禄
さて、支度は整った。三十五年前、寒い冬の黄昏――儂は、田兵衛と肩を並べて北又谷へと入った。大声で下世話な話をして、げらげら笑い合う儂と田兵衛。かなり離れて後から、何気ない風に歩いてくる、男物の着物――儂の様子を見た村衆は、驚き呆れていたよ。あの真面目な弥助も、田兵衛に感化され堕落してしまった――とな。だがこれも、儂の企ての一つだった。仕事一筋だった儂が田兵衛と一緒に堕ちる所まで堕ちたことを、しっかりと見せつけねばならなかった。
冬の寒い日、山道を長い事歩くのは、自然と気が立つ。雪が降って、思うように前に進めない時なんぞは尚更のことだ。ともすれば角の立つ田兵衛をいかにして宥め、機嫌よく小屋に着かせるか――それが儂には最後の課題だった。以前よりも更に謙って、卑屈とも思えるほどに田兵衛の顔色を窺った。もはや、奴を神とも崇めんばかりの低頭ぶり。やっている儂本人が、笑えてくるほどに下らない、演技染みた振る舞いだったが、それまでの積み重ねが物を言ったのだろう。田兵衛は訝しむどころか、余計にふんぞり返っていた。女とは目さえも合わせなんだから、儂の振る舞いをどう思っていたのかまでは分からなかった。
谷について、儂らは数日ほど小屋の中で過ごした。出し抜けに雪が強く降り出したので、外に出るのが危なかった。この物忌の間、随分と心苦しく暮らしたものだ。谷に着いたらすぐに仕事に行って、その時には決行しようと考えておった。数年もの間に溜めこんできた焦燥で、いても立ってもいられなくなっておった。体を掻き毟らんばかりの苛立ちに狂いそうになりながらも儂は歯を食い縛って耐え、田兵衛とのお喋りに付き合った。ただ一つの救いだったのは、田兵衛も少しばかりは気を利かしたのか、話の席に女の姿がないことだった。女に用事を言いつけて小屋の隅や土間に追いやっていたのだ。夜のまぐわいも、それまでとは違って声を押し殺してするようになった。儂の眼を、憚るようになったわけだ。
一日一日、一刻一刻が気の遠くなるような長さ。しかし決して過ぎ去らぬわけではない。どんよりとした鉛色の雲に、空は覆い尽くされ陽光届かず、昼か夜かも分からんかったが、いつまでも雪に閉ざされてはいなかった。雪は降りに降って、一時は北又谷全体を白銀に染め上げてしまったほどであったが、次第に穏やかになり、三日の後には止んでしまった。
まだ空は薄暗くとも、長い事休んでばかりいては山に入った甲斐がない。三日目の昼前、まだ外は危ないと渋っていた田兵衛を宥め賺して、儂らは小屋を出た。扉を開けて、一歩外に飛び出した瞬間、凍てつく風に身を切られた。屈強の男が二人もいて情けない話だが、風に打たれた途端に、儂ら揃って悲鳴を上げた。頭のてっぺんから爪先まで、じんじんと痛んでくるくらいに、寒かった。
儂らはぶつくさと小言を言いながらも、蓑を被り直し、霜を踏みつけながら谷の奥へと向かった。小屋の周りには木は一本も生えておらなんだから、二里ほど離れた所にある、崖の下へと向かった。其処で儂らが見つけたのが、先の物語にも出てきた夫婦柳であった。
物語の中では片割れしか出て来なかったが、実際には、ごつごつとした大きな岩の上に、ちゃんと二本とも並んで立っていた。ほんとうの夫婦の如く、仲睦まじい様子だった。周囲にはその二本の他に、目ぼしい樹などは見つからなかったのだが、この柳の木を伐るだけで、相当な稼ぎになるのは先にも話した通りだ。とにかく素晴らしく大きく、また立派な柳だった。厳しい寒風に打たれても倒れなかった、頑丈な太い幹が儂らを圧倒した。
それを見つけた田兵衛は、大喜びでな。今までに見てきた弱々しい柳なんぞとは、格が違うもので、これを伐り倒して帰ってきたら、村の衆が目を丸くして驚くことは容易く想像できた。材木屋も我先にと争って、高い値を付けてくれるに相違ない。伐らぬ前から、田兵衛は算盤を胸の中で弾いては、一人でほくそ笑んでいた。儂は、そんな田兵衛の後に立って、夫婦柳に心奪われている様子を見せながらも、心内では只管奴の動きを見張っていた。
