2.


 《無感情の神》であるメノーが祝福を与えたことは驚きだった。子どもは祝福を与えられた神殿で育つ──世捨て人たちはほとんど知識のないまま、毀れやすい生き物の面倒を見なければならなくなった。


 灰色の神殿テムナイ・メヴィルの生活は質素だ。井戸水と硬い岩喰いアディシムの肉や野鳥の卵、歩いて四刻ほど離れた場所にある畑でなんとか育ったしなびた果実タラテク痩せた穀物レㇴクィドが主な食料だ。一番近くの町は歩いて五日の距離にあり、ほとんど足を運ぶことはない。

 しかし子どもにそんな生活は酷だろう──そもそもここは終わりの場所なのだから──ということで、神官長ラシエンが町へ繰り出す頻度は少し高まり、栄養のあるパンや瑞々しい果物、薬や肌を乾燥から守る油などが常備されるようになった。それなりの金が必要になったが、そのへんに転がっている岩喰いアディシムの角が思いのほか高値で売れたので、馬を買って行き来がしやすいようにした。


 ここで暮らす者は十九人だったが、子どもに関与しているのは教育している神官長を合わせて五人だった。



 神官長ラシエンは(何しろ自分の蒔いた種なので)できるだけ子どもの身の回りの世話をしていたが、当然教育した経験などなかったため、ある程度大きくなるまでは教育者シャティヤをしていたソルハが結構な時間を子どもと過ごしていた。子どもが歩けるようになると、勝手に神殿を出て行かれてはたまらないので、岩喰いアディシムの角の欠片で作ったビーズの首飾りをつけさせた。岩喰いアディシムの角同士がぶつかるとカラコロと澄んだ音を立てるので、子どもが動けばすぐに分かる。


 食事のわびしさについては少しだけ改善された。土の神殿出身のディハキムが──相当な高齢でほとんど出歩くこともままならないが──自分は少し多めに祝福を受けているから、作物をある程度豊かにすることができる、と言い出したのだ。身体の大きいソルハが四刻の道のりを背負って畑に連れて行ったところ(後に馬が使われるようになったが)、確かに果物は少し瑞々しく、穀物はややふっくらと育つようになった。彼を畑まで連れて行く労力に見合っているか、判断が難しいところだったが、老人が満足げなので誰も止めなかった。


 元軍人のバルバスは──熾火バルバスという名前に対し、ほっそりしたとても静かな人物だったが──狩や護身の技を教えた。狩といっても、ここでは塩鷲グヴァルマクという小型の猛禽類か乾いた蜥蜴ユロフがせいぜいで、絶対に岩喰いアディシムを傷つけるなと言い含められていた。岩喰いアディシムを食べるのは自然死したものを見つけた時だけで、それでも一頭分の保存肉は三ヶ月分の食糧になる(もっとも、灰色の神殿テムナイ・メヴィルの神官たちはあまり食事を取らないためそこまで持つのだが)。日が長くなる西風節ラヴェンカになると、岩喰いアディシムの毛はごっそり抜けるようになるので、それを集めて洗い、紡ぎ、衣服や敷物に織り上げる。


 他の者は子どもが生まれる前と同じく、それぞれの世界に入り浸っていた。特に文句も言わず、岩喰いアディシムの肉の柔らかい部分や、萎びた果実のあまり萎びていないもの、大きくて綺麗な塩の塊などがあると、思い出したようにそっと子どもに分け与えた。緩やかな加護の下、子どもはつやつやと育っていった。


 白い髪のニスミレによって、子どもはラルラーと名付けられた。誰もそんな名前を聞いたことはなく、「私は問うラルロー」とも似た響きは奇妙に感じられたが、ニスミレの決めたことなので誰も反対はしなかった。


 当然、ある程度大きくれば子どもがここを出ていくことは決まっていた。灰色の神殿テムナイ・メヴィルは何者でもない者たちの場所で、子どもや若者の場所ではなかった。




 歳月は流れ、ラルラーはもうすぐ十三歳になる。

 《灰色の神》メノーに祝福されたので、彼は明るい灰色の髪を持っていた(もっとも、この神殿に来る者のほとんどはある程度老いて色を失い、たいてい灰色がかった髪をしていた)。そして、暗い灰色の中に晴天の青や夕暮れの橙色の光を宿す美しい眸を持っていた。


 ラルラーは神殿の見える範囲ならある程度自由に出歩くことを許されていた。わびしい荒野ダーレンには彼を襲う動物も人もいないからだ。

 彼は岩の上に座って『《記憶と歴史の神》オリーデルによる創世記』を開いた。これは近くの町の蚤の市で売っていた子ども向けの物語で、とても古く傷んでおり、ページが取れて三分の一ほどしか残っていない……だから廉価で買うことができたのだが。灰色の神殿テムナイ・メヴィルの人々はとにかく無口なので、ソルハはラルラーの言葉や語彙について心配していた。ソルハは彼に本を音読させ、小さな石灰岩で黒い岩に書き取りや計算をさせていた──ここを出て行く時に大きな武器になるのだという。


