この日、小屋に戻った夕暮れ時を境にして、不思議な二人暮らしが始まった。その中身は、儂がかつて夢想し、只管恋い焦がれていた憧れの日々とは、全く違っていた。

 何よりも意外だったのは、女がいつまでも、山から下りようとはしない事じゃった。

 さすがに儂もこればっかりは予想できず、どうして良いのか分からなかった。女の心が知れなくなったのも、この時からであった。何故、山を下りないのか――その訳を何度しつこく問い質しても、答えようとはしなかった。ただただ、山に残ると繰り返すばかりで、その他には、何も言おうとしなかった。

 それまで儂が露骨に女を避けてきた所為で、二人きりとなってからの暮らしでも、すぐには打ち解けず、一日一日を終始無言で送っていた。偶に言葉を交わすかと思えば、それは全て、山を下りる下りないというような言い合いの時だけ。それもいつしか面倒になってやらなくなると二人の交わりは切れ、沈黙は益々深くなり、気まずさは愈々募った。

 ほんとうなら、女と少しでも打ち解けられるよう、儂の方から働きかけるべきだったのじゃろう。だが儂も奥手だったし、何よりも相手の佇まいが、儂を強固に拒んでいたために、それもできなかった。女が儂に嫌悪の表情を見せたことは一度もない。が、自分の周りに茨の如き刺々しい気迫を張り巡らして、儂に気を許そうとはしなかった。

 そんなだったから、執拗に山に拘っていた理由など、女が答えない以上儂に分かるはずもなく、愛しい田兵衛が眠る山だから、離れるのが忍び難いのだろう――と、それくらいしか、思い当たる節がなかった。儂の眼に、その女はあくまでも拠所を失った蚊弱い女としか映っておらなんだし、心の内に恐ろしい謀りを秘めるようにも見えなかったから。ただ、同じ屋根の下に住んでいる者の気が知れないというは、やはり気分の悪いものだった。

 囲炉裏を囲んで一緒に飯を喰っている時も、離れた所に布団を敷いて眠っている時も、必ず心の中にしこりのようなものがあって、片時も落ち着く事ができなかった。田兵衛の生きていた時の山暮らしとは、また違った居心地の悪さに儂は閉口した。この時になって、自分のしたことを後悔する気持ちが、ほんの少しばかり芽生えてきたほどだった。

 それほどまでに山の暮らしが嫌だったならば、儂だけでも下山すれば良かったのだ。今となっては、自身でもそう思う。しかし、それができないわけが儂にはあった。未練立ち切り難かったのはもちろんだが、一人で山を降りた時のことを考えると険呑で、どうしても足が竦んでしまった。

 田兵衛殺しの疑いを被ることが、怖かったのだ。田兵衛の躯を実際に見た女が、その死に様を村の衆に話して、初めて田兵衛が蠎に喰われたという話は、ほんとうらしく思えてくる。儂が一人で馬鹿のように、蠎が出た蠎が出た――と触れまわったところで、すんなりと信じてくれるようなものなど、滅多にはおらぬ。 あの岩崩れの音も、麓の村にまでは届かなかったろう。

 分かるだろう。女が山に留まると言って憚らぬ以上は、儂も一緒に山に留まらざるを得なかったのだ。恐ろしい人殺しの疑いを――それは全うな疑念なのだが、そんなものをかけられるのは誰だって厭だろう。儂に田兵衛を殺させたのも、儂を山に縛りつけるのも、あの女だった。

 田兵衛という邪魔ものがいなくなったというのに、一寸も縮まらない儂らの距離。すぐ傍にいるというのに、何もできないもどかしさ。生殺し無間地獄のような暮らし――いつかは必ず破綻するに決まっていたが、その兆しは、田兵衛が死んでからちょうど十日ほど経った日に既にあった。

 その日の黄昏時、小屋に戻ってみると女の姿がなかったのじゃ。不審に思って脱ぎ散らかされた履物を見たところ、草鞋が一足、なくなっていた。

 小屋を抜け出して、何処かへ行ったようなのだ。

 まずピーンと閃いたのは、一人で逃げたのではないか……というゾッとするような疑惑だった。が、それがすぐに打ち消された。

 山に留まると言っていたのは向こうだろう。麓の里まで、樵が歩いたって一日かかるし、雪が邪魔なこの季節は、もっとかかる。ましてや蚊弱い女の足――何も持たずに、独りで山を下りるなど、殺してくれと言っておるようなもの。そこまで愚かとは思えない。

 何処へ行ったのだろうか――それを考えると、儂は答えに詰まって、腕組みをしたまま顔を歪めてしまった。山の中で、あ奴が行く場所などあるはずがない。何せこの山には、儂と女の二人っきりしかおらぬのだからな。別の樵が山に入るという話も、聞いてはいなかった。飛騨の山は、蠎が住むという言い伝えの他にも、亡者道やら幽霊街道やら、そういった魔所が多くある。それを恐れ、樵仕事や狩りをしない男どもは村にも多かった。信心深い者ほど、広げた屏風の如く果てなく続く飛騨の山々には近付くことができなかったのだ。北又谷も、以前から魔の出る所として知られていて、此処を訪れるのは哀れな余所者か、或いは田兵衛のような迷信嫌いだけだった。

 行く宛てもない。会うべき者もいない。何のために外に出ているのか、どんなに頭を絞ってみても分からないとなると、儂の胸に湧き起こってくるのは痒みを伴う不安と、苛立ちだった。儂の気苦労を余所に、何を勝手な事をしているのだと思わず毒を吐きつつ、小屋の中を当てずっぽうに歩いた。女の姿が見えぬうちは、のんびり腰を下ろしていることなどできそうになかった。刻一刻と膨れ上がってゆく焦燥に息苦しくなりながら、儂は待った。何度も何度も戸口から小屋の外を眺めた。美しき白銀の雪景色さえ、癪に障った。

 そうやって待つ事半時ばかりすると、唐突に遠くの方から、草鞋が雪を踏みしめる音が聞こえてきた。儂はハッと音のした方に首を向けて、勢い良く足を踏み出した。戸を蹴り破らんばかりの勢いで外に飛び出し、痺れるような雪の冷たさを裸足に感じながらキッと前を見据えると、思った通り四間ほど向こうに、ぽつねんと黒い影があった。女であることは、よたよたとした足取りで知れた。いつも小屋の中で着ている翠の着物の上に、田兵衛の使っていた蓑を背負って笠を被っただけで、山を歩く者の装いとは思えなかった。

 そんな恰好でふらふらと出歩き、よく戻って来られたなと、儂も怒るより先に呆れた。

 飛び出してきた儂の姿を見て、女はハッとしたようだった。しかし、すぐ何食わぬ顔に戻り、儂に向かって軽く頭を下げた。思いも寄らぬ変わり身の速さに、儂は戸惑った。

 相手が眼前まで近付いた時に、儂はごくりと唾を呑みこんで口を開いた。逸る心を抑えつけ、敢えて穏やかな調子と心配げな表情を表に出した。いったい何処に行っていたのか、何も告げず一人で出歩くのは危ないではないか――という儂の言葉に、女は頭を下げ、