すぐに伐り倒そうとする田兵衛を宥め、まず儂らは先に軽く飯を食った。胃の中に何か入っていると、意識せずとも頭は鈍る。儂は田兵衛にばかり飯を勧め、自分では飯粒の一つも喰わずに、全て奴の腹の中に納めてしまった。膨れ上がった腹を摩りながら、田兵衛は満足そうだった。その弛んだ顔を見て、この日を逃して他に決行の日はないと、儂は覚悟を新たにした。斧を握る手の汗ばみと震えは、今でもちゃんと覚えておる。
飯を喰って少し経ってから、田兵衛は腰を上げ、仕事に取り掛かろうとした。もちろん、その前には高い所に登って、両手を広げ大きく息を吸いこむ、あの癖があるはずだった。
儂が固唾を飲んで見守っていると、田兵衛は夫婦柳の生えている大きな岩に攀じ登り、そこで両手を広げ出した。同時に冷たい風が北の方から吹いてきて、儂らの野良着の裾をはたはたと揺らした。それが心地良かったのだろう。田兵衛は眼を閉じ、うんと両手を広げて、山の澄んだ空気を胸一杯に息を吸い込み始めた。体は心なしか、やや前に傾いていてな。指先で突いただけで、体がぐらつきそうなほど、不安定な態勢だった。
儂の中を廻っていた人殺しの血が、むっくりと頭を擡げた。眼を見開くと、額に珠の如く浮かぶ汗が入り込んで、ひりひりと痛かった。儂は、ひっそりと足音を忍ばせて、奴の後に回り込み、刀の如く、斧を上段まで引き上げた。田兵衛は長々と息を吸っている最中らしく、儂が背後に回り込んだことはおろか、動いた事さえも気付かなかったようだった。
両腕に力が籠った。儂は一言も発さぬまま、鈍く輝く刃を、田兵衛の脳天に叩きつけた。
柔かい手応えがした途端に、儂は刃を手から離して、その場を大きく飛び退った。体が毬のようにぽうんと弾み、四尺ばかり後に足を付けた。野良着に血が付くのを恐れたのだ。
振り下ろした斧は、目測を過たずに田兵衛の脳天を断ち切り、頭蓋を叩き割っておった。悲鳴の代わりにごぽごぽと喉から血を噴き出しながら、田兵衛は前のめりになり、岩から転げ落ちた。夥しく血潮の吹き出る傷口を見るのが浅ましくて、儂は眼を背けておったが、田兵衛が大岩から落ちた事は、少しの間をおいて耳に響いてきた、ぐっちゃりという惨い音で分かった。それが止んだ後には不気味なくらいに、しんと静まり返って、遠くで喉を震わせる鷹の声と、変わらずに峡谷を吹き抜ける疾風のみが、辺りを騒がせた。
暫く経ってから、儂は岩の上を這いずるようにして進み、おずおずと下を覗きこんだ。できる事ならば見たくはなかったのだが、田兵衛がほんとうに死んだかどうかを確かめるまでは、安心できなかった。生唾を飲み込んで、ゆっくりと視線を下ろしていった儂の眼に映ったもの、それは襤褸雑巾のようにズタズタになって仰向けに力なく横たわる、肉の塊だ。田兵衛は無残にも頭を割られ、固い石の地面に体を叩きつけられ、身を傷らだけにして息絶えたのだ。ぬるぬるとした真っ黒な血が、水の干上がった谷を下ってゆくさまは渓流のようで、血の流れ切ってしまった後に残る田兵衛の躯からは、命がすっかり抜けていた。もはや何をしても息を吹き返すことはない。儂は腰が抜けたようになって、その場に崩れ落ちた。立ちあがろうにも膝が笑って立つ事ができず、ただ茫然と岩の下に転がっている田兵衛を、見つめている他なかったのだ。目的を果たして嬉しいとも思わず、酷いことをしてしまったと恥じる気持などもなかった。心の中にあるのは、ひたすら空虚で背筋を薄ら寒くさせる、混沌とした暗がりだけ。何も付いていないはずなのに、腕が生温いものでべっとりと濡れている気がして、慌てて野良着の裾に腕を擦りつけた。
酷い気分だった。胸がずっしりと重く、背中は汗で汚れていた。何をするにも億劫で、息さえろくにしないものだから、眩暈と頭痛に頭はじんじんと痛んだ。どっと襲ってきた倦怠感に押し潰されそうになりながら、儂は猶も、田兵衛の死に顔を目に焼き付けていた。
