――さて、どう話したものか。

 さっきの話は本当と嘘とを織り交ぜて作ってあるが、儂も年を取ったで、虚実の境を忘れてしもうたのだ。ある時には一から十まで作り話だったような気がするし、逆に全部本当の話のようにも思えてくる。だがまァ……やはり、田兵衛のことから、話を進めて行かねばならんのだろう。

 十六人谷の物語は、これまでにも人に聞かせたことがあるが、田兵衛のことをまず話すことに、若干の違和感を覚えた者がいた。十六人谷に纏わる話は、北又谷で起こった不気味な出来事だけを話せば足りる。何もわざわざ、田兵衛と蠎のことに言及する必要はない。この話はただでさえ長いのだから、余計な前座など必要ないではないか――と、そんな風にでも思ったのだろう。

 だが儂にとっては、十六人谷の物語にこの田兵衛という男が絶対に必要だったのだ。十六人谷の話が嘘っぱちのように、蠎の話も真相を隠すために作り上げた空言に過ぎんが、唯一、田兵衛という男だけは本当にいた。そしてその人となりも、物語の中で言ったものと、そう大きく違わない。

 粗暴、身勝手、無信神――とにかく嫌な男だった。物語の中での振る舞いなど可愛いものだ。田兵衛が仕出かした中で、最も酷かったのは常に女絡みだった。

 田兵衛は殆ど村に居着かなんだから村衆は知らなかったが、儂ら樵は知っていた。田兵衛は、とんでもない色狂いだった。一日でも女が味わえなんだら眼の色を変え、気が違ったように暴れ出す男だった。女を喰らうため生まれてきた狒々神――仲間からは、そんな風にも言われていた。狒々は神様の真似なんぞまでして人身御供を求めるらしいではないか。容貌と言いその性と言い、田兵衛はまさに一匹の狒々だった。

 そのような輩が、山に小屋掛けする樵などやっていけたのか。――話は簡単で、奴は山の中にまで女を連れ込んでおったのだ。仕事の間は小屋に女を一人残し、帰ってきては女と乳繰り合う。そんなことを繰り返しておった。他の樵と一緒に山に入る時でも同じで、鋸やら斧やらの木挽き道具は忘れたとしても、女を忘れることだけは、絶対になかった。そんなことがあって、仲間からは酷く嫌われていた。

 山に女を連れ込むなど、樵にあるまじき振る舞いだ。殊に、若く美しい女子はいかん。山の神は世にも稀な醜い容貌で、それを殊更に気にしている。だから女が山の中に入ることを、ひどく嫌がる。美しい顔立ちの女なんぞが山に入った日にゃ、怒り心頭に来て、麓にある村や里にまで災いが及ぶ。

 儂ら樵は、山の神の怒りを少しでも鎮めようと、切り株の上に鰧を供えるのを習慣とした。不細工面をした魚を見せると、山の神が喜ぶ言うてな。そうまでして儂らが山の神を宥めようとしておるのに、田兵衛はちっともお構いなし。樵が小屋掛けするのは大抵、山の奥地で、よりにもよってそんな所で女とまぐわうのだから、罰当たりと非難囂囂だった。

 儂だって田兵衛なんぞとは山へは入りたくなかったが、儂も田兵衛も村ではまだ若く、足手纏い。共に山に入ってくれる樵などそう多くはなく、自然と奴と組まざるを得なかった。田兵衛は女さえ連れ込めれば、お供が誰であろうとどうでも良かった。

 田兵衛が山に連れ込んでくる女はいつも決まっていた。色狂いだったが、普通の助平と違って、女ならばだれでも良いというわけではなかった。名前は知らん。田兵衛は驚くほど人の名前を覚えぬ男で、供の女に対しても、おいとかお前とかで済ませていたし、田兵衛は女の素性について、何も語ろうとはしなかった。まあ、あの狒々に身を寄せるくらいじゃから貧乏百姓の娘を口説いて連れこんだか、或いは、遊び女を掻っ攫ってきたのか――どちらにしても、褒められた出所ではなかろう。