 ――申し訳ございませぬ。聊かの用事がありまして、小屋を空けておりました。

 と苦しい言い訳を吐いた。儂の問いかけに素直に応じたわりには、奥歯に物が挟まったような言い方。何かある……と、儂は疑いを深くしながらも取り敢えずは、そうか――とだけ呟いて、小屋に招き入れた。雪と同じくらいに白い女の顔が、頑なに感情を押し殺しているのが窺えたからだ。端から心を閉ざしている者を問い質してみたところで、結果など知れている。とにかくも中に入れと、女の肩を持ち小屋に誘った。儂の節くれ立った指先が体に触れると、微かにだが、身を捩じらせたように思えた。

 謎の徘徊は、この日を境にして度々行われるようになった。最初はそれを隠そうと色々に工夫を凝らしていたらしいのだが、浅はかな女の知略などで、樵の眼を誤魔化せるものではない。仕事を終えて戻ってきた時、女が小屋の中でちゃんと、飯の支度をしていたとしても、その草鞋に付いた泥を見れば、どれくらいの時間、小屋を空けていたのか探る事は容易かった。着物の裾に付いた赤黒い汚れも、ふらふら外を出歩いていた事を如実に物語るものであった。ある時なんぞは、あまりにも急いで帰ってきたために、すっかり忘れてしまっていたのだろう。包丁で俎板を叩く右手に、べっとりと同じような汚れが付いていたことさえあった。歩いているうちに転んで、泥濘にでも手を突っ込んだのだろう。その光景を、儂は脳裏にありありと思い描けたのだ。隠し通そうと頑張っている割には、あまりにも子供っぽい荒が目立った。無邪気とか可愛いとか、そんな風に言って済ませられたら良かったのだが、儂にはとてもそんなことはできなかった。

 微笑ましく思うどころか、山に満ち満ちるぽっかりとした寂しく空虚な気配と綯い交ぜになって、よりいっそう気味悪く感じられるくらいだった。それまでは、ただ考えていることが分からないだけだったのが、この頃から儂には女が得体の知れないもののようにも、思えてきた。しかしな、危なげな女ほど人を惹き付けるものはない。不気味になればなるほど、艶めかしくも、また美しくもなるのだ。儂は、女に対して微塵も心を許せなんだが、だからと言って芙蓉を厭うていたわけでも、嫌っていたわけでもない。それどころか、ますます心を奪われて、殆ど骨抜きのようにさえなっていたのだ。

 こんなことばかりを話していると、お前は、きっとこう思うに相違ない。そこまで想うのならば何故、乱暴にしてでも手篭めにしなかったのか。何故、いつまでも情けなく、一人で悶々としているのか――と。確かにその通りだ。

 田兵衛がいなくなった今、儂は出方次第で女を己が物にできた。そんな儂の衝動を阻むのは、殺しても猶、みしみしと感じられる、田兵衛への深い劣等感だった。田兵衛は死んだというのに、女は未だ奴のことを愛している。そんな相手を乱暴に掠め取る事は、儂の敗北を意味していた。

 女が心から儂に惚れてこそ、儂は初めて願いを叶え、田兵衛に対して抱いていた負の感情を、全て洗い流すことができるのだ。乱暴を働き、無理やりに奪い去っても儂の脳裏から、田兵衛の姿は消えやしない。あの、儂が心から憎んだ薄ら笑いを浮かべ、儂を指さしてゲラゲラと喉を震わせている田兵衛の姿は。

 それは今だって消えず、儂を責め苛んでいる。お前は結局、おらには勝てやしねえんだ――そう言って、嘲るのだ。

 儂の眼を盗み、いったい何処に行っているのか……それを考えると、仕事をしている時も落ち着かず、ただでさえ気の休まる暇のなかった日々で、更に焦思苦慮する事となった。

 しかもその仕事というのが、もはや片時も休めぬようなものになってしまった分、儂の苦悶は尚更甚だしいものになった。二人で山暮しを営むようになると、それまでの、木を伐って丸太にして、丸太を金に換えるなどといった面倒で悠長なやり方では到底、喰っていけはしなかったのだ。儂は斧や隙を捨て、鉄砲と山刀を持つようになった。独り果敢に山や谷の中に分け入り、猪や猿、鳶や鷹なんぞを獲ってくる狩猟が儂の欠かせない日課となった。それは樵と同じ――いや、それ以上に死と隣り合わせの仕事だった。

 儂は毎日、朝日と共に小屋を飛び出して、手当たり次第に喰い物を探した。運よく獣を見つければ血眼になって追いかけ回し、日が暮れても獲れるまで止めようとはしなかった。

 鳥を見つければ、まずこっそりと後を付け、巣に戻る前に鉄砲で撃ち殺した。それだけでは飽き足らず、巣の中にある雛や卵まで根こそぎ持っていった。ある時なんぞは、猪の巣穴に火を投げ込んで焼き殺し、逃げてきた猪を狙い撃ちして、十頭も二十頭も獲った事さえあった。惨いことをすると顔を顰めるかも知れぬが、そんな暢気なことを言っていては、峻厳な飛騨の山では生きていけぬ。始めてやったのは、田兵衛が死んでから五日ほど経ってからで、それから二十五日もの間、儂は狩りに明け暮れた。儂の手はすっかり、生臭い血で濡れてしまった。滅多に人の入らぬ山だから、喰える獣はたくさんいた。しかし、人を知らぬという事は即ち、人を恐れぬということ。儂の手を濡らしたのは、撃ち殺した、或いは切り殺した獲物から流れる、血のみではなかった。

 朝早く、一たび小屋を出れば黄昏時になるまで戻ることは許されなかった。日が暮れて、視界が利かなくなって初めて、猟を止められた。それまではどんなに疲れていようとも、一匹でも多くの獣を追って奔走しなければならなかった。その日たくさん獲れたからと言って、次の日に同じように獲れるとは限らない。獲れない日が何日も続いた日の事を考えると、これで充分――なんていう気持ちは、これっぽっちも浮かんでこなかった。

 儂がこうして猟に出ている間――即ち陽が東の空から昇り、天の頂を通って西の空へと落ちてゆくこの長い時間、留守を任された女は、何でも己が好きなままに振る舞えた。行こうと思えば、女の足でも随分と遠くの方まで行けただろう。儂は奴の妖しい散策に気付いてからというものの、毎日毎日、草鞋を確かめることにしていた。

 すると、どうだろう。いつもいつも、同じ色の土がこびり付いているのが見つかったではないか。行く先が何処であろうと、女はまるで愚鈍な犬のように、毎日毎日同じ道を、行ったり来たりしているらしいのだった。その様を想像すると、自然と体が疼き出した。

 もっとも儂に分かったのはそれくらいで、後は向こうが口を割るか、儂が自ら動いて暴き出すかしないことには、さっぱりだった。当分の間は、そのどちらも望めそうにはなかった。女が自ら告白するなんて事は、まずあり得ないし、儂も日々の狩りを疎かにするわけにはいかなかった。儂は当初自分で決めた通り、黙っているしかなかった。我慢に我慢を重ねて、この不思議な膠着状態を崩す糸筋が現れてくる時を信じて待ったのだ。瓦解の糸筋が、いつかは必ず眼前に現れると、はっきり分かっていた。