前のめりになって落っこちた田兵衛が仰向けに倒れているのは、地面にぶつかって体が一度大きく弾んで、くるりと回ったからのようだった。地面には、岩よりは小さくとも、鋭い楔の形をした石が幾つも転がっていて、尖った方を曇天に向けていた。そんなものが並んでいる所に、真っ逆さまに転げ落ちたのだから、田兵衛の体には抉られたような穴が十も十五も空いていた。そこからも血が流れて、野良着をぐっしょりと湿しておった。
儂はその傷を眺めながらぼんやりと、蠎……と呟いた。
行儀良く並んで開いた黒い風穴、それが儂には蛇――殊に大きくて恐ろしい大蛇に噛まれた痕のように、思えたのだ。
そんな呟きが儂の喉から、深い息と一緒になって漏れ出して来たのと、時を殆ど同じくして空に稲光が差し、続いて、遠くからガラガラと岩の崩れる、物凄い音が響いてきた。これには儂も驚いた。急ぎ頭を擡げて、音のした方に眼を走らせた。儂のいる所からは、岩壁に阻まれて見えなかったのだけれど、どうやら雷が山の頂にでも落ちたらしかった。
山の急斜面を、雷に削り取られた岩が転がってゆくのだから、その音は、それはそれは凄まじく、天地が裂けたかと思われるほどの轟きに、儂も思わず耳を塞いでしまうほどであった。背後にあった夫婦柳も、転がる岩の地面にぶつかる度に、みしみし軋む音を立て、また田兵衛の死骸も、それに合わせて微かにではあったが手足が動いているようだった。
躯の下に、何百もの虫が蠢いているかの如き、田兵衛の不気味な様。それをぼんやりと見つめていると、瞼の裏側にふと一筋の光明を感じた。儂は血走った眼をかっと見開き、おもむろに立ち上がって岩から飛び降りた。そして田兵衛の躯をそのままに、脱兎の如く駆け出して行った。山刀一つを背負って、他は斧も蓑も投げ出し、一目散に。
谷を抜けるまでの、岩の地面はつるつると滑り易かった。その地面を転げるようにして駆け下りてゆくのだから、よく死ななかったものだと自分でも思う。二里の岩道を走り抜け、小屋の辺りまでくると今度は一面雪で覆われていて、それに足が嵌り込んでしまい、巧く歩けなくなる。疲れも溜まっておったから、中々前に進めない苛立ちは募る一方だった。小屋の周りの雪は、儂らが出立した時よりも、ずっと分厚くなっていた。雷が岩を崩した時に響いた、あの轟音のせいで、小屋の後にある崖から雪がどっかりと落ちてきたのだろう。歩きながら目を凝らすと、女が一人で外に出ていて、小屋周りの雪掻きをしている姿が目に入った。
汗に濡れた女の横顔が、三間も四間も離れた所からでもよく見えた。その途端に、儂はけたたましい叫び声を上げて足を急がせた。儂の声に驚いたのか、彼方此方から翼を打ち鳴らす音がした。儂はそれを背中に受けて何度もつんのめりつつも、縺れる足を叱り飛ばして、女の許へと駆け込んだ。そして、儂の叫び声に驚いて呆然としている女の手を取り、泡を吐き散らかしながら言ったのじゃ。大変だ、田兵衛が蠎に喰われた――と。
それを聞いて、女はさっと顔を青くした。元々仄白い顔が雪の輝きを浴びて、同じくらい真っ白に光っておった。その上に青褪めたものだから、死人の如くまるで血の気がなく、すぐにでもその場にぶっ倒れてしまいそうなほど、危なげに見えた。それでも動揺を表には見せようとはせず、儂の腕を支えにし、唇を固く噛み締め、戦慄きを必死で止めようとしているらしく、それが儂の眼には、いじらしくもまた哀れにも映った。
喉の痞えが取れて声が出せるようになり、女がまず口にしたのは、何処で、という、この一言だった。風の音に掻き消されそうなほど微かな声で、体をぴったりと引っ付けている儂にしか聞こえなかっただろう。儂は大袈裟に荒息を継ぎながら、夫婦柳の生えている崖の方を指さして、あの辺りだ、あの辺りに蠎が出たのだと頻りに喚き立てた。儂の示す方を、女はじっと睨んでおった。その凍った顔に次々と大粒の汗が滲んでは、堰を切ったように、だらだらと流れてゆくのが見えた。女の優しげな瞳に浮かんでいたのは、紛う事なく恐れの色だった。儂は女と一緒なってがたがたと震えながら、心の奥底では、上手く行ったぞ……と一人ほくそ笑んだ。嬉しさが腹の底から込み上げてくると、背中に括りつけていた山刀もカタカタ鳴った。それが儂には、笑っているように聞こえた。
