#31 虹
朝も早くから、社員のひとりが、渋い表情で電卓をたたいている。社長の
明らかに、「RYUJI」効果である。世論は、射水隆二をバッシングすることよりも「
――ま、この賠償額なら、甘受すべきだろうな……。内心で志原はそう思う。事務所の倒産、もっと多額の負債も覚悟していた。しかし、金額にあらわせない、もっとも貴重な収穫を得ることができたのだ。今は全力で、それを守っていくしかない。
「
「とっくに行きましたよ。行ってきます、って言ってたじゃないですか。社長、おうって答えてましたよ」
「ありゃ。おれもトシかな」
志原は頭をかくしかなかった。
――まあ、どうにかなるだろう。あいつはもしかすると、射水隆二を超えるかもしれないぞ――志原は内心で、そう踏んでいた。
なにしろあいつは、父の射水隆二でさえできなかったことを、20代でやりとげたのだから。
「ごめんください。
玄関ドアが開く音と、香里の声が重なる。幸樹は、虐待のカウンセリングをスマホで検索する手を止め、荷物を持って廊下を直進した。
「おはようございます」
「おはよう。荷物それだけね?」
「ええ。機材はそちらで運んでくださるんですよね」
「そうよ。というか、その後ろに載せてあるんだけどね」
「でも運ぶ人手が……ああ」
玄関を出たところにワゴン車が停められていて、運転席から降りた
小雨は弱まり始めたようだ。
「少し早いけど、出発しましょうか。この時間だと渋滞は避けられそうにないし」
「そうですね」
3人はそれぞれに乗車した。藤尾は運転席に、香里は助手席に、幸樹は後ろの座席に腰かける。ワゴン車が通過した後、射水邸のふたつの門を香里がリモコン操作で施錠する。藤尾は、通過する車を4台やり過ごしてから、通りに乗り入れた。
制作がストップしていたリメイク版「アルツリウスの
そして今日は、コンペが行われる。都のイベントのテーマ曲を決めるためのコンペだ。ライバルとして、
「よく、乗り越えてくれたな」
……先日、事務所で社長の志原に言われ、幸樹は否定した。
「乗り越えてはいませんよ。一番長くてしんどいところが、これから始まるので」
理不尽な暴力の犠牲となってきた自分が、理不尽な暴力をふるわないこと。……結局そこに行きつくのだろう。不公平だ、という見方もあるかもしれない。親や身近な人から殴られたり蹴られたりし続け、体のダメージは当然のことながら、怒りや悲しみ、苦しみといった感情を無理やり押し込められ、一緒に過ごすことの楽しさ、好意といったものまでが圧縮され、ぼろぼろの残骸にされたまま、心の中に放置されてしまう。自分の中に蓄積されてしまったヘドロのような感情を、同じように暴力で他人に押しつけて――そうしてもいいのなら、少なくとも自分自身は、一時的に溜飲を下げることは可能かもしれない。しかし、本当にそれで、自分は救われるのだろうか? 自分と同じように、なぜこんな目に遭うのかという苦しみと悲しみと怒りとを抱える人を、自分の手で再生産することを、本当に自分は望んでいるのだろうか? 他人を傷つけることで得られる快楽のまがい物は、本当の意味で自分の心を救ってくれるのだろうか。自分の子どもに暴力をふるい、いつか子どもがさらにその子ども――つまり孫に暴力をふるうようになったとき、自分の心は痛まないと、断言できるだろうか。
虐待に苦しみながら育ったからこそ、自分が他人に暴力をふるうことなど思いもよらない、という人も多くいる。自分自身をきちんと律することのできる人も多くいる。しかし、自分の育った家庭環境が世の中のスタンダードだと学習してしまった人もいるし、反動的な己の爆発を日々懸命にこらえ続けている人も多くいる。なぜ自分だけが我慢しなくてはならないのかと、自身の境遇に不満をつのらせている人もいるのだ。
――家庭の中だろうが外だろうが、暴力を用いることは、直接ぶつけられる人の心身だけでなく、周囲の人々の心をも傷つける。圧縮され蓄積された怒りと悲しみと虚しさは、暴力とは異なる、平和的な手段で、消化するしかないのだ。幼い頃から親や保護者によって、暴力や不作為(ネグレクト)で自身を否定され、踏みにじられ、尊厳を破壊される日常の中で生き延びてきた人に対して、それは容易なことだとは言い切れない。さんざん踏みつけにされてきた自分の怒りの爆発を必死でこらえ続け、苦行のような日常に疲弊して、ふとしたきっかけでそばにいた家族をつい殴ってしまい、地獄のような後悔と絶望に心折れてしまう人もいる。それほどに、重い、重い
だからこそ、助けが必要なのだ。背負わされた感情のヘドロは、自分ひとりのものではない。暴力をふるってきた人から無理やり押しつけられた、二人分、あるいはそれ以上の人数のものなのだ。たったひとりで対抗できるはずがない。たったひとりに凝縮されたものを取り出し、分解し、処分するために、多くの人の助けが必要なのは、当然のことなのだ。
「あ、虹!」
「え、どこですか」
香里が声を上げ、信号待ちだったので藤尾もきょろきょろした。右前方、街路樹と、高くないビルの向こうに、光の手品が弓の形になって、雲と青空のカオスを彩っている。雲の彼方を射抜いて、青空と太陽を呼び込む穴をあけようとしているかのように。
……虹、か。1曲作ってみてもいいな。
「香里さん、曲の売り上げを、虐待の対策のための社会的支援に回す、ということは可能ですか?」
「……そりゃ、できるでしょ。でも今はコンペに集中してちょうだい。詳しいことはこっちで、社長と検討してみるから」
「お願いします」
オレが碧衣さんに見せる「答え」――コンペに勝つこと、しかないだろう。これからも自分はこの世界で生きていくのだと、そのための能力はほかの誰にも負けないのだということを、アピールするこれ以上の手が、あるだろうか。
――負けたくないな。いろいろなものに――。
白い雲の向こうから、太陽がきらっと顔を出した。
窓の中で、幸樹はまぶしさにまぶたをしかめた。
ワゴン車は渋滞の中を辛抱強く、会場へとのろのろ進んでいた。
(了)
ひとりぼっちのコンチェルト 三奈木真沙緒 @mtblue
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