 儂のこの睨みは、間違っていなかった。無言の拮抗を崩してくれる糸筋は、田兵衛が死んでから三十日を経た夕暮れ時に、突如として姿を現したのだった。あの日――そう……あの日、儂は全てを悟った。そして、心臓を鷲掴みにされる恐怖を味わった。

 ……。

 …………。

 ……………………。

 その日は、朝から何かが違っていた。

 鉄砲を担ぎ、蓑を付け、山刀を背負って外に出ようとした儂を、女が呼び止めたのだ。

 突然に言葉をかけられた儂は驚いて振り返り、相手の顔に浮かんでいる表情を見て、再び目を丸くした。女が口を開くというだけでも珍しいのに、その顔には、田兵衛が死んでからというもの、一度も見た覚えのなかった笑いが浮かんでいたのだから。それも、谷で見せたような狂気に心を乱されたがための曖昧な笑みなどではなく、嬉しいことがあった時に見せる、ニタニタとした笑いだった。儂は思わず、自分の眼を何度も擦ったものじゃ。

 女は驚いている儂を面白がるような眼で見つつ 、竹の皮に包まれた握飯を差し出した。仕事の合間に喰う飯は、女が作ることになっていた。いつもなら、土間の片隅にぽんと放り出してあるのを、その日だけはどういうわけか、直に儂に手渡したのだ。

 儂は困惑の表情を浮かべながら、握飯を受け取った。すると女は、これで用は済んだとでも言わんばかりに踵を返し、儂に背を向けて小屋の中を掃除し出した。顔が見えなくなる最後の時まで、ずっとニタニタ笑いは消えていなかったようだった。

 何がそんなに、嬉しいのだろう――小屋を出て、獲物を探し歩いている間も疑惑は胸の中で渦巻いていた。

 二十五日もの間、ぶっ通しで狩りをしたのだから、小屋の周りには殆ど喰えそうな獣はいなかった。浅ましい獣も、さすがに儂を恐れたのか滅多に姿を現そうとはしなかった。儂は、眼を皿のようにして獲物の足跡を追いかけ、遂にはあの北又谷へと入った。

 山の彼方此方で猟をしてきた儂も、北又谷へ入るのだけは抵抗があった。そこには、儂が殺した田兵衛が眠っておる。自分が殺した男が眠る場所を踏み荒らすのは気が咎めるだろう。しかしその日は未だ、一匹も獲物が獲れていなかったのだ。 

 儂の追い続けていた足跡は、谷の奥の方へと伸びていた。己が所業に怯んでこれを見逃すのは、あまりにも勿体なかった。

 考えに考えた末、儂は腹を括った。微かに震える足を叱りつけ、一歩を踏み出したのだ。水の枯渇している北又谷は、相変わらず寂しい所だった。風だけが乱暴に吹き荒れていた。

 みちみちと霜雪を踏みつけながら、足跡を追って谷を歩く。二里ほど歩くと、恐ろしく唐突に足跡が途切れ、その先には儂よりも背の高い、ごつごつした大岩が寝そべっていた。岩の向こうは険しい崖。狼や猪ならば容易く登れようが、人間の足ではまず無理だった。

 儂は視線を途切れた足跡に向けたまま、がっくりと肩を落とした。この岩を登って崖の向こうへと姿を消した獲物が、何だかとても大きくて美味そうな奴に思えてならなかった。そいつを逃してしまった自分に、虚しさと苛立ちが募った。

 峻厳な山中では人も凶暴になる。事が思うように行かなかったり、中途でしくじったりすると、苛々や憤懣が爆発する。一人で寂しい谷にいて、その怒りを宥めてくれるものがない時などは尚更だ。儂は悔しい気持ちが喉にまでせり上がってきて、無性に熱くなった。そしてクソッと呟きながら、眼の前に転がる小石を思い切り蹴飛ばした。

 儂の蹴り方が拙かったのだろう。小石は真っ直ぐには飛ばずに、ふわりと舞い上がった。儂の眼は視線と小石を追っかける。この時になって、初めて足跡から目が離れた。小石は歪な半円を描きながら、儂の眼前にあってそれまでは気付かなかった、大きな木にぶつかった。からからと乾いた音を立てながら、岩の上を滑り落ちる。その様子を儂は、音だけで知った。木にぶつかる寸前までしか、小石を見ていなかったのだ。

 岩の上に根を張った巨大な夫婦柳に、眼を釘つけにしていたからであった。厳しい冬が続くというのに、一対の老樹は倒れもせず、葉のない枝を伸ばしては空を引っ掻いていた。

 大きな柳の木……そう。儂が佇んでいたのは、儂が田兵衛を殺した大岩の前だったのだ。

 異常なほどの執心に身を任せて、足跡を追ってきた儂には、眼前に行き着くまでそこに柳の木があると分からなかった。だから儂にはそれが、あまりにも意表を突いて出てきたような気がして、思わずあんぐりと口を開け、呆けてしまったのだ。当分の間は、何も考える事ができず、夫婦柳の禍々しく歪んだ幹を、眼を見開いて眺めているしかなかった。

 長い時を経てから、儂の視線は幹を辿って自然と落ち、岩に喰らいつく根っこを伝って、地面まで降りていった。まるで、からくり人形のようなぎこちない動きだった。

 岩陰に行き当たる前に、儂は呻いて眼を固く閉じた。その先に転がっているはずのものを見たくなかったからだ。儂は瞼が震えるほど、閉じた眼に力を入れた。

 眼を閉じたまま、その場をゆっくりと退こうとする儂。しかし不思議なもので、足が儂の言うことをこれっぽっちも聞いてくれなくなったのだ。とにかく岩から離れたいと、体を逸らして後に下がろうとするのに、足は棒のようにピンと伸びたまま、しかも地面に吸い付いてしまっていて、一寸も動かなかった。儂は焦って、眼を閉じながら何度も足を引っ張ったのだが、どんなに力を入れようとも、ぴくりともしない。まるで誰かが、儂の両足をしっかりと握り、地面に釘付けにしているかのよう。そんな思いがふと湧き出ると、儂は頭から水を被せられたようにゾーッとした。あり得ない光景が、一瞬脳裡を過ぎった。

 不思議は、一度では終わらなかった。今度は、あれほどまでに固く閉じていた瞼が、震えながらも僅かずつ開いてゆくのだった。これまた、儂の力では止められなかった。

 見たくないと心の中でどれほど強く念じていても、やはり気になってしまうものなのだ。儂の瞳は、貝が水を吸うようにゆるゆると潤ってゆき、眼前の景色が明瞭に見え出した。そこまで来ると、どんなに拒んでも見ないわけにはいかない。儂は観念して、眼から力を抜き、瞳に飛び込んでくる光景と衝撃に、少しでも抵抗してやろうと体を強張らせた。

 ――真っ先に見えたのは、ごつごつとした岩肌にこびり付いた、どず黒い汚れだった。それが何であるか、考えずとも分かった。儂の視線はその汚れを凝視した後、ゆっくりと猶も下っていく。その先にあるモノの事を考えると、儂の胸は張り裂けそうだった。

 瞳が、岩陰を映した。その瞬間だ。儂はウッと呻いて眼を丸くし、体を跳ね上げた。

 ――ない、ない、なくなっている! 