 ソルハが彼にこの本を与えたのは神称、つまり神について語る時の文法を学ばせるためだった(※1)。教育者シャティヤによると、高位の神官でもない限り、最近の人々は神称を正しく使いこなせなくなっているが、一応知っているに越したことはない、とのことだった。

 神称の言い回しが独特で面白かったため、ラルラーはこの本がお気に入りで、文字を教えられてから繰り返し読んでいた。今日も彼は小さな声で、もうすっかり暗記してしまっている内容を読み上げた。



**********


 【至高の神々デュメリオ・エシル】──つまり《隙間》ウル、《事実》ヘメリヤ、《明暗》フィオス、《引力》ギニーシャ、《調和》スーラによって世界は保たれている。


 神々の誕生について、なべてを書き記す《事実》ヘメリヤは口を閉ざしており、人が知ることはできない。ただ、ウルが己の中に《隙間》を創り、それがこの世界となったと言われている。ウルの仕事はそれで終わった。

 ギニーシャはひと所に重さを集め、その場所は大きな球となった。これはいま人々が暮らしている場所ウルザである。

 双身の《明暗》フィオスは光と闇を創った。そしてこの神の中から無数の色が産まれた。

 《調和》スーラは二つの神、ケルマとヤツェンを呼び、大いなる規則を創った。ケルマは巨大な燃える火球、太陽を創り世界を照らした。ヤツェンも同じことをしようとしたが、光は途中で砕けてしまったので、小さな無数の光で世界を包んだ。一番大きなかけらは月となった。こうして《昼》と《夜》ができた。




 【自然の神々デュメリオ・フラセル】──つまり《熱》ゴラ、《地》ムルトカ、《海》シエトゥ、《天》ローオルはギーニシャによりひと所に集められた。もっとも重いゴラが中心にあり、ムルトカがそれを包み、シエトゥがそれを覆い、ローオルがその上を漂っていた。

 ゴラは強大な力を持つ神だったので、すぐにムルトカを突き破り、シエトゥの半分を蒸発させた。ムルトカはゴラをなだめながら世界の半分を埋め、残りをシエトゥが満たした。ローオルは蒸気を冷やしたが、抱えきれずに時おり溢した。

 神たちは世界の中に広げ、大地や天空、海洋となった。ムルトカとシエトゥは自らを削り出し数多の生物を産んだ。大地には木々や草花が生い茂って語り合い、顔を持つ獣が繁殖し、海では尾を持つものたちが踊った。ローオルはあまり創造が得意ではなかったので、二つの神が創った者の一部を分けてもらい、翼を持つものたちが生まれた。ゴラは力が強すぎたので破壊しか出来なかった。かの神はおとなしくするように努めたが、たまに暴れて大地や海洋を荒らし三神に叱られた。

 スーラはこの神々にも秩序を求めた。彼らは季節を創ったが、あまりその規則を守らなかった。



 【知恵の神々デュメリオ・ナトゥセル】も何か面白いものを創ろうと考え、【自然の神々デュメリオ・フラセル】からいくつかの生き物を借りた。獣たち──野に暮らす牛や羊、洞窟の獅子、地を這う蛇や地虫、水に暮らす魚や森で囀る鳥──に知性はなく、ただ繁殖して増え続けるばかりだった。ヴェレンシュ人魚レイシェトゥなどは神々の教えを受け入れたが、祝福を拒否した。

 やがて神々はその行いに飽きて、残りものを《狭間》に捨てた。それらはがらんどうの器アヌハイだった。


 【力の神々デュメリオ・ラフセル】──つまり《火》ガドン、《土》エウマ、《水》ネヘム、《風》ラトゥーは《狭間》に降り、その器に自らの力を吹きこんだ。それがアンヘリとなった。

 人はがらんどうアヌハイだったので、何でも入れることができた。【知恵の神々デュメリオ・ナトゥセル】はそれが気に入って、彼らに知識や技術を教えた。こうして彼らは繁栄していくことになる。


 人はがらんどうアヌハイの中でオシャを育む。それを別のオシャと合わせることで新しい器ができる。神々はその器を祝福し、新たな人が生まれる。



 神々の祝福は気まぐれで、人間たちの力には違いがあった。

 神々を恨んだ人間たちは、別のなにかを崇拝するようになった。


───《記憶と歴史の神》オリーデルによる創世記 「人の誕生」



**********



 ラルラーは上衣をめくり、自分の腹の真ん中に手を当てたが、そこにはまだ薄い溝があるだけで、オシャが育つのはこれからだ。


「やめなさい──お前はまだ熟していないし、そう無闇に触るような場所でもない」


 顔を上げると、いつの間にかラシエンが近くに来ていた。


オシャを取り出すのは痛い?」

「やり方によっては──誰がそんなことを?」

「ソルハ」

「余計な話を……」


 神官長のラシエンは、二人きりの時は敬語をやめることを許していた。そしてラルラーをしばしば町へ連れて行き、人々を観察させたり、簡単な買い物をさせたりした。人口の多い場所に行く時は必ず大きな頭巾をかぶせ「決して外してはいけない、お前の目は珍しいのだから」と言った。ラルラーは──初めて鏡をもらって自分の目を見た時、一日中その眸の中の光を眺めて過ごしてしまったのだが──他所の人々もこれを美しいと思うのだ、ということを知った。