 顔だけは、天女の如く美しかった。柳の如く体の括れた、艶やかな髪と瓜実顔をした女だった。

 田兵衛はその女を、奴なりのやり方で愛そうとしていた。その振る舞いは、傍から見ると浅ましいものだったが、とにかく狒々なりに女を大事には思っていたらしく、また女も奴に応えておるようだった。思い返せば、あの女もまた普通の人とは少し違った、奇妙な性を持っていたのかも知れん。

 儂と田兵衛、そして女……この不思議な組み合わせが、最後に山に入ったのは素雪のちらつく三十五年前の冬頃のこと。それまでに田兵衛とは、五年で十回ほど山に入った。女は毎回ついてきおった。村に知れたら袋叩きでは済まぬ。さすがに山に入るまでは男を装い、村の目が消えた瞬間に女に戻った。儂だけがそれを知っておったが、口出しはしなかった。変に文句を言って、腕っぷしの強い田兵衛と、ややこしいことになるのは嫌だった。

 田兵衛と一緒に仕事をする度に必ずついてきたわけだから、あの女も少なくとも十度は山に入っただろう。そのせいで禍いが起こったというためしはなかった。山の神の存在など、結局は迷信に過ぎん――さすがの儂も田兵衛の吐く気炎に、首を縦に振らざるをえなかった。儂らは祟りなど端から信じていなかったのだ。

 儂と女も、五年の付き合いともなれば、打ち解けたとは言わぬまでも小屋に戻ってから二言三言、言葉を交わすようにはなっておった。執念深い田兵衛の眼があったから、ほんとうに微かな関わりしかなかったが。女は儂らが共って来るまで小屋に一人残り、夕飯を作ったり掃除をしたりなどと、身の回りの世話をした。田兵衛は樵の腕は確かだったが、それ以外の事はさっぱりな男で、小屋掛けしている間は、自分は木を伐るだけ。飯を作るのも寝自宅をするのも、みんな女任せだった。仕事を早く終わらせた時などは、儂も手伝うようにしていて、その時だけに女と口を聞く事ができた。

 一緒に山に入るようになって初めのうちは、儂は田兵衛の連れを嫌っていた。女を山に入れるなど狂気の沙汰としか言えんし、山の神の怒りを本気で恐れていたこともあったが、何より嫌だったのは、小屋掛けしている間中、毎晩毎晩、淫な声を上げてまぐわっている二人の横に床を敷き、眠らなければならないことだった。

 色情狂いの田兵衛は夜のまぐわいも変態的で、隣で儂が布団に潜り込んでおるというのに、お構いなしに真っ裸になって、女の体を弄んでいた。儂なんぞ端から横にいないかのような振る舞いで、微睡みかけておるというのに、横から響いてくる二人の淫らな吐息や喘声に起こされ、丑三つの頃になるまでそれを聞きながら一人悶々とする日々は辛く、夜が来る度にうんざりとした気持ちになったものだ。

 他人の情痴を見て、その声を聞くことほど卑しい気分になるものはない。あの狒々――それを見越して、敢えて情痴の様を儂に見せつけておったのかも知れん。儂が眠ったふりをしながらも、女の艶めかしい吐息に耳を欹てていたり、寝返りを打つ真似をしつつも、田兵衛の毛深くてごつい体に抱かれる女の姿態を眺めていたことに、奴も気付いていたのだろう。

 儂とて男、去勢などされてはおらん。当時は血気盛んな年頃じゃったで、仕事に打ち込んでいる昼間は考えないでいられたが、夜な夜な肉と肉との弾け合う淫らな光景を見せつけられては、堅物とて心揺るがぬはずがない。

 それでいて儂には、女を手にする金も、山に連れ込んでくる覚悟もなかった。田兵衛はそこまで知っていて、儂を玩具にしておったのだ。

 一方、女は、田兵衛ほど腹黒い謀りがあるわけではないようだった。田兵衛の愛に応えておるだけで、田兵衛がすると言ったら、儂であろうと誰の前であろうと、平気で着物を脱ぎ出す女、それだけのことだった。