 狂気に駆られた儂の叫びに呼応するかのように、遠くから禽獣の嗤う声が響いてきた。それを聞くと儂の心は挫けて、ヘナヘナとその場に座り込んでしまった。背を低くしてみても、やはり、岩影に見える景色は変わらなかった。

 あるべきはずのものが、そこにはなかった。岩陰に転がっているはずの田兵衛の躯が、煙の如く跡形もなく、消え失せていたのだ。岩の下は、どんなに見直しても空っぽだった。

 いったい、どういう事なのだ……儂は怖気付きながらも、必死になって考えた。霜雪にみっしりと飛騨の山が彩られるこの季節、死体とて傷む事はあっても、そう容易く腐りはしない。となると、さっき追いかけてきたような獣の類が、連れ去っていったのだろうか。そういうわけでもなさそうだった。田兵衛の躯を引き摺っていった跡がないのだ。陽の光を受ける所は雪に埋もれようが、岩影には殆ど雪が入り込むことはない。加えて、その辺りの土は泥濘になっている。そんな所に横たわっている田兵衛を引っぱり出せば、泥跡の一つや二つ、付くはずだろう。ましてや、手の使えない獣のやること、痕跡一つ残さずに田兵衛を連れ去る事などできはせんし、それをする理由もない。

 となると何故躯が此処にないのか、ますまず分からなくなって来る。そして儂の考えは次第に、恐ろしい方へと矛先を向け始めた。まさか……いや、そんなことはない! 何度もそれを唾棄しようとすればするのだが、ぽっかりと穴の空いた岩陰を見ていると、それが馬鹿馬鹿しいどころか、真っ当至極な考えであるとしか、思えなくなってくるのだった。

 わけの分からない事にぶち当たった時、人間ほど脆くなるものはない。儂は何が何やら、もうさっぱり変てこになってしまい、可笑しなことを始めた。へなへなになっていた背筋をぴしっと伸ばして、携えていた握飯を丁寧に膝の上に置き、ぱくつき出したのじゃ。何を考えてそんな振る舞いに及んだか――たぶん、気を落ち着けたかったのだろう。

 腐肉を漁る野犬のように意地汚く握飯を喰い散らかすと、儂はふうと深い息を吐いた。一度に三つも腹の中に突っ込んだものだから、聊か気分が悪くなっていた。動揺しながら喰う飯は鉄臭く、戻したくなるほど後味が悪かった。反吐の代わりにぬるぬるとした唾を吐き出し、水筒の水で口を漱ぐ――それを幾度となく繰り返しているうちに、心持は漸く穏やかになってきた。同時に背中からどっと汗が噴き出し、鉛よりも重い疲れに襲われた。

 もう何も獲る気にはなれない。考えることもできやしない。小屋に戻ろうと、そう決めた。

 がっくりと肩を落とし、よろよろと谷を後にした。歩いている間、絶えず後ろを振り返っては、誰も付いてきていないかを確かめた。そうしないと、剣呑で仕方なかった。もし体が言う事を聞いたならば、一目散に走って逃げ帰っただろう。

 幸い、に背後には何もいなかった。にも拘らず、儂は冷たい視線を全身で感じていた。それとなくではあったが、確かに見られていたのだ。首筋に、ちくちくした痛みが走った。

 得るものが何もないと分かって帰る道は惨めで、自然と足も遅くなった。行きは一刻とかからなかったのに、帰りは一日を費やして歩いても辿りつけないほど、小屋までの道が遠いように感じられた。行きはよいよい帰りは怖い――江戸ではそう唄われておるらしいが、ほんにその通りだ。子供の頃、黄昏の眩さに顔を顰めながら独り歩いた帰り道。山へ帰る烏の侘しげな声に背中押され、暗くなりつつある空に、憂いを募らせながら足を急がせる……当時の心細い気持ちが、ありありと心に浮かんできた。儂はすっかり萎れてしまい、目脂の溜まった眼をしょぼしょぼと擦っては溜息を吐いた。足がとにかく重くて、地面から一分も上がろうとはしなかった。だから仕方なくずるずると足を引き摺って歩くのだが、雪に覆われた地面で足を引き摺ると、草鞋がどろどろに濡れてしまう。手の指先もぬるぬる冷たく、じんわりと痺れたようになっていた。

 一里ほど、だらだらと歩いて谷を抜けると、儂は膝小僧に手をついて背を丸め、暫しの休息をとった。帰ろうと足を踏み出した頃から、じわじわ頭を苛んでいた眩暈が、ここにきて堪え難いものとなった。やがて、足もふらつき出したので、儂は傍らに転がっていた丸太に腰掛けて、息を落ち着かせようと努めた。この丸太はずっと昔、儂と田兵衛の二人で伐った木の名残に相違なかった。年輪の浮かぶ断面が、まるで波打つかのように、極端に凸凹していた。仲が悪かった頃の儂と田兵衛は、息を合わせることなど考えもせず、好き勝手に斧を入れていた。だから、こんな切り株ばかり作っておったのだ。

 自分で腰掛けてみると、あまりに乱雑な仕事ぶりが窺え、少し恥ずかしく思った。ごつごつとした盛り上がりが尻の骨に当たって、石の上よりも座り心地が酷かった。そうこうしているうちに、どんよりとした眩暈は、僅かずつだが消えてゆき、頭痛もなくなってすっきりしてきた。

 たった一時であっても、どこか腰を下ろし、気を緩めてしまうと、根が付いて離れ難くなってしまうのは儂だけではなかろう。小屋に帰ろうと焦る気持ちを胸に抱きながらも、儂は中々立ち上がれずにいた。立ったらまた眩暈に襲われそうな気がしていた。もう少し、休んでいこうと思って、提げていた水筒の栓を抜き、残っていた水を一気に飲み干した。

雪の積もる山の中にいると、流れを遮られた水でも温くはならぬ。儂の体の中を、氷のように冷たいものが通り抜けてゆき、腕にぞぞりと鳥肌が立った。掌を擦りながらふっと空を見ると、優しい琥珀色の光に、千切れ雲の欠片一つ一つまでもが美しく染まっていた。その光景を見ていると、焦燥も不安も胸の中から綺麗に消え去ってゆく。儂は深く溜息を漏らしながら、じっと空を見つめた。鮮やかな光が儂の眼には痛く、ほろりと涙を零した。

 どれくらいの間、空を眺めていたのかは、自分でも知れぬ。ふっと我に返ると、冷たい山風に晒された体は冷え切って、がたがたと震えておった。これはいかんと、慌てて立ち上がり、野良着を濡らす霜を払い落した。このままいつまでも呆けておったら、終いには風邪をひく。それどころか、もっと酷いことにすらなりかねん。子供みたくいつまでもだらだらとしておらずに。早々に小屋に帰ろう――儂は自分に言い聞かせ、一歩を踏み出した。

 正にその時だった。

 左側に伸びる道の奥から、大勢のガヤガヤと騒ぐ声が聞えたのだ。儂は声のする方に首を向け、急いで来た道を引き返した。一間ばかり戻ると、大きな岩が道の傍らに寝転んでいる。儂はそれの後に滑り込み、身を隠した。

