肉の断ち切られる感触が掌のみならず、肩の辺りにまでやってきて、やがて痺れとなり、儂から得物を奪った。儂の手をするりと抜け出した山刀は、切っ先を真下に向けて落ち、グサリと音を立てて、床に突き立った。月の光を受け、刃がギラギラと冷たく輝いていた。

 ……。

 …………。

 ……………………。

 …………………………………………。

 ――それから先は、先に語り聞かせた戯言と何ら変わるところはない。逃すまいとする女の手を振り切って、傷ついた足で小屋を飛び出し、そのまま山を転がるように駆け降りて、麓の村まで帰り着いたのだ。ずっと帰ってこなかった儂が、体中に擦り傷を拵え、足に空いた穴から、だらだらと血を流している様子に、村の者たちは吃驚仰天しておった。

 …………………………………………。

 ……………………。

 …………。

 ……。

 …。

 どうじゃ、これがお前の望んだ、ほんとうのこと――じゃ。聞くまでもなく、お前は全て知っておったのだろう。知っていながら、儂に話させたのだろう。儂の所業を、悔い改めさせるためにな。さよう……確かに儂の勝手な行いのせいで、多くの命が奪われたのじゃ。

 もう、逃げることにも疲れた。好きなようにするが良い。儂の耳には聞こえるのだ。奴らの誘い声が――北又谷に躯を晒す十六人の樵たちの、おいでおいでと呼ぶ声がな……。

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