「どうして覚えてないの?」

 恵は一度、どうしようもないものを失った。だが何を失ったのかは覚えてない。少なくとも記憶喪失の類でないことは確かだ。意味記憶は勿論、エピソード記憶だってばっちりある。

 例えば三年前の今日は忙殺されてぐったりしていたし、一年前の明日は子供以来の家族旅行をした。恵の記憶力はどうやら人よりもずいぶんといいらしく、どうでもいいことから重要なことまでよく覚えている。おかげで話題に困ったことは一度もない。記憶力がいいんですよ、と言えば勝手にそこから話は広がっていく。ありがたい特技かつ持ちネタだ。

 それなのに、どうしてだろう。

 喪ったことを、あるいは忘れたことを認識しているのに、肝心のそれが分からないだなんて、そんなことあるだろうか? 実際に恵が思い出せない以上、あると認めるしかないのだけれど。

 その点について分かることは、空洞の如き喪失感だけだ。まるで自分の一部が欠けたかのような。アイデンティティーが崩壊してしまったかのような。

『どうして覚えてないの?』

 何度も何度も、自分自身に問いかけた言葉だ。だが当然答えは返ってこない。返ってこないことに、奇妙な感覚に襲われる。だから恵は幾度か、さりげなく周囲に聞いて回ったことがある。自分の傍に誰か特別な、友人でも恋人でも、あるいは分かりやすい名前の関係性でなくとも、そういった人物がいなかったか。

 果たして答えは見事にバラバラだった。唯一の幼馴染。中学からの悪友。今でも友人付き合いをしている元恋人。エトセトラエトセトラ。分かったことなんて恵の交友関係は恵自身が思ってるよりも広いことだけだ。数人には記憶力のいい恵が、と不思議がられたが、同時に安心もされた。いわく、記憶力が良すぎてたまに怖くなるそうだ。ずっと恩恵に預かっていたこの特技は、どうやらマイナスの部分も持ち合わせていたらしい。


「めぐちゃんが普通の人間ぶってるって聞いたときはどうしたって思ったけど、その様子じゃマジなんだな」

「その呼び方を即刻やめろ今すぐにだ」

「おお、怖い怖い」

 ひょい、と肩を竦めるのは件の悪友だ。

 古市恵の地雷原、というほどでもないが、敢えて触れられたくはない部分に目の前の悪友殿は軽々しく触れてくる。気の置けない関係性は楽だし心地いいが、遠慮がなさすぎるのもまた問題だ。恵と書いて「けい」と読む名前に複雑な気持ちを持つ身としてはなおさらに。字に不満はない。何せ縁起がいい。読みも、慧眼や叡智という意味を持たせたもので、かつ一見して読めないわけでもない。むしろ予測変換で出てくる程度には普通の名前だ。だからこその微妙な複雑さでもあるのだが。さておき。