 声が聞こえてきたのは、小屋に続くものとは別に伸びている山道だった。それは儂らが小屋掛けしている所を通らずして、北又谷へ入る便利な道なのだが、飛騨の山を通る道の中でも一二を争うほど剣呑な獣道で、屈強の樵でも、滅多に使おうとはしなかった。向こう見ずの田兵衛でさえ、この道を使うのだけは嫌がっていた。村の中でも、怯まないで通れるのは昔から限られた、ごく一部の樵だけだった。

 岩の下から恐々覗きこむ。間もなくして、道を大股で歩いてくる一人の大男を先頭に、十四人ほどの樵が歩いてくるのが見えた。みんな揃いも揃って、肩にぎらぎらと鈍く光る鉈や斧を担ぎ、四方を睥睨していた。

 筆頭の樵の顔に、見覚えがあったのだ。その樵は、儂や田兵衛と同じ村に住む樵で、ちゃんとした名前があるにも拘らず、村の衆からは熊五郎と呼ばれていた。

 恐ろしく身体つきのがっちりした、ほんとうに熊みたいな大男でな。性格も熊のように乱暴な奴だった。儂や田兵衛より十歳も年が上で、儂が生まれるよりも前から山に入っていたらしい。実はこの男こそ、田兵衛を殺した儂が、何よりも恐れていた男だった。

 飛騨の山に、恐れる事なく足を踏み入れられるのは哀れな余所者か、田兵衛のような、迷信嫌いの馬鹿者くらい――熊五郎は、二つ目のほう、即ち田兵衛と同じような男だった。山の祟りなんぞが怖くて、樵がやっていけるか――そんな風に豪語して憚らず、この蠎が住むと言う恐ろしい谷にも、平気で入っていた。田兵衛殺しの事がばれるとするならば、それはこの男の口からであると、儂は、ずっとそう思っていた。村に住む樵のうちで、平気な顔をして谷に入ってくる輩は、こ奴くらいしかいないのだ。性根が出不精で、一年のうち山にいる時の方が珍しく、いつも村の酒場で酒を呷っていると専らの噂だったが、この時に限って何という間の悪さだろう。意地の悪い熊五郎の顔を眺めていると、儂が田兵衛を殺したのを見計らって、山に登ってきたようにさえ感じられる。苛立ちよりも恨めしさの方が前に出て、自分の不幸を呪わずにはいられなかった。

 奴らの声は、ゆっくりと不気味に近付いてくる。儂は息を殺し、眼を閉じて耳を欹てた。

 話を聞いているうちに、儂は、オヤ……と呟き、眉を顰めた。樵どもが話していることが、儂の考えていたのとは大いに違い、また同時に、あまりにも意外なものだったのだ。

 十四人の樵たちは、仕事で山に入ってきたのではなかった。儂らを――いつになっても村に戻ってこない儂と田兵衛を探すために、村から遥々やって来たらしいのだった。

 考えてみれば、女の我儘に付き合わされて、儂まで山に縛りつけられるようになってから、既にひと月余りも時が過ぎていた。食物の少ない真冬の山に、それほど長く籠っているのだから、変な噂が経つのも当たり前だ。ただでさえ、飛騨の山は恐れられている。田兵衛も弥助も、蠎か何ぞに喰われてしもうたに相違ない……樵たちの間では、そんな噂が囁かれるようになっていて、そんなら事の次第を確かめてやろうと、十四人の樵が名乗りを上げたのだ――と、大方はそのような道筋を辿る。

 樵仲間には、北又谷へ入るとしか伝えておかなんだから、奴らは遠回りを嫌って、直に谷へやって来たのに相違なかった。こんな険しい坂道に小屋など立つはずがあるまいに、何とも馬鹿正直なことだが、その愚を嗤うどころか、心から喜ぶべきだった。

 間が悪いなど、とんだ思い違い。奴らが小屋に戻る前に行きあえて幸いだった。いきなり小屋に押しかけられては堪らん。ぴんぴんしている儂と女の姿を見たならば、奴ら続け様に問いかけてくるだろう。田兵衛はどうした……とか、何故村に戻らないのだ……とか。どう言い繕えば良いか、儂にはさっぱり思いつかなかった。

 それにも増して心苦しいこともある。儂らが生きていることを知れば、きっと樵たちは、儂らを連れて山を下りようとするだろう。そうなると、儂と女はどうなってしまうのか、考えただけでも恐ろしかった。田兵衛が殺されてしまった今、儂らを繋ぐものは、何一つとしてありはしないのだからな。儂の謀りでは、田兵衛が死んだ後すぐに女と打ち解け、村に戻ってからも繋がりを保てていけるようにしておき、その上で山を下りるはずだった。それが叶わぬ以上、村を降りた後の儂らに待っているのは淡白な別れでしかない。儂に残されるのは人殺しの汚名だけなのだ。それだけは、絶対に嫌だ……と、鼻から荒い息を吐いた。

 何とかして、奴らに小屋の場所を見つけられないようにしなければならない。しかし、落ち着いて考えてみると、儂は恐ろしく不利な状況にあるのだった。十四人の樵たちは、儂のすぐ目の前に佇んで、彼方此方を見回している。そこがちょうど、谷の入り口だったからじゃ。奴らと、僅か岩一枚を隔てて肩を並べている儂。見つかったら一巻の終わりと、息さえ止め、下っ腹に力を入れて押し黙っていた。

 奴らが通ってきた俊坂は、あまりにも険しいが故に、登れても、下りることはできない。つるつると濡れた岩道で、一度でも足を滑らせれば、麓までずっと転がっていかなければならなくなる。谷へ下りるには、儂の行こうとしていた道を通って、ゆるゆると山を下ってゆくより他ない。儂らの小屋は、その道に面して建てられているから、奴らは小屋に行き着くだろう。儂は奴らに見つからないようにここを抜け出し、ばれてしまうより先に小屋に行き着き、何らかの手を打たなければならない。

 そんな人を煙に巻くような、傀儡師の真似事が咄嗟にできるものなのか――生まれつき不器用な儂には、無理な話だった。田兵衛一人殺すのでさえ、気の遠くなるような時間をかけて、入念に策を練ったのだから。儂に蛇のような狡猾さはあっても、機転はなかった。

 奴らの目を盗んで岩から這い出る術も、奴らに小屋を見つけられぬようにする方法も、儂には思いつかなかった。ただただ、体中から汗を噴き出させる焦燥が歯痒くて、体を捩じらせるばかりだった。ともすれば苛立ちが口を突いて出て来そうになるので、口を固く閉じ、歯を必死になって噛み合わせていた。すると俄かに口の中に鉄臭いぬるぬるとしたものが流れ込んできて、噎せかける。歯茎から流れる血は凄まじく苦かった。息を止めていても、それが分かるほどだった。何か熱いものが込み上げてくる感じがして、儂は口を手で押さえた。

 気付かれる事が怖くて血反吐も吐けず、口をそっと拭うだけで耐えようとする儂。熱くもないのに、背中にだらだらと流れる汗を感じた。息をそんなにしていないせいか、眼の前がもやもやとし出し、五色の花が開いては消えてゆく。必死に己を保とうとするのだが、気分は悪くなる一方で、儂は気を失いそうになっては、またふっと目覚めるのを繰り返していた。それもどんどん曖昧になってゆき、意識がはっきりしているのかも分からぬまま、儂は泥沼の中へと沈みこもうとする。体の力が抜け、激しく脈打つ鼓動が胸に痛かった。

