26 及川 浬


どのくらい、草原に立っていただろう?


... “美しくあろう?”


界の番人だという 花魁おいらんか何かのように派手な着物を着たひとは、ふちの赤い切れ長の眼を流して

... “此処ここは、月にあるところよ。

しばし 安らぐが良い” と、霞のように消えてしまった。


仕事の休憩中、いつも見上げていた月に、こんな場所があったのか...

幼い頃は、実家のバルコニーから、父や母とも見上げた。


小学生の時には 天体望遠鏡を買ってもらって、嬉しくて毎晩 覗いていた。

シリウスや金星は 上手く見れなかったけど、土星の輪や月は綺麗に見えて、わぁ... と、本気で感動した。

月の海と呼ばれる模様まで見たことがあるけど、この草原は見えなかった。


きっと、あっち側に居たから見えなかったんだろうな。

生きていられていたから。


凪いだ草原の草の先が揺れているのは、風なんだろうか?

俺の身体がもう、それを感じないだけなんだろうか?

それとも、日差しに輝くために草自身が揺れているのか...


美しい草原を眺めていて、ひとつ気付いた事がある。

あの廃病院に居る間、俺は、聞いたり その単語の文字を見た事がある “地縛霊” ではなくて、“自縛霊” だった。

亡くなった後も 別の何かに捕まったりして、地縛霊になってしまう人も居るんだろう。

でも俺は、自分で自分を縛ってたんだ。

そしてそれは、あの時だけじゃなかった。

生きていられた間にも 幾度もあった。

つまらないこだわりや意地を手放していれば、もっとずっとラクだった... ってことが。


でも、それも もういい。

それだって、生きることだったから。

格好良くなかったけど、それで良かったんだ。

俺は、しあわせだった。


苦しい時は、わからないよな。

それでも、“生きてるだけで” って言葉は、真実ほんとうなんだ。

自分の境遇や中の世界と、外の現実の世界との折り合いは、いつか必ずつく。


ふと、向こうにある 大木と、その先の蒼白い星々の河が気になって、柔らかな日差しに揺れる草の上を歩く。

大木の近くには、光を纏っている人が居た。


「及川 浬」


子供の時に 神話の絵本で見たような 白い衣類を着て、幾重にも重ねた翡翠の細い首飾りをした人は、両手を両袖の中に組んで、長く 少しくせのある黒髪を高い位置で ひとつにくくっている。


凛々しく黒い眉に、奥二重の眼。

日本人?にしては 高く、すっとした鼻梁に、きりっと引き締まった唇。

こんな美形、間近で見たことがない。

妖しい色香のようなものにも押されて

「はい」とだけ答えた。


「落ち着いたようだな。

ここは月の宮であり、お前のような死人が 一時 安らぐための処だ」


月の宮...

月夜見大神つきよみのおおかみ” と、聞いた気がする。

本当に 神様なのか...


「この後、往くべき それぞれの界へと移る」


“いくべき” という言葉のニュアンスが、行く でも 逝く でもない気がしたのは、転生することがあるためのようだ。


俺はまだ、転生したくない。

出来るなら、父さんや母さんを見守りたい。

もし、つらい思いをしている時があったら、“大丈夫だよ” って言ってあげたいんだ。声が届かなくても。

遠く遠くであって欲しい いつか... 再会する時まで。


言いたくても、目の前に立つ神様に言えずにいると、見透かされたように

「只 転生することなど無い。

罪の対価を払う者や罰を受ける者もあれば、償う者もある」と言われて、あぁ... と思った。


父さんや母さんを見守ることは、出来ないのかもしれない。

俺は、無関係の今田や原沢と、その彼氏達にまで 八つ当たりをした。

どこかで、今田じゃないんじゃないか? と掠める度に、打ち消してたんだ。

今田と思っていた奴に呼ばれて、廃病院へ行ったから。


誰かを怨んでいないといられなくて、“俺と同じになればいい” としか考えていなかった。

そうしたら、あんな理不尽な思いをしたのは俺だけじゃなくなるし、独りでもなくなる。

だからって何も変わらない... ということからは、目を背けていた。


それに、あの時に繋がれるのは、今田達しかいなかった。

きっかけは 今田のスマホだったけど、もし 今田や原沢が、二人の彼氏が、他人ひとの心に疎かったらなら、俺の影響は受けなかったんじゃないか?... とも思う。

俺の呼び掛けを受け取ることはなかった... というか。

他人ひとに無関心じゃなくて、優しい人達だったから、俺と繋がれてしまったのだろう。


今田達は、また こんな事に巻き込まれる事は無いんだろうか?

巻き込んだくせに心配になった。

そして俺は、どんな罰を受けるのだろう?