 斯様なことがあったから、表向き何気ない風に装っていても、心の裏では二人に対し、激しい憎悪の念を抱いていた。殊に、儂をからかって遊んでいるとしか思えぬ田兵衛――奴への恨みは甚だしかった。儂の煩悶も知らず、女を平気で山に連れ込み、日夜痴戯に浸って楽しげな田兵衛と、早く独り立ちしたいと仕事一筋、他に何の楽しみもない儂。劣等感に苛まれるのは、いつも決まって、一生懸命に樵の仕事をしているはずの儂の方じゃった。

 女は田兵衛ほどに深く恨んでいないにしても、とにかくその存在が面倒だった。この女さえいなければ変な気持ちになることもなかったし、要らぬ雑念を捨てて仕事に打ち込めたはずだと、儂はそう固く信じていた。女は別に、儂をどうしようという思いもなかったのだろうが、ただただ邪魔だった。そんなだから、一緒に山に入るようになった当初は、儂も女を随分と邪険に扱ったものだ。田兵衛のいない所で、怒鳴ったり蹴ったりは常のことだったが、女は田兵衛に告げ口することもなく、独り耐えていたようだった。

 あれも――考えてみれば可哀想な女だ。二人の男の身勝手な振る舞いに翻弄されてさぞ苦しんだろう。そんな気持ちが心の片隅にあって、三度目に共に山に入った時くらいからは儂もぞんざいな扱いを控え、代わりに手伝いなどしてやるようになった。

 女とはそうして少しずつ打ち解けていったが、反面、田兵衛への激しい憎悪の念は、冷めることがなかった。仕事を終え、山を下りてから後も延々引き摺るほどだった。もちろん長い月日を経て、漸うと薄れゆくことはあったが、綺麗に忘れ去ろうとすると、決まってそれよりも先に山籠りの季節が来てしまう。田兵衛の他一緒に山に入ってくれる仲間を持たぬ儂は、結局仕方なく再び奴と組んで仕事に赴くしかなく、そうすると腹の中で燻っていた恨み僻みの上に、また新しく恨みを塗り重ねることになった。田兵衛への負念が消え去る瞬間はなく、いっそう深く腹の中で渦を巻く――その念が、禍々しき殺意に変わるまでに、さほど時間は要らなかった。

 いつしか、田兵衛は儂の中で、殺すべき男になり変わっておった。

 田兵衛を殺す――そう儂がうつらうつらと思い始めたのは、五度目に三人で山に入った頃からだ。その裏には、やはり女の存在があった。

 好きと嫌いは表裏一体――誰が言い出したのかは知れぬが、その通りだった。初めのうちは疎ましくて堪らなかった女の姿が、ともすれば瞼の裏に浮かぶようになったのだ。

 それがいつの頃からだったのか、自分でも覚えておらん。そのきっかけは、たぶん儂が女にほんの少し心を許した、三度目の小屋掛けの時だったのだろうと思う。儂らに良いように弄ばれているあの女を、僅かでも可哀想だと憐憫の情を傾け、突っ撥ねるような態度を改めたあの瞬間、儂は女に心を開いてしまったのだ。それがどれほど危険なことだったか、当時は自覚しておらなんだ。

 鉄面皮を纏い続けて、女に冷たく当たっていれば、儂が腹の内に鬱憤を募らせているだけで済んだのだ。絶えて耐えて耐え抜けば、そのうちに腕を上げ、田兵衛を出し抜いて一人前の樵になれた。仲間から白い目で見られておる田兵衛と違い、儂は真面目で通っておった。待っていれば田兵衛を見返す機会など星の数ほどもあったのだ。

 若気の至りが破滅を招いた。ふと緩めてしまった心の隙に、女への思いがするりと入り込んでしまった。突っ撥ねていた時には、鬱陶しいとしか思われなかった女の別面が、心を落ち着かせると、次第に見えてくるようになる。それがいけなかった。

 あの女――儂が思っていたよりも遥かに普通の、純情な女だったのだ。四度目かに小屋掛けした時、儂は田兵衛のだらしなく昼寝している間を盗んで女と面と向かい、邪険に扱って悪かったと、素っ気なくではあったが謝った。女は何も言わず、静かに微笑んだ。

