灰色の書
f
1.
ラシエンは、雨の降りそうな黄色みを帯びた空を眺めていた。
ここは《
もし誰かがここを通り過ぎたとしても、ラシエンには気づかなかったかもしれない──金色だった彼の髪の毛は褪せ、生まれつき
ラシエンは
この神殿で暮らす者たちは馴れ合うことをせず、お互いに敬語を使う。新しく人がやって来るのは五、六年に一度、旅人もほとんど訪れない。
ラシエンは荒野で瞑想をするのを好んでいた。風は肌を切るように鋭いが、彼はもともと
だが、今日彼が荒野に来たのは、妙な夢を見たためだった。《夢の神》ヴァラーは気まぐれで、その内容のほとんどはからかいにすぎないが、時おり何かを予期させるような幻を見せる。
ラシエンは岩のひとつに腰かけて待っていた。それから、待っているだけでは駄目だということに思い至った。
彼は立ち上がり、西へ進んだ。ところどころに転がる岩がなければ、自分が動いているか分からないほど殺風景な土地。ざらつく大地を踏みながら、彼は口ずさんだ。
東風とともに お前はやってきた
(Dj'turelch't oés Láer Argók)
大地は目覚め 花々は咲き乱れた
(Múrhtka novarch'f ó Innerío imnüch')
月の秘密を お前は学んだ
(Dj'natuselch't séa Megáer Yerok)
星が落ち 花々は燃えた
(Nayra demnch'f ó Innerío tav'rüch')
輝く灰の上で お前は眠った……
(Dj'vrölch't h'és Mévwi fikee)
やがて、彼は瀕死の人に出会った。
その人の髪は黒く、身体はあまり大きくなかった。
その人は大地に仰向けに倒れ、目は固く閉じられていた。その胸は陥没し、流れる血が大地のひび割れに吸いとられている。
おそらく
ラシエンはかがみこんで話しかけた。
「
「
その人は
「
「……
ラシエンは念のため、その人の衣装を開いたが、もう手の施しようもなかった。折れた肋骨が肉を突き破って内臓に刺さっているのがはっきりと分かった。
彼はいくらか血を吐いて、死んだ。
ラシエンは流れる血がその人の肌を伝うのを眺めた。
流れる血が腹の真ん中ある溝に溜まりかけた時、その裂け目がぱっくりと開いた。
腹の中心の溝。そこでは
人が死ぬ時に溝が開くという話は聞いたことがあったが、実際に目にするのは初めてだった。遺された
ふと、ラシエンは自分の腹に手を当てた。ラシエンも何度か
今、ラシエンの
神殿といえば、本来は子どもを育む場だ。
どの町にも
子どもは神殿で育てられ、ある程度大きくなるとそれぞれに合った場所で修行をする──職人に弟子入りする者、軍に入る者、
だが、
ラシエンは──知ったところで何も変わらないと知りながら──この人がどこからやって来たか分かるものはないか革袋を探ろうとして、彼が何かを下敷きにしていることに気づいた。
引き抜いてみると、それは一エソフ(約三十六センチ)ほどの角杯か角笛のように見えた。本物の角でできているのか、金属か──あるいは、強い土の祝福が作った焼き物は金属に匹敵する固さを持つというが、ラシエンは見たことがなかった。何にせよ
しばらく眺めてから、ラシエンはそれを地面に置いた。自分は灰色の神官。何も所有することはない。この品がどんな物語を持つとしても、それは彼に関係のないことだった……あとは風がさらっていくか、土に還るか、旅人に拾われるか……。
風が少し湿り気を帯びてきた。この土地では貴重な雨が降ろうとしている。
ラシエンは再び死骸の腹に目を向けた。
彼は亡骸の開いた溝に指を挿し入れ、そっと
彼は自分の上衣の裾をたくし上げ、自分の腹の上の溝に触れた。
荒野のどこかで
激しい雨に濡れながら、ラシエンは神殿に戻った。
暗い色の岩で建てられた
ラシエンが水を滴らせていても、仲間たちは気にもとめなかった。ここでは挨拶の習慣もない。決められた仕事をこなしたら、あとは各々の中に沈む。
この神殿には祭壇らしい祭壇もなかった。メノーはどこにでもいるしどこにもいない。小さな水たまりを作りながら、ラシエンはとりあえず建物の中央に跪いた。
「メノー、《満たされた無》よ──」
ラシエンが声に出して祈り始めたので、神官たちはやっと彼に気づいたようだった。
「ラシエン、何をしているのですか?」
黒い肌のソルハが言った。彼はこの神殿の中では他者への関心がある方の人物だ。
ラシエンは自分の手のひらを見せた。そこでは結びついた二つの
薄暗がりの中、それをみとめた神官たちの間でさざめきが起こった。
ソルハが代表して問いかけた。
「それは──それをどこで手に入れたのです?」
「片方は私のものです。片方は荒野で死んだ者から」
「それをどうするつもりですか?メノーはきっと──」
かの神は祝福しない。かの神は沈黙の神。
ラシエンは頷いた。
「それを確かめようとしているのです」
「あなたは祝福を求める
祝福を願うには決まった作法がある。
「いいえ……でも、それは問題ではないでしょう。きっと神は応えないのでしょうから。ただ私の
「その問いとは?」
「
その時、ニスミレが前に進み出た。白い髪を持つ盲聾唖だが、その足取りはよどみなく、ラシエンの隣に立つと
ラシエンはニスミレの見えていない眸を覗きこんだ──この人の眸はいつも不思議な光を宿している。
「ニスミレ、あなたは
ニスミレは年齢不詳の顔に笑みを浮かべ、唇を動かし始めた──が、もちろんどんな言葉も聞こえてはこなかった。
沈黙が神殿の中を漂っていた。その場にいる者は全員、それぞれの無から覚め、成り行きを見守っている。
やがて、ニスミレは
神が祝福を与えた時、普通なら目に見える兆しがある──ガドンなら火花が飛び、ラトゥーなら小さなつむじ風が起こる、というように。しかし今回は何も起こらなかった……。
だが、ラシエンは
神官たちは待ったが、彼はなかなか口を開かなかった。
痺れを切らせたソルハが言った。
「それで?」
ラシエンは顔を上げ、彼の髪の毛からいくらか水滴が落ちた。
彼は《無の神》の神官長らしく感情のない面持ちで言った。
「この中に、
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