「すぐに転生する者など、罪無きまま幼くして亡くなった者や、野の者等くらいのものだ」


黒く美しい睫毛に縁取られた 奥二重の眼に捕われた。

そうだ。小さな子や、野の者... 動物達だって...


そういうニュースを知る度に、何で こんなに酷いことが起こるんだ... と憤って、その原因が事故でない時なら、原因となった奴を憎む程の気持ちを抱いていた。

そういう奴には、そういう念が押し寄せている事だろう。

なのに、俺はまた自分の心配を...


どんな罰でも受けなければならない。

今田達に受けて取ってもらったのだから。


「しかし お前は、善良な者だ」


奥二重の黒い瞳に捕われたまま、視界が ぼやけて 涙が溢れた。

眼や鼻の奥は、胸には、まだ こんな感覚が残されていたんだ... と、ぼんやりと思う。

俺が、善良 だって?


口を開けない俺に、月夜見大神は きりりとした唇の端を少し上げて頷いた。


「両親や 親しき者に、別れを告げて参るがよい」


上手く頷けたかどうかも わからない。

善良だ なんて...

こんなに嬉しかった事があっただろうか?


「柚葉」


月夜見大神が 誰かを呼ぶと

「はい」と、おかっぱの女の子が現れた。

女の子 といっても、中学生か高校生くらいに見える。

その子は、薄いピンクのニットの下に抹茶色のヒダスカートを穿き、チョコレート色のブーツを履いていて、この草原や大神、あの界の番人とは違う雰囲気を醸し出していた。


「この娘も お前の様に、他者に命を摘まれた者だ」


またショックを受けた。

まだ、中学生か高校生くらいだろう?

俺より ずっと...  これからだって歳に...


女の子... 柚葉ちゃんは、それなのに 俺を

「つらかった ですよね?」と、労ってくれた。

首を傾げていて、おかっぱの髪の毛先が揺れている。


どんな奴が この子を殺ったんだ?

あの時、廃病院で湧き出していたものの感覚が 腹の底に甦った時、柚葉ちゃんは

「はい」と、俺に手を差し出した。


えっ?... と 固まって、大神に顔を向けると、頷かれてしまって、差し出された手に そろそろと手を載せる。

成人が触れては ダメなんじゃないだろうか?

何か嫌だな...  すごく悪い気がする。


でも、差し出された手に載せた手は、柚葉ちゃんの もう片方の手に挟まれて

「こういう時は、こうするんです」と 大きな眼で見上げられて言われた。

挟まれた 俺の手から、闇のような黒い靄が立ち昇ったかと思うと、それが 大神の足下に引き寄せられて消えていく。


腹の底に湧き出したものが消えている...

この子は、こういう事が出来る子なんだ...