 その眼には木漏れ日のような、穏やかで満たされた温かみがあった。その光を受けた途端に、儂は何とも言えぬ胸の痛みを覚えた。針先がチクリと当たったかのような、心地好くもあり、息苦しくもある――未熟だった儂の心に、節ない気持ちを呼び起こす奇妙な疼きだった。このような気持ちになったのは、後にも先にもこの時だけだ。

 初めて見せた優しい顔は、その日以降、儂の頭の中から消え去ることはなかった。その様を思い出す度、儂の心は乱れた。最初のうちは胸が戦ぐ程度だったのだが、すぐに甚だしくなった。儂にとってこの上なく不運だったのは、女が儂でも無理をすれば手に入ったかも知れぬ身分であったろうこと、同じ屋根の下で寝起きしていること、更には、夜な夜な女と田兵衛との淫らな交わりの様子を、見せつけられねばならぬ事だった。

 儂と女とは、どう言って良いのかも分からぬ可笑しな関係だった。全くの他人でもない。知り合いというには憚りがある。しかし他人には一番見せてはならぬであろう姿、即ち夜の淫猥の一部始終を儂は知っておるし、女の一糸纏わぬ生まれたままの姿を見てもいる。田兵衛に貫かれ、歓喜の叫びを上げながら、括れた体を蟲のように蠢かす危な絵のような光景だって、実際に目にしていたのだ。

 淫らで汚らわしいとしか感じられなかった女の体。しかし、一たび心を許せばどうだ。闇の中に、まるで蛍火の如く仄白く浮かび上がるあの優しい面立ちが、たおやかな体が、艶めかしくうねる様が、この上なく美しく見えてくるではないか。儂はあっという間に、女の体と心の虜になってしもうたのだった。あれを、儂自身の手で掻き抱きたい――そのような気持ちは、日に日に増すばかりであった。それが強くなればなるほど、女の姿が淫らに、綺麗に見えてくるのだった。眼を合わすことさえ、気恥ずかしいほどだった。

 それなのに儂は、女に触れる事はおろか、口を聞く機会さえ殆どなかった。田兵衛は儂が女に近付いているのを見ると、火のように怒りだす。縄張りを荒らされた獣と同じだった。田兵衛の怒りを怖れ、儂は女の姿を背中越しに隠れて眺めることしかできなかった。儂の女との間は、広がりもせず狭まりもせず、いつまでも中途半端なまま――。相手を一人の女として見てしまうようになった儂には、それが何よりも堪え難かったのだ。

 心を傾けつつある女が、寄りにもよって他の誰よりも憎く恨めしく思っている男の手に抱かれている、その光景を目の当たりにする――この痛痒、実際に味わった者でなければ到底分かるまい。底知れず親密に愛を重ね合う二人の横で、儂一人だけ置いてきぼりを、食らっていたようなものだからな。その恥ずかしさ、居た堪れなさ――。儂の堪忍袋が切れるのも、ほんとうに一瞬だったように思う。

 一度やろうと決めると、後はそれしか見えなくなるのが山男の性。田兵衛を殺すしかないと思い始めた時から、儂の頭の中はそれで一杯になり、他事はおろか、樵仕事さえ考えられんようになってしもうた。いつも念頭にあったのは、どうやって田兵衛を殺そうかという謀りと、田兵衛亡き後、女と共に暮らす事の、楽しい想像――この二つだけだった。田兵衛と肩を並べて山に入る時は、どうやったらこの憎い不細工面をぐちゃぐちゃにしてやれるかと策を廻らし、女と一緒に飯の支度をしている時は、まるで二人が本物の夫婦になったかの如き空想に、心を躍らせていた。

 田兵衛を殺す策は、綿密に練り上げる必要があった。村にいる間は、もちろん奴と一緒にいる必要はないので、一人家の中に籠って、最も確かで安全な殺し方を画策していた。山に入ったら入ったで密かに田兵衛の動きに目を光らせ、仕事の時に奴が気を緩める間隙というものを、ずっと窺っておった。