 何もかもが体から抜けていき、ばったりとその場に転がりかける儂。その寸前になって、遠くの方から野太い声が響いてきた。儂の耳には微かにしか届いてこなかったが、それを聞いた熊五郎が、ざりざりと足音を立てながら、岩の傍を離れたので分かったのだ。奴が歩き出した瞬間、儂は胸に爪を立てながら最後の力を振り絞って眼を開き、息をゆっくり吐いた。熊五郎が動いたのをきっかけに、残りの樵たちもぞろぞろと谷から離れていったから、少しくらい音を出しても誰も気付きはしなかった。運よく、風も吹いていたからな。

 未だ頭は朦朧としている。それでも、儂は動かねばならなかった。

 ふうふうと荒い息を突きながら、地面に腕を突いて岩から、ひょっこり覗き見た。一度気を失いかけた儂の眼はぼんやりと濁っていて、何もかもがぼやけていた。瞳を強く擦り、しつこく瞬きを続けていると、瞳が次第に潤ってきて、眼の前の光景が澄んで見えだした。

 谷から少し離れたところに伸びる、一本のなだらかな下り道。奴らがやってくる前に、儂が通ろうとしていた道だ。そこに――儂は眼を疑った。十五人の樵が立っていたのだ。

 一人増えている! そう叫びたいのをぐっと堪えて、儂は眼を細め、奴らの会話に耳を傾けた。会話と言っても一方的なもので、当時の儂よりも若々しい顔をした、新米らしき樵が、熊五郎に向かって何やら喚き立てていたのだ。さっき覗いた時には見かけなかった顔だから、こいつが新しく群れの中に加わった男である事は明らかだった。どうやら一人だけ違う道を通って、谷へやって来たらしいのだった。

 猶も息を殺して話を聞いていると、色々なことが分かってきた。その若い男一人は未だ、あまりにも未熟なために、厳しい峻坂を上ることを許されず、一人別の道を通って谷に来たようなのだ。その道中で、何か変わったものが見つかったなら、すぐに親方である熊五頭に知らせるという、役目を帯びていた。若い男は忠実にそれを守って、眼を光らせながら山を登っていきと、途中で思いもよらぬものを見つけてしまったのだ……。

 儂は愕然とした。わっと叫び出しそうになった。儂自身が気づかなかっただけで、ほんとうは叫んでいたのかも知れない。吹き荒れていた風、或いは遥か彼方で轟く稲光が、儂の叫号を掻き消したのだろうか。とにかく儂の姿は、やはり見つけられることはなかった。

 ――小屋! 小屋の中に……女がいる! 若い樵は、必死になってそう叫んでいた。

 考えなくても分かる。嶮しいことでは右に出るものがいないと評判の飛騨の山に、そう幾つも山道があるはずはない。北又谷辺りは特別に難所とされておったから、そこへ続く道は熊五郎らが通って来たあの峻坂と、儂らのいつも使っていた、なだらかな上り坂しかなかったのだ。熊五郎たちと一緒に峻坂を上ってこられなかったなら、儂らと同じ坂を上ってきたはず。当然、儂らと同じ景色を見て、同じ所に行き着くはずではないか。

 女が見つかってしまった。熊五郎はそこへ行くだろう。そして、何があったのかと、問い質すに相違ない。女の口から、全てが明るみに出てしまう。田兵衛が蠎に、喰い殺された――田兵衛と同じように疑り深い熊五郎が、鵜呑みにしてくれるようなものではなかった。山を知らない女が相手だから騙せたのだ。

 奴を小屋に近付けてはならぬ――嫌というほど自覚しているのに、手が出せないでいた。

 若い樵の話を一通り聞いてから、熊五郎は後に控えていた樵の一人に向かって、たった一言だけ、田兵衛の女か――と呟いた。問いかけられた樵は何も言わず、ゆっくりと頷く。見ている限りでは、頷いた男が熊五郎の腹心の舎弟であるらしかった。熊五郎は満足げに鼻を鳴らすと向き直り、腕を組んで考え込む素振りを見せる。束の間、誰もが口を噤んだ。

 少し経つと、熊五郎はひょっこりと首を上げた。奴が何を考えていたのか、儂には全く分からなかった。きっと、十四人の弟分も儂と同じだったのだろう。殊に小屋を見つけた若い樵は、がらりと気配を変えてしまった親方の前で、おろおろとするばかり。熊五郎が頭を上げると、体を固くして縮こまっておった。熊五郎は、そんな若造を見つめてから、出し抜けに振り返って、ずらりと並んでいる十三人の顔を、ざっと見回した。眼を細めていた儂にも、奴の顔はよく見えた。その時に浮かんでいた表情は、はっきりと覚えている。

 熊五郎は笑っていた。にっこりと微笑んでいたのではない。眼を吊り上げ唇をひん曲げ、半開きになった口から覗く舌をちろちろと蠢かせる。まるで蛇が獲物を見つけた時の如き、意地の悪い笑いだった。ちらりとその顔を見ただけで、今度は奴の企みが手に取るように分かった。そして、胸を杭で貫かれたような衝撃を味わい、全身の毛を逆立てたのだった。

 儂は、何という思い違いをしていたのだろうか。何という、甘っちょろい若造だったのだろうか。女が生きていると知った熊五郎が、事の次第を問い質すためだけに小屋へと向かうのだろうと、そんな考えしか浮かんでこなかったのだから。この、お人好しの薄ら馬鹿と、気の遠くなるような月日をかけて田兵衛を手に掛けた執拗な人殺しが、同じ人間だというのだから、お笑い草だ。やはり儂は、人の気持ちが欠片も読めぬ男だった。

 山猿の下卑た笑いはますます酷くなり、そのうちに、ふふふふ……と不気味な音を喉で鳴らし始めた。嬉しくて嬉しくて堪らないといった様子。それをおずおずと見守っている十五人の樵たちにも、熊五郎の考えている事が、朧げながら分かってきたようであった。

 女に……田兵衛の女に、会いに行くぞ――熊五郎は舌で唇を湿しながら、そう言った。十四人の樵たちは一同に畏まって、へいと答える。その声の中には、少なからず嬉しげな気配が垣間見えた。あの若い樵の声の中にさえも。

 後はもう、誰も何も言わなかった。熊五郎を先頭に軽い足取りで、べらべらと話をしながら歩いてゆくばかりであった。奴らの話している事が、下らない世間話から、耳を覆いたくなるような猥談へと変わっていた事には、儂もすぐに気付いた。それが、どのような意味を持っているのか、考えないでも分かった。その浅ましさには、儂とて吐き気がした。

 谷を後にした奴らの足音が、遠くに消えてゆき、ついには聞こえなくなった後、儂は、よろよろと岩の下から這い出た。ずきずきと痛む胸を押さえ、顔中を流れる汗を拭った。

 熊五郎たちが歩く道は、なだらかではあるのだが、くねくねと複雑に入り曲がっている。坂を前にして、無防備にぽつねんと立ち尽くしていても、儂の姿が奴らに見つかる心配はなかった。奴らの姿も鈍色の岩壁に覆い隠され、儂のいる所からでは見えなくなっていた。ただ、それが儂にとって都合が良いというわけでは、必ずしもなかった。奴らの姿が見えないと、それはそれで不安で堪らなかった。小屋に着いた熊五郎が、何を仕出かすか……儂は急がなければならなかった。何があっても、止めねばならなかった。

