「雨が降っているみたい」

 ──雨が降っているみたい。



 昔、香月にそう言ってくれた人がいる。香月の珍しい瞳、その虹彩をさして。

 不思議だね、と言われたことはそれまでも何度かあった。だが珍しいというのは必ずしもいいことばかりではない。中には熱心に香月の瞳がどれほど貴重で価値あるものかを説いてきた人もいた。でも一番多いのは好奇心や奇異の目で見られることだ。ときには腫れ物に触るような扱いを受けることだって。

 とりわけ酷かったのは子供の頃だ。子供の狭い世界において『普通』じゃないものは疎まれるし厭われる。小さな田舎町だったことも拍車をかけていたのだろうか。よくそのことが原因で虐められた。思い出したくもない嫌な記憶。けれど一層酷かったのは卒業後だ。中学は親の転勤、といっても少しだけ大きな隣街に引っ越して、別の中学に行くことが決まっていた。また虐められるかもしれない、という不安はもちろんあったけれど、それ以上に離れられることが一番嬉しかった。

 だからこそ、小中合同の同窓会なんて行きたくもないところに半ば強引に誘われたときは驚いた。嫌だとか、面倒だとか。そういう気持ちもあったけど、何より意味が分からなかったのだ。親切にしてくれる子がいなかったわけじゃない。虐められる香月に居心地の悪そうな顔をする子だっていた。それでも友人と呼べる子は一人もいなかった。それがすべてだ。

 幸い中学では親しくする友人もできて、揶揄われることもあったけど友人がいたから救われた。高校に上がってからは一層息がしやすくなった。好奇心も奇異の目も変わらない。変わらないのに、苦しくない。今でも不意に思い出してはつらくなるけど、それでもずいぶんとよくなった。明るくなったとも思う。

 それなのに、どうしてわざわざそんな場に誘われるのか意味が分からない。迷惑だ。言うまでもなく嫌だし気まずい。けれど向こうには、虐めていた側にはそういうものもないのだろうか。謝罪なんていらない。ただ関わりたくない、たったそれだけのことも叶わない。そういう、ただ煩わしいだけのものだった。誘ってきたうちの一人、学年の中心だった女子の言葉を聞くまでは、本当にそれだけだったのに。


『あいつらさ、白井さんのことが好きだったんだよ』


 それを聞いたときの驚きといったら!

 なるほど、世の中には全く理解が及ばない人間がいる、と十代にして悟った瞬間だった。無論そんなことを言ってきた彼女も含めて。

 今もそうだ。偶然、かつて住んでいた場所に用があって、そこで彼女と会った。香月にとっては“遭った”だ。とんでもない不運、ちょっとした事故。そんな事故もとい彼女は何を思ったのか香月の携帯を見て、ちょっと貸して、と奪った。この時点で香月はもう本当に訳が分からなくなっていた。静かにフリーズする香月をよそに、すいすいと操作する彼女の手つきは手慣れてた。少しするとはい、と無事返されたことは救いだろうか。連絡アプリの友達追加という心底いらないオプション付きだったけれど。小さめの、機能もシンプルの使いやすいところが気に入っていたのだけど、それが裏目に出てしまったのだろうか。そのままブロックでもすればよかった。だけどこういうとき、肝心なのはきちんと証拠となるスクリーンショットを撮っておくこと、そして安易なブロック行為で相手を逆上させないことだ。心配性な友人のストーカー対策講座がこんなことで役に立つとは。別に彼女はストーカーではないけれど。

 そんなわけで、お気に入りのカフェでくつろいでいたときの彼女からの催促に香月はうんざりしていた。せっかくの素敵な休日が一気に台無しになってしまった。仕方なしにトーク画面を開くと案の定の内容。香月を案じるようでいて、その実態は香月を責めていた。文字とスタンプだけのやり取りでも、不思議とそういう空気は伝わるものだ。

 そういえば、香月にしつこく絡んできた男子の一人とよく一緒にいた。気がする。馬鹿馬鹿しい。理性はそう判断するのに、画面越しにいるのは彼女であってあの虐めっこではないのに、思い出したらもう駄目だった。ただでさえ緊張で強張っていた体がますます硬くなる。心が小さな子供のように縮こまって、そうしているうちにも相手からの通知は止まない。


 ──くるしい。

 頭がくらくらしてきた。手足もなんだか痺れているし、体も重たい。何よりも呼吸ができない。私、このまま死んじゃうのかな。ぼーっと痺れる頭で不安と恐怖に襲われていたら、香月の異変に気付いたのか、馴染みの店員がやってくる。当の香月はそれにすら気づけずに、ただ重力を失ったかのようにソファに沈み込んでいた。

「香月ちゃん?」

 声をかけられて、それでも香月は動けない。体全部が鉛になったみたいに重たくて、声の主を見ようと頑張っても力が入らない。

「ああ、いいよいいよ。そのまま安静にね。本当は横になるのが一番なんだけど……」

 そう言って、香月に断りを入れて携帯を手に取る。

「これ、相手はお友達かな? ……違うみたいだね。電話をかけても大丈夫かな?」

 体中の力を振り絞ってなんとかこくりと頷く。そもそも彼は店員と客という関係以前に従兄弟だ。香月の小学校時代のことも知っている。

 香月の許可を得た彼の、柔らかな低さで話す声が心地いい。昔、いつだったか似たようなことがあった。香月が一番つらかったとき、自分の瞳が嫌いでたまらなかったときのことだ。