周りの雪が落ちるくらいだから、あの岩崩れの音は小屋の中にいる女の耳にも届いているはずだった。何度も一緒に入っているとはいえ、小屋に縛りつけられっ放しの女は山の事など何一つとして知らん。さっきの大きな音の正体など、当然分かるはずもない。そこに、上手くつけこんだわけだ。
正体を知らないのだから、何を言ったって女の中ではそれがほんとうになると思った。樵でもない者にとって岩崩れの音は、天狗倒しや山霊の悪戯などと同じように、恐ろしいものでしかない。田兵衛と同じように、女もまた信心深くはなかったが、それでも、山に女が入ってはならぬという、厳しい禁忌を侵していることは、自覚していただろう。儂はそこに付け込んだ。
田兵衛が蠎に喰われたという儂の言葉は、女がひしひしと感じていた不安や負い目を擽ったのだ。山や池に棲む神は、たいてい大蛇の姿を取る。自分が山に入った所為で、山の神が起こって田兵衛を殺したのだ――儂の目論見通り、そのように思ったらしかった。
女の体が、ぐらりと揺れた。儂は慌てて肩を掴んで抱き止めた。細く柔かな体をひっしと抱きしめた時、儂の心は幸福に包まれた。女は涙で瞳を濁らせたのか、鼻の下を伸ばして内心へらへらと笑っている儂の様子には気付かず、泣きじゃくりながら、あの人に逢わせてくれろと、何度も何度も喚いた。
儂は女を抱き止めながら、同情と悲痛の入り混じった顔を見せ、気持ちは分かるが、今あそこへ行くのは危険だ、未だ蠎がいるかも知れない――などと言って崖下に行くのを思い留まらせようとした。だがそれも、演技をしているだけに過ぎなかった。ほんとうは、すぐにでも谷へと戻り、かつては田兵衛であった肉の塊を見せつけてやりたかった。この通り、田兵衛は殺されたのだと分からせてやりたかった。その誘惑を、敢えて退けて、連れてゆくのを拒んだのは、危険に満ち満ちているはずの谷に戻る事を、二つ返事で承知してしまっては、懐疑心を植え付けると思うたからだ。
慌てることはない。儂が何と言おうと、女は谷へ行くに決まっている。儂は頃合を見計らって、観念した様子を演じ、渋々といった顔をして谷へ戻れば良いのだった。
少しばかり、行く行かないと言い合った後、儂はやれやれと首を振って、観念したような素振りを見せた。そして女を連れて、谷へと戻った。田兵衛とは違い、山歩きに慣れていない女を伴うのは、たいそう骨が折れた。雪の中を進むだけならまだ楽だったのが、地面がつるつる滑る岩肌に変わると、一歩一歩を踏み出すのさえ女には恐ろしく思えただろう。儂の腕にしがみ付きながら、それこそ蝸牛の如き鈍さでゆるゆると進む。気だけは急くのか、その掌はびっしょりと汗に濡れていて、しっかりと握る儂の腕に、ぬるぬるした手形を描いていた。内心では兎かなんぞのように、びくびくと怯えているのに、それでも猶、健気に進もうとする女の姿は物語に出てくる貞女そのもので、儂は湧き起こってくる激情を殺すのに、随分と苦労せねばならなかった。
儂のような卑屈な男が追い求めるのは、心身ともに清らかな優しき乙女と決まっている。女は、儂の理想を全て兼ね備えていた。何があっても、この女を得なければならぬ――険しい谷間を歩きながら、儂はそんな卑劣な思いを新たにした。
二里の道を、背筋のむず痒くなるような遅い足で、長々と歩き続けて漸く、儂らはあの夫婦柳の生えた岩の眼前までやって来た。田兵衛の死骸はその真下に転がっていた。岩の影に溶け込むようにして倒れているからか猛禽にも啄ばまれずに、死んだそのままの姿を晒していた。雪が溶けたのが岩の窪みなどに溜まり、それが流れ出すと、田兵衛にぽたぽたと滴り、顔の上で固まりつつある、ぬめぬめとした黒い血汁を洗い流していた。