 それなのに……儂は動こうとしなかった。いや動けなかった。これから起こること、儂のなすべきこと、それを考えただけで、或いはその先にある結末を脳裡に思い浮かべただけで、儂の体は恐怖に固まってしまい、その場から一歩も動けないのだ。

 もはや事は、儂の手も足も及ばぬ所まで突っ走ってしまっていた。田兵衛にさえ、卑劣な手を使わぬと敵わなかった矮小な儂なんぞが、熊五郎のような村一番の大男に刃向ったところで、返り討ちにされるのは火を見るよりも明らかだった。そうかと言って、熊五郎たちが小屋に到着する前に、女を連れて二人で逃げだすというのも無理な話だ。

 女はきっと、何があったのかと問い質すだろう。それを聞かぬうちは、梃子でも動かぬに相違ない。今までだって、儂どんなに言葉を尽くして説得しても、山を下りようとはせなんだではないか。となると、儂は正直に熊五郎たちがやってくるというより他ないが、そうなると何故儂が、探しに来てくれたはずの奴らを恐れるのか疑念を持たれてしまう。女は熊五郎を知らぬ。お前の身が危険だといくら口を酸っぱくして説いたところで、きっと分かってはもらえぬだろう。

 ――分かるか。この儂の、身悶えせんばかりの苦しみが。事の帳尻を合わせるのは、既に無理だった。欠片も気付かなかったが、儂の策には綻びのようなものが幾つもあって、それが知らず知らずのうちに広がってゆき、遂には大穴へと変わってしまっていたのだな。気付けなかった事が、今でも悔しい。

 竦む足は、いつまで経っても歩き出そうとはしなかった。何とか勇気を振り絞って一歩前に踏み出しても、次の一歩で爪先があらぬ方を向いてしまう。儂はそれを何度も繰り返すばかりだった。気付けば同じ場所を、狐か何かのようにぐるぐる回っていたのだ。胸を締め付ける鈍痛も、動いているとほんの僅かだけ薄らぐ。もちろん、儂が飽きもせず歩き回っていたところで、何も変わりはしない。そうやって、己を騙すより他に、為す術はなかった。

 随分と長い間、儂は谷で一人、迷いあぐねていたと思う。歩くのに疲れ切ってしまい、足を止めた時には遠くに見える日が、茜色に変わっていた。もう、日が暮れかけておったのだ。絶えず動いていたので、夫婦柳を前に座り込んでいた時のように、体を冷やす事はなかったのだが、夜になると今度は眼が利かなくなる。提灯なんざ持って来ているはずもないから、黄昏を過ぎると辺りは真っ暗になって、帰る道さえ分からなくなる。 とうとう、覚悟を決めねばならぬ時が来てしまったのだ。

 儂は激しく波打つ胸を抑えつつも、ゆっくりゆっくり、小屋へと続く道に足を踏み出す。一歩進む度、腹に鈍い痛みがあった。

 残りの一里を、殆ど暗闇に包まれながら歩いた。夕陽が沈みきってしまうと、代わって幾千もの星々が空を埋め尽くし、ぽっかりと慎ましやかに浮かぶ満月と一緒になって地を照らしたが、そんな小粒揃いの、ちまちました微かな光なんぞでは、足元はおろか、一寸先すらも見えるはずがなかった。そんな中を、手探りで進んでゆくのじゃから、我ながら無茶な事をしたものだ。

 たぶん闇に覆われた坂道なんぞより、それの続いている先に待ち受けている終局の方が、ずっと怖かったのだろう。もしかすれば、穴ぼこに嵌っちまうことを、儂は寧ろ望んでおったのかも知れん。

 無限とも思われる時間をかけて、なだらかな坂道を下ると、少し離れた所でゆらゆらと揺らめいている、淡い灯が目に付いた。咄嗟に、背後の岩壁に身を顰める儂。いつもなら、見えてほっとする光が、その時ばかりは心の臓を鷲掴みにされたような戦きを儂に与えた。

 儂は恐々と、岩壁から首だけ覗かせた。こっちは闇に身を投じておるわけだから、向こうから儂の姿が見えるわけではないのだが、それでも、堂々と光に近付いてゆくのは気が引けたのだ。気配を悟られぬようにと深く息を突きながら、儂は目を凝らして小屋の方をじっと眺めた。隙間から洩れる光だけでも、小屋の周りは驚くほど、はっきりと見えた。

 戸のある方を見てみたが、そこには誰の姿もいなかった。儂が生きている事実は女から聞いて知っているであろうに、一人も見張りも置かぬとは奇妙な事だ――儂はそう思って、首を傾げた。熊五郎の企みが、儂の想像している通りならば尚更、外には見張りが立っていなければならないはずだった。儂は首を引っ込め、岩壁に背を預けて、少しの間考えた。

 まさか、全てが儂の杞憂だったのだろうか。熊五郎は単に、女を助けるためだけに小屋へ向かったのだろうか。

 いや、そんなはずはなかった。暗闇に眼を奪われても、耳はよく聞こえる。岩壁に佇む儂の耳には、小屋の中から聞こえる下品な笑い声や怒号、どたどたと喧しい足音などが、痛いくらいに響いておった。どうやら中は、酒宴真っ盛りのようだ。儂らを探しに来ただけならば、あんなに馬鹿騒ぎする必要などなかろう。

 儂らの小屋で、好き放題に振舞われていることにむかっ腹が立った。が、それにも増して儂の心を激しく波立たせるのはやはり、女のことだった。奴らは女をどうしたろう……儂は岩壁から背を離し、身を屈めながらそろそろと小屋に近付いた。腕の未熟な、樵が建てた小屋だから、壁には彼方此方に隙間がある。そこから覗けば、中の様子がありありと窺えた。儂は小屋の壁にぴったりと身を這わせ、ちょうど儂の瞳くらいの大きさの隙間に、顔を押し当てる。闇に慣れ切ってしまった眼には、小屋の中を照らす光があまりにも明るく映った。瞑った瞼の裏に、もやもやした光の線が、流れては消えていった。雪で指を湿し、目尻に当てると痛みが少し和らいだ。

 ぐっと眼を細めると、漸うに中の光景が見え出す。囲炉裏の他にも、熊五郎たちが持ってきた提灯や、儂が小屋の片隅に放り出しておいた行燈なんかにも、火が灯っているらしく、それがために眩しいほどに明るかった。そんな光で満ち満ちた小屋の中で、たくさんの男が狂気の如く踊り狂っているのが、まず儂の眼に飛び込んできた。無骨な声で下品な歌を歌いながら、小屋を突き崩さんほどに、足を踏み鳴らす樵ども。狭い小屋の中を組んず解れつ暴れ廻っているので、何人が小屋に留まっているのか数えることはできなかった。が、谷で見た顔を一つ一つ思い出して、乱舞している輩の中から探してみると、一人も欠けずに見つけられたので、小屋には谷で見た十五人全ての樵がいると分かった。