『僕は香月ちゃんの目、好きだな。雨が降っているみたいで綺麗だ』

 そんな素敵な例え方をされたのは初めてで、試しに両親や、祖父母や、香月の瞳に嫌悪も拒絶も示さない家族に聞いてみたことがある。せいいっぱいの勇気を出して、聞きたくて、だけど怖くてずっと聞けなかったこと。

『かづきのめ、きもちわるくない?』

 返ってきた答えは勿論否、だ。次々と綺麗だ、好きだよ、他にもたくさんの、それまでの香月の恐れがどこかへと飛んで行くほどの言葉たち。最後にはかわいい香月、だなんて瞳とは関係ないことまで言われた。恥ずかしくて、でも嬉しくて、香月がほんの少し自分を好きになれたきっかけ。後から知ったことだけど、みな香月に負担をかけまいと瞳に触れないようにしていただけと聞いたときは気が抜けた。なんてことは全くの余談だ。


◆◆◆◆◆


 幸い人の少ない時間帯の、奥まった場所の席にいたことも手伝って、女性スタッフ二人に両脇を抱えられるようにしてバックヤードへと連れて行ってもらった。住居と併用したタイプのカフェということもあり、香月が落ち着いたら今日はこのまま家に泊まらせてもらうことになっていた。申し訳ないと思うものの、横になっている香月には拒否権どころか発言権すらない。というより呼吸もまだ覚束ないから当然なのだけど、物理的に話せない。口を開いても声すら出ないのだ。

 今は彼、恭一が香月の傍にいる。僕の呼吸に合わせてね、と言う恭一に合わせて息をする。そうするといかに香月が息ができていなかったか、息を吸ってばかりで吐けていなかったのかが分かった。そのおかげか、先よりはずいぶんとマシになった。思考だってさっきとは比べ物にならない。

 ──そういえば、どうして恭一くんはこんなに手慣れているというか、スムーズなんだろう?

 少しばかり働くようになった頭で考える。実際、女性スタッフはひどく慌てていた。恭一の的確な指示あってのものだ。今こうなっている香月ですら、いざ自分と似たようになっている人がいればおろおろしてしまうだろう。そんな香月の心中の疑問を感じ取ったのか、それとも顔に出ていたのか、恭一が苦笑してこれが初めてじゃないからね、と言う。初めてじゃないって、前にもこういうお客さんがいたりしたのかな。あ、お店じゃなく別の場所かも。

「香月ちゃんがね」

 えっ。まさかの香月のことだった。全く覚えがない。

「本当に小さい頃、今と似たような症状になったことがあってね。そのときの僕は何もできなくて見ていることしかできなかった。幸い、それ以降はこうなることもなかったと思うんだけど……」

 無言で肯定を示す。このよくわからない状態ですら分かっていないのに、まさかの一度目ではなく二度目だなんて、むしろそっちの方が驚きだった。

「だからまあ、それから自分なりに勉強、ってほどでもないんだけど。調べたりして……」

 決まり悪げな恭一に、そういえば恭一くんはこういう人だった、と改めて思う。穏やかで、謙虚で、決して威張ったりしない。人と同じ目線で会話をする人。年下の香月を年下だからと軽んじない人。だから香月はずっと恭一が好きだった。幼い初恋だ。もっとも香月は件の虐めっこたちのせいで異性が変わらず苦手だし、恋愛というものにもあまりいい印象を抱けない。第一自分が相手にされるとも思わなかった。そうして淡い憧れごと胸の奥にひっそりと仕舞っていたのだけれど。

「きょー、……かし……」

「どうしたの? 無理はしないで。話したいことがあるならいつでも……」

 違うの、と少しだけ軽くなった手を恭一に伸ばす。声も出せる。ちょっとだけ、あとちょっとだけ頑張って。

「きょーち、く、むかし、わた、しの」

「うん」

「ひとみ、あめみたい、いった……あれ、きょーちく、だった?」

「…………覚えてたの?」

 ふる、と首を振る。ずっと忘れていた。さっきの、彼女から助けてくれるときまでは、ずっと。つらかった香月を救ってくれた言葉。どうして忘れていたんだろう。思い出してみれば恭一以外にありえないと分かるのに。

(……早く、戻りたい)

 そうしたら、またいつも通りになったら。恥ずかしさからか顔を赤く染めた恭一に、今まで大事に仕舞っていた想いを伝えよう。結果がどうであれ、それで何も変わらなくとも、香月の中ではきっと何かが変わる。そんな確信があった。


 幼い初恋が、時間をかけて成就したかは、さて。香月と恭一だけの秘密だ。



2021.05.19



※作中の過換気症候群への対処として、自分の呼吸に合わせるよう誘導する、不安にさせない、などが適切かと思います。なお、以前は推奨されていたペーパーバック法(紙袋等を口に当てて息を吐き再度吸う、を繰り返す)は、現在はリスクの可能性が高いため推奨されていません。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る