灰色の書

f

1.



 ラシエンは、雨の降りそうな黄色みを帯びた空を眺めていた。

 ここは《塩の荒野ダルマール》と呼ばれる、灰色の土地だった。塩混じりの土は草木を育てることもなく、ごつごつした岩が転がり乾いた突風が吹くだけの寂びしい場所だ。地虫ムルムルと空を移動できるオチカのほかは、岩喰いアディシムと呼ばれる毛むくじゃらの大型動物だけが生息している。

 もし誰かがここを通り過ぎたとしても、ラシエンには気づかなかったかもしれない──金色だった彼の髪の毛は褪せ、生まれつき嘆きの青ドルム・ドゥルミクと呼ばれる青みがかった灰色の眸を持ち、さらに染めていないくすんだ色の衣装をまとった彼は完全に風景に溶けこんでいた。



 ラシエンは灰色の神殿テムナイ・メヴィルの神官長だった。

 灰色の神殿テムナイ・メヴィルは《無感情の神》メノーを祀る世界で唯一の場所であり、世捨て人が終わりを待つ場所、すべてを受け入れた者の終焉の地だった。無を司る神に倣い、人々は過去も感情も捨て、メノーの教えである「希望を持たずに満たされること」、つまり空の器アヌハイに戻ることを目指す。

 この神殿で暮らす者たちは馴れ合うことをせず、お互いに敬語を使う。新しく人がやって来るのは五、六年に一度、旅人もほとんど訪れない。



 ラシエンは荒野で瞑想をするのを好んでいた。風は肌を切るように鋭いが、彼はもともと風の神殿テムナイ・ラテルの生まれだ。風の中にいると、自分も風と混ざって無になれるような気がするのだった。

 だが、今日彼が荒野に来たのは、妙な夢を見たためだった。《夢の神》ヴァラーは気まぐれで、その内容のほとんどはからかいにすぎないが、時おり何かを予期させるような幻を見せる。


 ラシエンは岩のひとつに腰かけて待っていた。それから、待っているだけでは駄目だということに思い至った。

 彼は立ち上がり、西へ進んだ。ところどころに転がる岩がなければ、自分が動いているか分からないほど殺風景な土地。ざらつく大地を踏みながら、彼は口ずさんだ。


 東風とともに お前はやってきた

 (Dj'turelch't oés Láer Argók)

 大地は目覚め 花々は咲き乱れた

 (Múrhtka novarch'f ó Innerío imnüch')

 月の秘密を お前は学んだ 

 (Dj'natuselch't séa Megáer Yerok)

 星が落ち 花々は燃えた

 (Nayra demnch'f ó Innerío tav'rüch')

 輝く灰の上で お前は眠った……

 (Dj'vrölch't h'és Mévwi fikee)



 やがて、彼は瀕死の人に出会った。

 その人の髪は黒く、身体はあまり大きくなかった。山羊革カララモの荷袋、腰に括られたアゾル、折れた弓矢アルノヂーマ、暗い黄色に染められた羊毛織ヴィルムクトの衣装から、もっと東の森林地帯の出身のように思われた。

 その人は大地に仰向けに倒れ、目は固く閉じられていた。その胸は陥没し、流れる血が大地のひび割れに吸いとられている。

 おそらく岩喰いアディシムの角にやられたのだろう……しかし、あの獣は大きいが割と大人しい生き物だ。この人はいったい何をやらかしてこんな末路を辿ることになったのだろうか。

 ラシエンはかがみこんで話しかけた。


聴こえガルツ ナコートるか エオーイ?」 (Gartz nakot eói?)

ああラー」 (Lá.)


 その人はアーモンドアイモのような形の目を開いたが、焦点は定まらず、ラシエンが見えてはいないようだった。


何がハーシュ ヘールチトあった オエス テリア?」 (Háš hérch't oés tería?)

「……私がウローチ愚かだったのさ ボーツィス ルーマ」 (……Uróch' botzith rúma.)


 ラシエンは念のため、その人の衣装を開いたが、もう手の施しようもなかった。折れた肋骨が肉を突き破って内臓に刺さっているのがはっきりと分かった。

 彼はいくらか血を吐いて、死んだ。


 ラシエンは流れる血がその人の肌を伝うのを眺めた。灰色の神殿テムナイ・メヴィルに住むラシエンに、見ず知らずの死者を悼む心は残っていなかった。ここでは死骸は野ざらしにして、塵に還るにまかせるのだ。

 流れる血が腹の真ん中ある溝に溜まりかけた時、その裂け目がぱっくりと開いた。


 腹の中心の溝。そこではオシャが育まれ、ある程度成長すると取り出すことができるようになる。取り出したオシャは他者のオシャと結びつき、神殿で神の祝福を受けることで新たな生命が萌えるのだ。

 人が死ぬ時に溝が開くという話は聞いたことがあったが、実際に目にするのは初めてだった。遺されたオシャが生き延びようとしているのかもしれないが、オシャは片割れだけでは生きられず、すぐに腐ってしまう。

