神様のはらわた

雨色銀水

優しさと傲慢の内に

 もし死なせてしまうくらいなら、その手を離してあげて。

 その子の未来を奪う権利は、神様にだってありはしないのだ。


 ※


 それは、今年最初の雪が降る、とても寒い日のことだった。


 朝の礼拝を終え、私はいつも通り礼拝堂の掃除をしていた。小さな町の教会を訪れる人は多くない。しかし神の家であるこの場所を、ほこりまみれにしていいはずもなかった。


 手始めに壁際の棚の上や燭台しょくだいの近くをはたきで叩き、丹念に埃を落とす。それが終わったら、長椅子や床を丹念に雑巾掛けしていく。


 冷たい水に浸した雑巾を絞ると、当然のように指先がかじかんだ。

 朝の空気は冷たい。白い息を吐き出し振り返れば、ステンドグラス越しに光が差し込んできたところだった。冷たく静謐せいひつな空気に、自然と私の背筋は伸びる。


 神様は乗り越えられる試練しか与えないのです。

 それが神父様の口癖だった。老齢ではあるが神父様の背はまっすぐ伸びていて、眼差しは温かく常に聡明な光が満ちている。私が神の道を志したのは、神父様に出会ったからだ。


 神父様を目指すなら、この程度の寒さ冷たさでへこたれるわけにはいかない。

 私は腰を叩いて気合いを入れ、冷たい水が満たされたバケツに向き直る。さあ、今度こそ掃除を終わらせなければ。意気込みも新たにバケツの雑巾を手に取ろうとした、その時だった。


 ——わぁああぁん!


 私は動きを止めた。礼拝堂の静寂を破るその音——いや、その声。それは教会の外から聞こえてきているようだ。突然のことに反応できずにいると、不意に奥の扉が開く音がした。


「どうしたのかね?」


 低く、耳に残る落ち着いた声音だった。振り返ると祭壇脇の扉から神父様が歩いてくるのが見えた。我に返って首を振れば、神父様は白い眉をわずかに寄せる。


「子供の声のようだね。こんな早朝に泣いているとは……一体どうしたことかな」

「何かあったのでしょうか。こんな雪の日の朝に……」


 子供の泣き声は未だに響き渡っている。私は戸惑いながら神父様の瞳を見つめた。状況はわからないが、何か良くないことが起こっている。私が感じたのと同じことを神父様も感じていたらしい。


「とにかく一度確認するべきだろう。……シスター、頼めるかな」

「はい、お任せください」


 不安はあるが、立ち止まっていても仕方ない。私は神父様に頷き、礼拝堂正面の扉を開いた。


 外の空気を吸い込むと、鼻の奥がツンとした。灰色の空を見上げれば、粉雪が降り注いでくるところだった。私は襟元をかき合わせ周囲を見渡した。少しだけ白くなった道に、変わったものは見当たらない。


 戸惑いながら首を振ったその時だった。視界の端で何かがうごめいた。ぎょっとして一歩後退ると、その『何か』は涙に濡れた顔を上げてこちらを見る。


 私は言葉もなく、その『何か』——いや、小さな子供を見つめていた。

 年の頃は三、四歳くらいだろうか。着ている服は古びていて、首に巻かれたマフラーも色あせている。手袋はしておらず、靴は履いているがそれもボロボロだった。


 子供はもう、声をあげて泣いてはいなかった。ただしゃくり上げながら、何度も母親のことを呼んでいた。幼いその姿に私の胸はひどく痛んだ。この子供は、たぶん。いやきっと——。


「おいで。……そこは寒いでしょう?」


 ためらいながらも子供に手を伸ばした。幼い瞳は怯えたようにこちらを見る。安心させるように微笑んで、私はそっと子供の小さな手を取った——。


 ※


 泣き疲れたのか、その子は気づけば眠ってしまっていた。

 小さな体を寝台に横たえ、私はそっと枕元を離れる。涙にぬれた顔はとても痛々しかった。眠りに落ちた幼い姿を見つめていると、静かに部屋の扉が開かれる。


「眠ったかね」


 神父様だった。部屋の中を見つめて、神父様はかすかに笑みを浮かべる。

 対する私は、笑みを浮かべることさえできなかった。心の中ではぐるぐると嫌なものが回り続けている。立ち尽くしていた私に椅子を勧めると、神父様も椅子に腰を下ろす。


 部屋の中には、暖炉から聞こえるかすかな音だけが響いている。炎が揺らめく音を耳にしていると、外の寒さが遠いもののように感じられた。だが現実はそんなに甘いものではない。


 私たちは無言で向き合っていた。神父様は微笑み、眠る子供を見つめている。私は何か言おうとして、その度に口を閉ざす。神父様はそんな私にも微笑みを向けていた。


「……あの子は、捨てられたんですね」


 やっと口にできたのは、愚にもつかない言葉だった。

 同時に湧いてきたものを無視できず、私は両手を膝の上で握りしめる。それはたぶん、怒りだった。理不尽な行いに対する怒り。はらわたが煮えくりそうなそれを込め、言葉を放つ。


「ひどい、親です。子供を捨てるなんて……。捨てられる子供が、可哀想だとは思わないんでしょうか? 捨てられた子供がどれほど傷つくのか、親は考えもしないのですか?」

「……そうだね。私も浅はかな行いだと思うよ」


 浅はかなどという問題ではない。私は我を忘れて神父様に言い募った。

 子供は親を選べないのに、親は平気でそんな子供を捨てる。親は逃げればいいが、置き去りにされた子供はそうすればいい? 誰が彼ら彼女らを救えるのだ?