「私の時は痛かった?」

「それほどは。私はすでに若くなかったから」


 ラルラーは自分の器を作った片割れがラシエンであることを知っていた。一般的な神殿は──と、ソルハが言っていたが──十分に成熟した大人が オシャを結びつけることを推奨しており、一生のうちに五、六回行うのが望ましいとされている。神の祝福が毎回上手くいくわけではないし、無事に大人になれるとも限らないので、とりあえず生まれる数は多い方が良い。神殿は権力と結びついている──権力者たちは自分の生まれた神殿を贔屓する傾向があるので、大きな都市にはオシャを結ぶと金銭や食物、土地などを与える神殿もあるらしい。つまり神殿の人材は多いに越したことはないというわけだ。

 神官や教育者でもない限り、自分の結んだオシャがどう成長するか知ることはない。人が作るのはがらんどうの器アヌハイであって、それに能力や特性を与えるのは祝福する神だ。外見が似通うことはあるが、中身は全く別物の他者である。というわけで、オシャを結んだ後、人々は軍人なりパン屋なり、自分の生活を続ける。

 ラルラーはたまに、鏡の中の自分とラシエンの顔を見比べるが、目も鼻の形も口元もそれほど似ていないような気がする。《無の神》の祝福のせいか、他の神官たちと比べても自分の顔立ちはなんとなくぼんやりしているように思う。ソルハにそう言うと「あなたがまだ子どもだからです」と一蹴されてしまったが。

 ラシエンはラルラーの隣に腰かけた。彼はそれほどおしゃべりな人物ではないので、これは珍しい。


「お前が祝福された日の朝、私は夢を見た」


 ラルラーは首を傾げ、続きを待った。


私は砂浜をチタコーシャ・歩いていたコン・ハレール

砂浜をハレール?」

砂浜ハラーシエトゥ大地ムルトカの間にある砂たちエスティオ


 街に行った時に海と砂浜の絵を見たことはあったが、いまいちぴんと来なかったため、ラルラーはとりあえず相槌を打った。


「うん」

「だが、そこに海はなかった」

海のない砂浜ハラー・ノエセ・シエテル

「そうだ。空は晴れていたが、太陽も月もなかった。歩くうちに砂は土へと変わり、私は折れた角を見つけた。触れようとすると、それはぼろぼろと崩れ土塊となり、その中から塩の結晶を見つけた──それはお前の目のような、暗く輝く灰色をしていた。

 やがて暗い雲がやってきたが、一本の雷がそれを追い払った」

雷が雲を追い払ったシダン・ダルキューチ・アナン・ヴェクィ……」


 ラシエンはそこで我に返った。


「まあ、夢の神ヴァラーの気まぐれに過ぎない」

「続きは?」

「……そのうちに。メノーがお前を祝福したのも、なにか意味があるのかもしれないし、ないのかもしれない──そろそろニスミレを散歩に連れて行きなさい」



 ニスミレはいわゆる《神の気まぐれ》だった。生まれる時にあまりに多くの祝福を受けた時、器となる身体が耐えきれずにこわれてしまうことがある。その毀れた人のことを《神の気まぐれ》と呼ぶ。

 彼は目も見えず耳も聞こえないし、喋ることもできない。だが、物にぶつかることなく歩き、非常に美しい字を書くし、指で色んな象形かたちを作ったり肌を叩いたりする言葉で意思疎通をする──その手振りはニスミレが編み出したのか、どこでも通じる言語なのか誰も分からなかったが。手で触れられない時、彼は喉からコココという音を出して反応する。

 ……さらに言えば、彼がなぜ灰色の神殿テムナイ・メヴィルにいるのか誰も知らなかった。彼は誰よりも長くここにいるが、彼はがらんどうの器アヌハイに還ることなど考えてもいないように見えた。彼は風の中で踊り、鳥を愛で、岩喰いアディシムの折れた角を大切に集め、数週間ふらりといなくなっては羊皮紙とインクを持って帰り、長いこと何かを書き綴った。灰色の神殿テムナイ・メヴィルではお互いに干渉しない──だから、誰も彼が何を書いているか知らなかった。


 正午から三刻ほどの時間に、ニスミレを散歩に連れ出すのがラルラーの役目だった。




●注

*1:いわゆる人称変化の話で、例えば三人称単数「彼は行くナコフ」は三神称単数「その神は行くナホヴ」になる。上手く日本語訳に反映できず模索中。

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