儂があれだと指差す前に、女は田兵衛の躯に気付いた。その途端、転ばぬようにとずっと組んでいた儂の腕を乱暴に振り解き、化鳥の如きけたたましい叫び声を上げながら、岩の下へとすっ飛んでいった。あまりの勢いに儂は横転しかけ、たじたじと三歩ほど退く。
危ないと顔を顰めながら眼を戻すと、女は命の抜け切った田兵衛の首を抱え上げて、膝の上に乗せ、咽び泣いておった。慟哭の片手間、田兵衛の顔に頬ずりしたり、額や鼻を愛しげになぞったりする様は、まるで死体を愛撫しているかのようで、この世のものとは思えぬほど醜怪な、妖絶な光景だった。
儂は体を戦慄かせながらも、おずおずと女の後に立ち、肩を優しく叩く。女は涙に濡れた顔を、ゆっくりと擡げた。
その顔を見て、儂は眉を顰めた。
女の顔を彩っているものが悲痛だけではなく、何もかもを諦め切ったような、空虚な微笑だったからであった。
ぼろぼろと涙を流しながら、同時に笑ってもいたのだ。
儂は嫌な寒気を覚えた。女からも田兵衛の躯からも眼を逸らそうとしたが、体が引き攣ったようになっていて動かなかった。真っ赤に腫れあがった双眸が、儂をしっかりと見据えていたからだ。そこに儂は、自分の顔が現れているのを、やけに明瞭に見止めた。心細げに顔を歪め、恐る恐るといった表情を浮かべながら、じっと女を見つめている儂自身の姿は、酷くちっぽけに映っていた。
不思議な睨み合いだった。少しばかりの時間だったのが、儂にはいやに長く感じられた。
女はいったい、何を考えておったのだろうか――。当時もさっぱり分からなかったし、今となってから思い返しても、想像さえできない。ただ、不穏な気配だけが感じられた。
出し抜けに冷たい風が吹いたのは、終わりの知れぬ睨み合いに儂の心が堪えかねていた矢先のことで、それが崖の上に伸びていた樹から、僅かに残っていた枯葉を毟り取り、谷に落とした。ひらひらと迷い込んで来た、一枚の枯葉が田兵衛の顔にぴたりと張り付くと、女はハッとしたように視線を落とし、枯葉を抓み上げて投げ捨てた。それがきっかけとなって儂は女の眼差しから逃れた。
田兵衛の頭を丁寧に地面に置いて、女はよろよろと立ちあがる。そして、体ごと儂に向き直った。大丈夫か――と生唾を飲み込みながら尋ねる儂。女は何も言わず、覚束ぬ足取りで儂の横を通り過ぎ、無言のまま、夫婦柳の生えた岩から遠ざかっていった。
儂も思わず目を疑ったのだが、女は泣きたいだけ泣いてしまうと、田兵衛の躯をそのまま捨て置き、小屋に帰ろうとしたのだ。田兵衛の死を聞いて錯乱し、身の危険も顧みず谷へやってきたというのに、実際に躯を目の当たりにして泣き終わると、それまでの意固地とも思える執念を綺麗に忘れ去ってしまって、変な微笑みさえ浮かべているのだから、わけが分からなかった。これはもしかすると、気でも狂ってしまったのかも知れぬ……背筋の薄ら寒くなるような心配を儂は胸に抱きながら、とぼとぼ帰路を辿る女の二、三歩ほど後ろを恐る恐る付いて行った。
岩肌の地面に何度も足を取られながらも、跫音を響かせる女の後ろ姿からは、やはり何かが抜け落ちたような気配が漂っており、儂のよく知る相手とは、まるで別人のような佇まいだった。儂は居た堪れない気持ちを、喉の辺りで堰き止めながら、てらてらと鈍く光る地面だけを見つめて歩いた。振り返った女に何か言葉をかけられたら――と考えるだけで胸騒ぎがして、顔を上げられなかったのじゃ。
小屋に戻るのにかかった時間は、行きよりも短くて済んだ。女は儂のびくつきをそれとなく感じておったのか、小屋に着くまで一度も後ろを振り返らず、何も言おうとはしなかった。それどころか、まるで儂が後ろを歩いていることなど、端から知らないでいるかのような、徹底した無視っぷりだった。女の姿は、まるで靄がかったように曖昧で、二人を隔てるものなど何もないはずなのに、儂には女が、ずっと遠い所で生きている人間のように思えるのだった。
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