悲劇
悲劇が訪れたその日は、雨だった。
その前々日から、ドノバンは帝都北東の町、サーガルへと出かけていた。掘り出し物を見つけて仕入れようとしたのである。
そのあたりのことは、ドノバンの記憶はやや曖昧だった。が、二日目までに、商談のほうはまずまずの首尾で終わったようである。
帝都とサーガルの間は、徒歩で半日ほどかかる。サーガルのなじみの宿で二泊し、早めの昼食を取ったあと、昼少し前に帝都への帰路についた。
宿を出立するころは、小雨がぱらつく空模様であった。
春の雨だとたかをくくって歩き出したドノバンだったが、時間がたつにつれ、空はしだいに暗くなる。じょじょに雨足が強まってきて、気温も下がってきた。
道中ちょうど半ばといったところで、雨はすっかり本降りとなっていた。道はぬかるんで歩きにくく、何度も転びそうになる。外套も帽子も、着ているものはすべてぐしょ濡れで、不快なこと、このうえない。
宿の温かいスープが恋しくなったが、いまさら引き返すこともならない。降りしきる冷たい雨に打たれながら、行き交う人もまばらな街道を、ドノバンはただ黙々と歩いた。
帝都まで、あともう少しというところで、それは起きた。
とつじょ、ドノバンはすぐ背後で、雨の音を引き裂くような馬のいななきを聞いた。と同時に、悲鳴にも似た男性の怒鳴り声を聞いた。
振り返る間もなく、強い衝撃が背中を襲った。彼の体は一瞬宙を舞い、そして激しく街道に叩きつけられた。記憶は、ここでいったん途切れているという。
ドノバンは、後ろから走ってきた馬車に
雨に煙って視界が悪く、御者がドノバンに気づくのが遅れた。ドノバンのほうも、雨音にかき消されて馬車の近づく音に気づけなかった。
不運としかいいようのない事故だったのである。
馬車はある貴族のもので、そのときも貴族本人が乗っていた。ドノバンの意向により、貴族の名は明かせない。
不幸中の幸いというべきか、その貴族はどうやらまっとうな部類だったようだ。ドノバンは彼の屋敷に担ぎ込まれたのである。
あとから聞かされたそうだが、ドノバンは頭を強く打ち、意識不明だった。助かる見込みは低いだろう、というのが医者の
十日間も昏睡状態が続いた。だが、医者の悲観論にもかかわらず、十日目に奇跡的に意識が戻ったのだ。ドノバンは、
貴族は大いに喜んだ。人を
一か月半ののち、医者は完全回復を宣言した。
屋敷を去るというとき、貴族はドノバンに示談を申し出た。
いわく、補償金を支払うゆえ、今回の事故についてはいっさいを水に流してほしい、というのである。その額は、金貨百枚。生死にかかわる大事故だったとはいえ、負傷に対する示談金としては破格である。
貴族を相手に訴えを起こせるはずもなし、悪い話ではないと思ったドノバンは示談を受け入れた。
ここでひとつ、留意していただきたい。すなわち、夢の中で像が提示した金額と、示談金の額との奇妙な一致である。
さてこうして、ドノバンは自宅に帰ることができ、元の生活に戻ることとなった。いや、正確には、そうなるはずだった。
異変は、自宅に帰ったその夜に起きた。
また、あの夢を見たのだ。
「支払いは終えた。約束通り、汝の文字をいただくぞ」
頭にずきりと痛みが走り、ドノバンは目覚めた。すでに明け方で、全身にじっとりと寝汗をかいていたそうである。
翌朝、ドノバンは嫌な夢をさっさと忘れようと、留守中に届いた手紙類を読もうとした。そしてそのとき、己の身に起こった重大事に気づくことになる。
なぜか、文字が読めないのである。
文字が書いてあることはわかる。視力は正常だ。言葉を忘れたわけでもない。会話は問題ないのだから。だが、意味がわからない。何度も読み直すが、理解できない。
私には、ドノバンの言う上記のことがよく理解できなかった。視力と言語知識が正常でありながら、文字を読めないとはどういうことなのか。
この点について知り合いの医者に尋ねたところ、驚くべきことに、こうした症状はまれに起こりえるのだという。これは失読症といい、頭部に大きなけがをしたり、脳の病気になった場合に後遺症として現れることがあるらしい。
私が冒頭で述べた得体のしれない示唆とは、まさにここである。
確かに、ドノバンは失読症の症例に該当する。
しかし、とはいえ、あまりにもできすぎた偶然ではなかろうか。怪しげな夢の中で金貨百枚で文字を売る契約をした男が、現実でも、金貨百枚と引き換えに「文字を失った」のである。
私にはどうしても、不吉な因果律が働いているような気がしてならないのだ。
帳簿など、仕事に必要な書類を作れなくなったドノバンは、商売を続けられなくなった。
私が地方から帝都へ帰り、ドノバンの店へ顔を出したとき、彼はもうすでに店をたたんでいた。なぜ店をやめたのかと問うた私に、ドノバンは自身の身に起きた、この奇妙な出来事の一部始終を語ってくれたのである。
語るドノバンは疲れた様子で、会わなかった四年の間に十歳も年老いたように見えた。
ドノバンの語った奇妙な物語は、これで終わりである。
主役であったドノバンも、先ごろ病を得て、至高神の御許へと旅立った。彼の魂に大いなる安息が与えられんことを祈るばかりである。
最後に、私から読者諸兄にお願いがある。
私は、この物語のもう一方の主役ともいうべき謎多き像について、並々ならぬ関心を抱いている。だが、いまだにその所在が不明のままなのである。
ドノバンの葬儀ののち、私も友人の一人として遺品整理を手伝ったのだが、店には像はおろか、ほとんどなにも残っていなかった。
像の発見者で、少なくとも何かを知っているはずのビッティを探したが、こちらも数年前から消息不明のままである。
ついてはお願いである。
この物語にあるような像、またはビッティについてなんらかの情報をお持ちの方は、帝都南地区、ベルゲニウト街の錬金術師フラウブロスまで、ご連絡をいただきたい。
情報の有益度に応じ、誠意ある額の謝礼金をお支払いするつもりである。
皆様の明日が、栄光に包まれた一日でありますように。
了
無名王国の影 旗尾 鉄 @hatao_iron
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