 樵どもの様子は、容易く分かった。それよりも気になるのは女のことだ。こんなに多くの男どもに囲まれて、きっと怯えているに相違ない。いったい、どこにいるのか……そう思って、儂は目玉が飛び出そうになるくらいに強く、隙間に眼を押し当てて、ぎょろぎょろと芙蓉の姿を探した。走り回る輩が邪魔になって、中々見つけられずに苛立った。

踊り狂っている輩を無視して、小屋の中をぐるぐる見回す。囲炉裏を隔てた向こう、ちょうど上座に当たるところに、女が座っているのが見えた。その姿を一目見て、儂はアッと悲鳴を上げそうになり、手を押さえた。鼻で荒い息を吐きながら、猶も隙間に眼を押し付けた。咄嗟に口を覆った手の、指の先までもが、がたがた小刻みに震えていた。

 馬鹿騒ぎしている樵に囲まれて、独り怯えているだけだったなら、儂もそこまで戦慄を覚えずに済んだだろう。が、女は一人ではなかった。すっかり力を抜かし、四肢を床に投げ出しているその軟い体を、背後から、がっちりと掴んでいる男がいたのだった。

 その男――眼を凝らさずとも、見上げるような大きな体で分かった。樵どもの筆頭――熊五郎だった。奴は、にやにやといやらしい笑みを顔に浮かべて、女の肩を右手で支え、左手は……嗚呼……儂は奴の左手がどこに伸びているかを見た時に、今までに感じた事のないほどの怒りを胸に燃え滾らせたのだ。田兵衛への憎悪さえ、これほど強くはなかった。

 熊五郎は、既に女を手篭めにしていたのだ。儂が何日かけても得る事のできなかった女を、たった一日で、それも僅かの時間で、己がものとしたのだった。女は、熊五郎にすっかり心を許しているように、儂には見えた。何もかもを委ね、体まで預け渡しているようにな。熊五郎が耳元で囁くと、その唇を微かに綻ばせる――儂は、それをはっきりと見たのだから。その擽ったそうな笑み……儂には終ぞ見せた事のない、淫靡な表情だった。

 火のように熱いものが胸に込み上げてくる。それが次第に下ってゆくのを感じながら、儂は歯を食い縛って体中を掻き毟った。怒りと焦りと憎しみと悲しみと羨み……儂の中に渦巻いている、あらゆる小汚い思いが綯い交ぜになって、化物の如く禍々しき情念へと、姿を変えたのだった。絶えるのにも、限りというものがある。儂は、はち切れそうだった。

 小屋の中で繰り広げられる痴態を目の当たりにして、それから儂はどうしたか。 

 何もかもを知っているお前に、こんなことを問うのは愚であろう。

 そう……何もしなかった。

 もちろん、ずっと外でぼうっとしていたわけではない。そんな事をしていれば、じきに凍え死んでしまう。儂は隙間から眼を離すと、足音を忍ばせて小屋の裏へと回り込んだ。戸口と真逆の壁には、ちょっとした仕掛けがあってな。いや、仕掛けというよりも、儂の不手際からできてしまったようなものに過ぎないのだが、下の方の壁板が三、四枚外れるようになって、小柄な者から、そこから出入りできた。儂は音を立てぬよう慎重に壁板を外すと、そこから小屋の中に潜り込んだのだ。

 戸口と逆側の壁の右端には、鋸や隙など木挽き道具や、脱ぎ散らかした蓑や着物や股引、或いは破れた煎餅布団だの穴のあいた櫃だの、折れた杓文字だのといった、もはや使い物にならなくなった道具が纏めて転がされていて、それを黒ずんだ枕屏風で覆い隠していた。小屋に忍び入った儂は、そこに潜んだのだ。もちろん、その前に板は元通り嵌め直した。

 狭い小屋の中で、十五人の樵に見つからぬように身を顰める――無謀のように聞こえるかも知れぬ。だが、やってみると案外、容易かった。何よりも都合が良かったのは、熊五郎が儂に背中を向けていたことで、奴は女に夢中のあまり、儂が後ろでごそごそと動いていても、全く気付かぬようだった。小屋の中の灯りという灯りが、全て奴の前にあって、枕屏風のある辺りが薄暗かったのも、儂には都合が良かった。

 奴の前で狂った踊りを見せている樵どもなどは、端から案じていなかった。親分の背後に回りこんで暴れるなどと、そんな馬鹿を仕出かす輩がいるとは思えなかった。酷く酔っ払っておったし、ちょっと枕屏風が動いたくらいじゃ、何も感じはしないだろう。

 この時だけは、儂の運の方が勝った。儂は誰にも気付かれる事なくして、枕屏風が囲う空間に潜り込み、そこに隠れた。板を嵌め直す時に、手が滑って軽く音を立ててしまったのだが、十五人の樵の歌う濁声の方に掻き消されてしまい、儂の耳にも届いてこなかった。

 まずは一安心だ――と一息吐いて、儂は塵の山と枕屏風との隙間に蹲った。もちろん、心地良くはなかった。布団や着物が、汗や涎が沁み込んでいるせいか、酷い臭いがした。それに耐えるのは、苦しかった。が、外でいつまでも様子を窺って凍え死ぬことを考えると、文句など言ってはいられない。この枕屏風は、女の数少ない持ち物の一つで、山に行く時も常に携えてゆくほど大切に使われていた。無駄に大きい上に、重い。小屋掛けする樵にとっては邪魔でしかない代物だった。まさか、これがある事に感謝する日が来ようとは思っとらんかった。

 屏風を前にして、熊五郎らの様子を探るのは難しかった。屏風はただ汚れているだけで、穴などは空いていなかったから、まず眼が使えない。周りの塵が臭くて鼻は使い物にならんし、そうなると、耳に頼る他に術がなかった。儂は眼を閉じ、臭いのを我慢して、耳を澄ます。聞こえてくるのは相変わらず、馬鹿げた歌と、足を踏み鳴らす音だった。

 それから夜が更けるまで、儂は一分たりとも動かず、ただただ耳を欹てていた。奴らのすぐ傍にいながら、儂は様子を窺うことしかできん。外から覗いていた時と、いる所が違うだけで、他は一つとして変わっちゃいなかった。

 儂の心は、かつての田兵衛と同じように獣と化していた。ただ、奴と儂とでは、大きな違いのようなものがあった。奴の獣は、ただ荒々しいだけだった。それに引き換え、儂の獣には少しだけ知恵があって、それが故に臆病でもあった。田兵衛のように後先を考えず暴れる事が、儂にはできないのだった。もしも田兵衛が、自分の女が弄ばれていると知ったならば、即座に山刀を抜いて熊五郎らに斬りかかっただろう。それができなかった。

 どうしても、後の事ばかりに捕らわれてしまう儂は、どんなに怒りを溜めこんでいようとも、それに背中を押されるよりも先に、恐れを感じてしまい、動けなくなる性質だったのだ。卑屈と言えば、そうかも知れぬ。卑怯と言われれば、返す言葉もなかろう。ただ、儂はそういう星の下に生まれたのだと、そう言うしかない。

 ただただ待つのだと、言い聞かせた。もちろん待ったからといって、事は良い方に転ぶかと言うと、決してはそうとは限らなかったし、むしろ悪い方に突き進んでゆくことの方が十分考えられる。それは儂にも分かっていた。結局のところ、そうやって己を慰め、逃げていたに過ぎなかったのだ。儂の生涯の足枷は、臆病だった。

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