「つーかお前のそんな話はじめて聞いたわ、なに、実は初恋の君だったりするってオチ?」

「飛躍の仕方が斜め上どころじゃなくてこっちがびっくりするんだが、そういう話をしたいなら他を当たれ」

「ケイのそういう話にはミリも興味ないけど忘れてるんだか思い出せないんだかって話には興味しかない」

「興味と知的欲求だけで動くその癖、いつか身を滅ぼすんじゃないかとこっちはひやひやするけどな」

「ほらそうやって話を逸らす。俺相手に無駄だって分かってんのに、なんでそういうことするかね?」

「話を逸らしてるって分かってくれるからじゃないか?」

「ほら、ほらー! お前はまたそういうことをさらっと言う! その人たらし癖がお前が面倒がる連中引き寄せてんだよ、なんで自分で自分の首絞めるようなことするかな」

「人たらしって癖なのか?」

「知らね。俺が今決めたから癖でいんじゃね?」

「相変わらず適当な……」

 そもそも、とすぐに脱線する話を元に戻す。気の置けない関係はこれだからいけない。

「人かどうかも分からない話だ」

「ものより人のがワンチャンありそうじゃね?」

「絶望的だな。まあ、ないよりはましだが」

「あ、そだ。絶望的で思い出したんだが」

「今度は何だ」

「や、チエだかって名前のやついなかったっけなって思って。せっかく近くまで来たからついでに聞いとこうかと」

「便利な辞書扱いも変わらずか。……そのチエさんとやらは本当に実在しているのか?」

「唐突なホラーやめろや」

「いや、ワカのイマジナリーフレンドじゃないかって方だ」

「大親友を前によくぞ言ったな」

「母方の祖母の旧友の娘さん、二年の副担のプーさんのおばさん、高校の一個下の女子……少なくともお前と共通の友人知人関係にはいない」

「その関係ってAさんの知り合いの知り合いのって意味じゃんよ。つーかプー懐かしすぎるわ。あだ名で覚えてて名字全然出てこねぇけど」

 なんでプーなんだっけ、と首を傾げる悪友こと田川紫、通称ワカに答えを差し出す。

「当時4歳の娘さんがプーさん大好きでキーケースにストラップつけてたからプー。本名内藤聡」

「つまりチエさんはプーだった……?」

「どうしてそうなる」

「今思い出したけどさ、聡ってあれだろ、賢いとかさといって意味のやつ」

「そうだな?」

「そのチエさんとやらもそういう意味の字で、だから勝手に心ん中でチエって仮称つけてたんだけど」

「待て、それだと前提がズレるしお前の中だけで通じる仮称を人に聞くな。分かるわけないだろそんなん」

「まあ分かったっつわれたらケイはエスパーだったって情報が俺ん中に追加されてたな」

 ちゃんと半分本気で聞いた、と両手を上げ降参のポーズをするワカに恵は頭が痛くなる。つまり半分は冗談だったってことだろうが。思い出すことに労力なんてものはないが、酷く疲れた気分だ。といっても忘れることのない恵には思い出すという感覚もいまいちピンと来ないけれど。だがおかげで妙なもやもやも多少晴れた気はする。たぶん。

「あ、そういやケイと違ってちゃんとケイって読める名前もあるよな」

「喧嘩なら言い値で買い取ってくれ」

「そこはお前が買うとこだろ、なんで人に買わせようとしてんだ」

「お前が売ってきたんだからお前が引き取るのが道理だろ」

「なるほど一理ある」

 大真面目に頷くワカに、恵はもはや何も言うまいと沈黙を貫く。

「ほら、これとかさ。慧眼のケイ。人名ならケイ以外にどう読むんだってやつ」

「わざわざ調べてくれてありがとな、…………?」

「どした? 名前コンプ爆発しちゃった?」

「してねぇしコンプっつうほどでもないわ。いや、何か既視感があるなと」

「じゃあそのケイさん、あ、ちゃんとした方のケイさんな、その人がお前の忘れもんなんじゃね?」

「ちゃんとしてない方のケイで悪かったな。だいたいケイなんて他にも字はあるだろ。玉器の圭とか敬いの敬とかよろこびの慶とか」

「よっ、生きる辞書! ちなみにそれらの文字に既視感あんの?」

「…………ない、な」

「ほらやっぱり。ゆかりくん大勝利!」

「勝ち誇った顔すんなむかつく」

 結局この日は始終駄弁って解散した。最終的にはワカの欲望が駄々洩れになっていて、恵はこいつ通報した方がいいかな、と半ば本気で考えてしまったくらいだ。

 以下、件の欲望丸出しの会話がこれだ。



「最近のブームが職場近くにあるカフェなんだけどさ、そこにいい雰囲気の店員と客がいんだよね。大学生と高校生くらいの。ああいうのマジにリアルであんだなって驚いたわ」


「そこのカフェ、常連客ぽい中性的な二人連れもいてさ。なんかもう傍から見ても甘酸っぱいっつうの? 少女漫画ってああいう感じなんかな」


「あー、あとさ。電車ん中で小動物みのある子と包容力抜群の女子高生くらいの子らいてさ。あまりの仲睦まじさにうっかり新しい扉を開きそうになったわ。マジでやばい」



 やばいのはお前の頭だ、と口から出そうになった言葉はなんとか飲み込んだ。

 恵はワカの恋人に本当にこいつでいいのかと肩を揺さぶりたくなったし、一方で頼むからこいつをちゃんと捕まえておいて欲しいとも思った。両者を天秤にかけた末、さすがに中学から付き合いのある友人が……なんてことは想像もしたくないため後者が余裕で勝った。恵としては生贄を差し出した気分だ。恋人同士で生贄も何もないが。

 結局恵は、どうしてワカが絶望的でチエさんとやらを連想したのか聞くことはなかった。常ならばありえないことだ。ワカが触れなかったことも含めて、本来ならばありえないはずのことだった。



◆◆◆◆◆



「どうして覚えてないの、なんて。恵は本当に変わらないね」

 別に思い出さなくていいし、忘れたままでいいのに。それを嬉しく思ってしまう自分には気づかないふりをして、慧はひとりごちる。第一恵から記憶を奪った慧が言えることでもないのだ。

「いつかまた、なんてことは叶わないんだろうけど。願いは自由だ。祈りは無意味だ」

 恵の言葉をなぞるように自らに言い聞かせる。

 願いは自由で、祈りは無意味で。今の慧を支える、今の恵は知らない言葉。


「だから、またいつか。あの頃のように話をしようね。恵」

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