「では、行きましょうか?」


柚葉ちゃんが、おかっぱの毛先を揺らして言った。

手を繋いだままなのが気になるが

「最初は、迷ってしまうかもしれないから」と 逆に気を使われてしまって、ごめん と謝りたくなる。


「ここから入りますよ」


連れて来られたのは、蒼白い星々の河の淵だった。


「あの、扉から とかじゃないの?」と 聞くと

「界の扉は、界を跨ぐ時だけなんです。

あなたは もう、こちら側の住人ですから。

間違って入ってしまった方は、あの橋を渡って 現世うつしよに戻るんです」と 教えてくれた。

柚葉ちゃんが指差した方向には、神社で見るような 山なりになった橋が架かっている。


そして 月の宮ここや、現世ではない界は

幽世かくりよと呼ばれます。その方が生きた場所や文化、宗教によっても 呼び名は変わりますが、ここは日本だから」という事らしい。


「会いたい人を、思い描いてください」


そう言って、柚葉ちゃんは 俺の手を引いたまま、蒼い星々の河へ足を踏み出した。

あ、歩けるのか?... と思ったのは間違いで、星々の中に浮かび落ちていく。

何て場所なんだろう... 望遠鏡で覗いた夜空とも、動画やテレビで観た宇宙空間とも違う。

生命そのものの中に居るような気がした。


うっかり見惚れてしまっていたけど、そうだ... と思い出して、父さんや母さんの事を思った。

すると、星々の下に実家の屋根が見えてきて、柚葉ちゃんと 一緒に、二階のバルコニーへ降り立った。

勝手に夜だと思っていたのに、昼間だ。


「じゃあ、心ゆくまで、パパやママと過ごされてください。

月夜見さまの元へ戻ろうと思ったら、私を呼んでくださいね」


柚葉ちゃんは 俺の手を離すと、バルコニーから ふわりと浮いて消えてしまった。


改めて、二年前に帰った時と変らない バルコニーの中を見た。

バルコニーの すぐ中は、四畳くらいの何もない場所になっていて、向かいには 一階へ降りる階段、右手には俺の部屋、左手には父さん達の寝室がある。


... こんな形で、帰って来る事になってしまった。


窓を開けようとすると、手が 窓の向こうに入ってしまい、ギョッとした。

廃病院の医者は、ドアも壁も通り抜けられる奴は、もう自分が何者だったかも覚えていない... と言っていた。

だがすぐに、あ... と 思い当たった。

俺は もう、現世の人間... というか霊じゃないんだった。

きっと、現世に居たまま迷ってしまうと、自分が誰だったかも忘れてしまうんだ。


何も無い場所を通り抜けて、階段を降りる。

父さんも母さんも仕事なんじゃないか? と思ったけど、リビングと続きになっている座敷からは 声がした。


『... そうですか、高校の時の。

あの子も喜んでいると思います』


母さんの声だ...

誰かに挨拶をしている。


リビングのドアを通過して入ると、続きの座敷には、奥に置かれて 白い布が掛けられたテーブルの上に、俺の遺影と位牌があって、たくさんの花や供え物があった。

もう、葬儀や納骨は終わった後みたいだ。


座敷に居たのは、父さんや母さんと、今田達だった。

来てくれたのか...

皆、線香をあげて、手を合わせてくれている。

祈りは そのまま、胸の中に伝わってきた。

俺を思ってくれている。


... “私ね”


今田の声だ。


... “病院を抜け出して、怒られちゃったんだよ。

でも、私の顔を見た お医者さんは、大丈夫だって診断したみたい。

及川くんも もう、大丈夫だよね?”


... “あのスマホなんだけど”


原沢の声。


... “私たち、持っておくことにしたの。

寂しくなったら、またメッセージを入れてね”


頬が濡れる。また泣いていた。

... “もうビビらすのは やめてくれよ。

俺、実はビビリだからさ。

でも たまになら、遊びに来いよ” という 原沢の彼氏や

... “時々 麻衣花と お邪魔するよ。

及川くんに祈るためと、お父さんと お母さんの顔を見にね” という 今田の彼氏の心にも感謝した。


インターフォンが鳴って

『こんにちは』

『お葬式の時、泣いてばっかりで、及川と話せなかったんで... 』と、すっかり疎遠になっていた奴等も来てくれた。


『おじさん、おばさん』

『すみません、今日も... 』と入って来たのは、滝川と畠山だ...

小学校から ずっと仲が良かった奴等だった。

しばらく、飲んでなかったよな...


『まぁ... 毎日、本当に嬉しいわ』


母さんが喜んでくれていて、父さんも

『浬、良かったなぁ』と、俺の遺影に言っている。子供の頃の俺に言うような優しい口調で。

頷くと、また涙が溢れた。

父さんと母さんの顔は、まだ直視 出来ないでいるのに。




********




『浬... 』


入れ代わり立ち代わりに来てくれた皆が帰った時は、もう夜になっていた。


リビングで お茶を飲んで休憩していた 父さんと母さんは、また座敷に戻って、俺の遺影の前に座っている。


『つらかったなぁ... 』


父さんが呟くと、母さんが泣いた。

つらかった。俺も、父さんも母さんも。

もう、涙が枯れるほど泣かせてしまった事もわかる。


『お前は、俺と母さんの大切な息子なんだよ。

これからも ずっと』


父さんが指で目頭を押さえた。

泣いているところなんか、初めて見る。

母さんが『かいり... 』と、肩を震わす事にも堪えきれず、後ろに座って、二人の肩を抱いた。


... 「父さんと母さんの子で良かった。

本当に良かった。

照れ臭くて 言った事はなかったけど、父さんと母さんが 大好きだよ」...


どうか、伝わりますように。

思いを込めて、口に出して言うと

父さんと母さんが顔を上げた。


『浬... ?』と、二人か振り返って、目が合った。

見えてるんだ...


さっき言ったばかりの事が、照れ臭くて笑ってしまう。

父さんと母さんは、ぼんやりと俺を見ていて、子供の俺が こんなふうに感じるのは おかしいけど、子供みたいな表情かおをしている。


決めた。俺は、父さんや母さんを見守る。

そのために、罪を償う。こうして泣かせた罪も。


... 「もう、往くよ。俺は、大丈夫だよ」...


二人の肩を 二回ずつ ぽんぽんと叩くと、バルコニーへ移動して、柚葉ちゃんを呼ぶ。

これ以上 泣かせたくない。

早く早く罪を償って、盆には また帰れるようにするんだ。




********




「戻ったか」


「はい!」


月夜見大神に頭を下げる。

柚葉ちゃんにも、送り迎えをしてくれた事に お礼を言った。


次に往くのは どこなんだろう?