 儂らの仕事は、木を伐るだけの単純なものだから、腕力さえあれば馬鹿でもできると思っておる輩が多い。しかし、実際には力だけあっては命が幾つあっても足りん。木は、人の都合で生えてはくれん。上で枝を絡ませ合っていたり、とんでもない所に根を張っていたり、葉の中に数え切れぬくらいの鳥が棲んでいたりもする。それらの木の中から、樵は、安全に迅速に伐り倒せるものを選ばなければならぬ。その目論見は、決して外せないものだ。どっしりと構えているように見えて、幹が弱々しい頭でっかちの木など、斧を一度叩き込んだだけで倒れ込んでくることも間々ある。そんなものの下敷きにされたのでは、堪ったものではない。

 儂らは、いつも気を引き締め、眼を皿のように広げて、木々を見ていかなくてはならぬ。土地を読むことだって欠かせない。倒したい木がどこに根を張っているのか、或いは周りの木と、どのような交わり方をしているのか――そういうことも、考えねばならぬ。山にいる間は、たとえ飯を喰っている間であったとしても、だらけることは許されぬ。樵になる者は決まって、初めにそう教わる。

 樵の風上にもおけぬ振る舞いばかりしておった田兵衛も、仕事の間だけは樵としてこの教えを固く守っていた。守らねば即座に死に繋がる類のものだからな。

 そうは言っても人間のすることには限界がある。仕事の間中ずっと、気を引き締めておくことなどできやせん。顔だけは絶えず真面目を取り繕っていても、ふとした時に気は緩むもの。意識せぬ心の間隙――儂は、仕事では専ら田兵衛の手伝いに回って自分では一本も木を伐ろうとはせず、奴の様子ばかりをじっと窺っておった。

 知りたかったことは、存外早く見えてきた。田兵衛は仕事に入る前に、山の少し高い所に立って、大きく息を吸う。それで心を安め、仕事に入魂できるようにしていた。この時しかない――田兵衛の様子を探っていた儂の耳に、どこからかそんな声が響いた。

 入念な準備を整えた。まず、反吐が出るくらいに嫌々ながらも、田兵衛の機嫌取りを始めた。山にいる時は田兵衛を師とも崇める真似をし、口先八丁の褒め言葉を送りながら、酒を注いだり、体を揉んでやったりした。村に帰ってからも色々な珍しい土産物なんぞを片手に足繁く奴の家を訪れ、或いは儂の家に招き入れ、御馳走を拵えたりした。それまでは一緒に山に入っておきながらも、お互いに嫌いあって言葉を交わすことさえ稀だったから、儂の豹変ぶりに田兵衛は驚き、これは何かあると一度は怪しんだようだったが、根が現金な男というものは、時間をかければかけるほど上手く釣られるものだ。儂がいつまで経ってもその態度を崩さず、何くれと親切にしてやっているうちに、次第にそれを当然の如く思い出した。この若造も、漸うにして俺の偉さが分かったか――とな。儂の親切の裏に、練りに練られた恐ろしい謀りがあったとは、田兵衛は露ほども気付いておらぬようであった。

 田兵衛と親交を深める一方で、女とは疎遠になった。以前の如く邪険に扱うのではなく、余所余所しくなった。そうして儂と女との間を、ぷっつり断ち切りたかった。女目当てで、このような親切を働くのではないと田兵衛に思わせたかった。儂に対する田兵衛の信頼を全幅のものとするには、これが欠かせなかった。

 田兵衛はこの一点に関しては、中々儂を信用してくれなかった。儂の機嫌伺いを、女と会うための口実であると、考えておった。これを誤解であると納得させるのに、随分忍耐と時間を要した。忍耐に忍耐を重ね、女との関わりをとにかく避けるようにしてから二月ばかり経ち、九度目に三人で山に籠った時、ついに田兵衛の最後の疑いも溶けた。飯の支度をしている間、ぽつぽつと言葉をかけてくる女に、振り向きもせずぶっきら棒な言葉を返していた儂が、田兵衛の寝転がっている位置からだけしか見えないよう、密かに露わにした嫌悪に塗れた渋面――これを見て田兵衛は儂の心が、とうに離れているか、初めから無かったのか、とにかく今は想い転じて憎しみさえ抱いていることを知ったのだ。その理由を田兵衛は色々に思い描いただろう。こうして儂は田兵衛に、真意とは真逆の、偽りの気持ちを吹き込んだ。それで、全ての支度は整った。

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