 言葉を繰り返した私を見つめながら、神父様は長い息を吐き出した。

 窓の外では音もなく雪が降り積もっていく。部屋の中は暖かいのに、一歩踏み出せば凍えてしまう。そんな冷たい世界を思い描いた私の前で、神父様は静かに手を組み、再び微笑みを浮かべた。


「君の言葉は間違いではない。けれど親には親の事情があり、捨てざるを得なかった理由もあるのだ。それをかえりみなければ、平等とは言えないのだよ」

「事情……? それがどうしたと言うのですか? 親は捨てる側です。いわば加害者……それに対しても平等に接しなければならないのですか。子供にはなんの罪もないのに。一方的な被害者を守らないで、加害者を擁護ようごするのですか……?」

「擁護とまでは言わないが。……私としては、『捨ててくれてありがとう』と、言いたいがね」


 理解できない。目の前が真っ暗になっていくようだった。爪が手に食い込み、痛みが伝わる。それでも手を握りしめる私に、神父様は寂しい笑みを向けた。


「理解できないかね?」

「ええ。……理解できません。子供を捨てた親にありがとうなんて……到底」

「そうか。……そうだろうね。だが……君はあの子の手を見たかな?」


 穏やかに問いかけられて、私は目を瞬かせた。寝台で眠る子供の手は、ここからでは見えない。教会の入り口で見たときは手袋もしておらず寒々しいと思ったが。


「手袋も買ってもらえなかったのでしょうね」

「……そうか。そうかもしれんな。だが……そんな風に手袋も買ってもらえなかったにしては、あの子の手はとても綺麗だった。爪も割れてもいないし、伸びすぎてもいなかった。きっと……ちゃんと手入れをしてもらっていたんだろう」


 神父様の声は温かかった。だからこそ私は困惑する。神父様が言いたいことが、理解できない。


「よく考えてごらん。あの子の服は古びているが、ちゃんと繕われているし、嫌な臭いもしない。髪も体もとても清潔に保たれているだろう。それに歯だって……ちゃんと磨かれている」

「何を……仰りたいのですか?」


 わからない。いや、わかりたくないのかもしれない。私自身が、そんなことあってはならないと考えている。頭を振る私を優しく見つめ、神父様は穏やかな声音で言う。


「……貧しくても、大切にされていた証拠だ。本当に子供がどうでもいい親は——非常に遺憾いかんなことだが——ここまで世話しようとは考えない。貧しいながらも、この子の親はこの子に愛情をかけていたのだろうね」

「ならば……どうして、この子を捨てたのですか……? そこまで大切にしていたなら、何故」


 理解できなかった。大切にしていたならどうして、捨てることができたのだろう?

 自然と顔が歪むのを感じながら、私は奥歯を噛み締めた。おかしいだろう。そう呟いた私に、神父様は手を組み替え、そっと語りかける。


「愛していたから、手を離すのだよ」


 その声は降り積もる雪のように静かだった。私は何も言うことができず、顔を伏せる。愛していたから——理解できないと言うには、その言葉はあまりにも重い。


「親と一緒にいることは子供にとって幸せなことだ。それは間違いない。幼い子供ならなおさらその思いは強い。だがね、もし、親と一緒にいることでその子の未来が閉ざされるのなら——親が、子供を死なせてしまうのなら。親が……手を離すべきなんだ」

「その子が、どれほど大切でも、ですか」


 大切なら手を離すべきではない。そう思うことが間違いだとは思えない。

 幼い子供にとって、親は本当の意味で世界の中心なのだ。親に捨てられることがどれほど辛いことなのか、私は嫌という程に理解できる。


 けれど神父様は静かに微笑んで、寝息を立てる子供に目を向けた。


「子供は親の隷属物れいぞくぶつではない。親が子を大切に思うなら、その子がを考えるべきなのだ。親と一緒にいることで死んでしまうのなら、親が自ら手を離して子を生かす。その覚悟を愚かだと言う人間はいるだろうが——死なせてしまうよりはずっと良い」


 雪が心の中に降り積もる。そのことを寒いと私は思っていた。

 幼い子供にとって親が絶対の存在であったとしても、親が子供に対して絶対の存在でありつづけてはいけない。子供はいつか大人になる。その未来まで奪ってはいけない。


 子供は親の『モノ』ではないのだ。だからこそ、親がいることで子供が不幸な結果になるならば手を離すべきなのだと。


 神父様は穏やかに語り続ける。その声は心に降り積もった雪を溶かすように、暖かな雨を降らせる。


「この子の親は、この子の幸せを考えて、ここに捨てていったのだろう。誰であろうと——親であろうと神様であろうと、この子の命を奪う権利はない。だから私は捨ててくれて——この子の未来を考えてくれてありがとうと、言いたいのだよ」


 私は目を閉じた。暖炉の音も、窓を叩く風の音も遠く聞こえる。鼻の奥がツンとした。神父様の言葉を悲しいと思う。子供の側で考えればひどいことでしかない。だが、それだけでもないのだ。


「君は今まで生きてこられて良かったかな。それとも、親と一緒に死んでしまえたら良かったと……そんな風に、思うかな」

「いいえ」


 答えに迷いはなかった。私は目を開くと、神父様をまっすぐに見つめた。様々な思いが心を巡っている。しかし、この答えだけは私にとって揺るぎないものだった。


「いいえ。……私は生きていて良かったと思います。この気持ちは親が私を殺すことを選んでいたら……感じられなかったことですから」


 神父様は温かな瞳で私を見返した。それが私にとって必要な答えだった。


 寝台で眠る子供が、親の不在に悩む日は必ず来る。だがその時に子供の幸せを願い、手を離した親の愛情に気づくことがあれば良い。


 愛情はわかりやすいものだけではない。

 簡単には見えないからこそ、深く人を想い、人を傷つけもする。


 それはまるで神様のはらわたのように、優しさと傲慢の奥に眠っているものなのだ。

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