まず、地獄で焼かれたりするんだろうか?

怖いけど頑張ろう。どうせもう死んでるんだ。

とにかく早く移動がしたかった。


月夜見大神を どう呼んでいいのか迷って、結局

「大神様」と呼びかけた。

柚葉ちゃんのように、“月夜見様” と名前を呼ぶのは気が引けた。神様だし、お会いしたばかりだ。


「何だ?」


「俺... いえ、私は、両親を見守る事が出来るよう、罪を償いたいのです」


「うむ」


大神は、頷いただけだった。

でも俺を見つめていて、“次は どこの界に”... とは、聞きにくい雰囲気だ。


緊張しながら待っていると

「その事だが... 」と、大神は 袖の中に組んでいた右手を出して、俺の額に触れた。

何だろう... ?


「ここで償え」


ここで? よくわからずに、大神の眼を見ると

「柚葉がしておるように、常夜とこよるの闇を抜いて参れ」と言われて、ますます わからなくなった。

とこよるの闇って、柚葉ちゃんが抜いてくれた あの闇色の靄なんだろうか?


「各界... お前であれば、本来 仏界へ赴き、仏弟子となるのだ。

修行を続け、成仏ならねば、六道りくどういずれかに輪廻転生する事となる」


実家に仏壇があるから、仏教だからか?

大神の話を聞いていても、“本当なら仏界にいく” というところしか分からないが

「はい」と 頷く。


「しかし 修行の身となれば、菩薩に成らねば衆生を救う事はならず、両親を見守る事が叶おうと、それは定められた時期にもより、ある 一定のものともなる」


修行中は 好きな時に見守れない って事だろうか?


「だが、お前は神道を信仰しておる事にもなるのだ。我が国の者であるからな」


そうだったのか... 初詣や高校入試前の合格祈願で、神社に お詣りした事はあるけど、神道を信仰しているという意識は無かった。

大神に じっと見つめられたので、つい

「すみません」と謝ったが。


「俺の下で 罪の償いに働くのならば、その河より

いつでも見守れよう。

いつの日か時が満ち、お前の両親が ここへ参った時に、共に仏界へ向かうが良い」


大神の眼を見直す。

そんなことが、許されるんだろうか... ?

だって、俺は 今田達に...


「もう、許されておろうよ。

また 生者等が、お前の為に祈った事により、お前は禊がれたのだ」


じゃあ、俺は本当に ここに留まる事が許されるのか?

父さんと母さんや、今田達、滝川達、同級生だった皆が 祈ってくれたおかげで、父さん達を見守る事が...


「私や 浬さんのように 何人かの方々は、月夜見さまのもとに 残っておられますよ。

みんな、怨恨や怒りの念を 常夜に送ってます。

月夜見さまは、常夜のあるじでもあられるので」


出されていた手を 白い袖の中に戻して組んだ 大神は、柚葉ちゃんに

「なかなか しっかりと話せるようになったものよのう」と 感心されて、俺に向き直られた。


「柚葉は 殆どのところ 月の宮ここに居り、ミシンで衣類を作っておるのが常であるが、お前が仕事に慣れるまでは、お前につける事とする。

闇を抱く者を探し、手を握るがよい。

さすれば闇を感得して抜く事が出来、闇は常夜へ向かう」


大神の説明を聞きながら、ここに居て父さん達を見守れる という事に、また胸を熱くしていた。


大神に

「はい。しっかりと頑張ります!

ありがとうございます!」と答えると、大神は

「良い」と答えられ

「では、早速 探して抜いて参れ。幾らでも涌きでる」と、顎先で 蒼白の河を示された。


「はい!」と 一礼して走ると

「あっ、浬さん!」と、柚葉ちゃんも走ってきている。


許してもらえた分、祈ってもらった分... いや、それ以上に あの冥い闇を抜く。

くらいものを抱いた誰かが また前を向いて、今度は誰かの救いになれるように。


柚葉ちゃん、足、遅いなぁ...

待っていられず、蒼白の河へ飛び込むと

「もう!」と 飛び込んできた 柚葉ちゃんに、バチンと叩くように手を取られて

「ちょっとハリキリすぎですよ!」と怒られた。


「ごめん」


蒼白の生命の河を浮かび落ちながら、そうだな、最初から張り切り過ぎだ... と 素直に謝って

「誰も、ひとりで頑張らなくて いいんだよね」と言うと

「そうです。だから 浬さんも、走らず歩いてくださいね」と、柚葉ちゃんが笑った。






********        「縁」了

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

桐崎浪漫 @roman2678

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