 ふと、ラシエンは自分の腹に手を当てた。ラシエンも何度かオシャを結んだことはあった。最後にそれをしたのは何年も前だ。オシャは成熟するまでに三年から五年ほどかかり、その前に取り出そうとするれば人ごと死んでしまう。

 今、ラシエンのオシャの準備は整っているはずだ……だが、この地には祝福を与える神がいない。



 神殿といえば、本来は子どもを育む場だ。

 どの町にもガドンネヘムエウマラトゥーいずれか、大きな街なら四つすべての《力の神々》の神殿があり、ほとんどの人はこれらの神々のもとで祝福され、生命を与えられる。

 子どもは神殿で育てられ、ある程度大きくなるとそれぞれに合った場所で修行をする──職人に弟子入りする者、軍に入る者、殿堂ナトゥセライで学ぶための学校に入る者。神殿に残る者には神官となるために修行に励む者と、子どもを育てる教育者シャティヤとなる者がいる。

 だが、灰色の神殿テムナイ・メヴィルはそういった場所ではない。いわば生者の墓場なのだ。それにメノーが祝福した話など聞いたこともない……。


 ラシエンは──知ったところで何も変わらないと知りながら──この人がどこからやって来たか分かるものはないか革袋を探ろうとして、彼が何かを下敷きにしていることに気づいた。

 引き抜いてみると、それは一エソフ(約三十六センチ)ほどの角杯か角笛のように見えた。本物の角でできているのか、金属か──あるいは、強い土の祝福が作った焼き物は金属に匹敵する固さを持つというが、ラシエンは見たことがなかった。何にせよ岩喰いアディスの攻撃に耐えるほど頑丈で、割れるどころかひしゃげてもいなかった。その杯は繊細な模様が彫り込まれており、同じ素材の蓋が付いていた。蓋と角の先には紐がくくりつけられ、持ち運びしやすいようになっている。

 しばらく眺めてから、ラシエンはそれを地面に置いた。自分は灰色の神官。何も所有することはない。この品がどんな物語を持つとしても、それは彼に関係のないことだった……あとは風がさらっていくか、土に還るか、旅人に拾われるか……。

 風が少し湿り気を帯びてきた。この土地では貴重な雨が降ろうとしている。


 ラシエンは再び死骸の腹に目を向けた。

 彼は亡骸の開いた溝に指を挿し入れ、そっとオシャを取り出した。それは半透明で柔らかく、少しだけ血で汚れていた。

 彼は自分の上衣の裾をたくし上げ、自分の腹の上の溝に触れた。オシャを取り出すのは久しぶりだ──取り出すとして、だが。それなりに痛かったことは覚えている。はたしてこの行為・・・・は痛みに値する行為だろうか?この死者のオシャと結んだところで、これは空の器アヌハイでしかない──神に祝福されることがなければ。

 荒野のどこかで岩喰いアディシムが唸り、暗い雲の中で雷が吠えるのが聞こえた。




 激しい雨に濡れながら、ラシエンは神殿に戻った。

 暗い色の岩で建てられた灰色の神殿テムナイ・メヴィルは簡素で冷たく、敷物も岩喰いアディシムの硬く黒い毛をざっくりと編んだだけだ。風を避けるために窓は小さく数も少ないので、昼間でも薄暗い。ところどころにランプが置かれているが、その光は頼りなく機織りもままならない。

 ラシエンが水を滴らせていても、仲間たちは気にもとめなかった。ここでは挨拶の習慣もない。決められた仕事をこなしたら、あとは各々の中に沈む。

 この神殿には祭壇らしい祭壇もなかった。メノーはどこにでもいるしどこにもいない。小さな水たまりを作りながら、ラシエンはとりあえず建物の中央に跪いた。


「メノー、《満たされた無》よ──」


 ラシエンが声に出して祈り始めたので、神官たちはやっと彼に気づいたようだった。


「ラシエン、何をしているのですか?」


 黒い肌のソルハが言った。彼はこの神殿の中では他者への関心がある方の人物だ。

 ラシエンは自分の手のひらを見せた。そこでは結びついた二つのオシャが、鈍い光を放っていた。

 薄暗がりの中、それをみとめた神官たちの間でさざめきが起こった。

 ソルハが代表して問いかけた。


「それは──それをどこで手に入れたのです?」

「片方は私のものです。片方は荒野で死んだ者から」

「それをどうするつもりですか?メノーはきっと──」


 かの神は祝福しない。かの神は沈黙の神。

 ラシエンは頷いた。


「それを確かめようとしているのです」

「あなたは祝福を求めることばを覚えているのですか?」


 祝福を願うには決まった作法がある。オシャを結んだことのある者なら聞いたことはあるが、しかし覚えているかどうかは別の話だ。


「いいえ……でも、それは問題ではないでしょう。きっと神は応えないのでしょうから。ただ私の問いラリュームのために行うのです」

「その問いとは?」

神はアルツ 我が問いにエルファシハノヴ応える エイアのかどうか イン ナルツェ」 (Artz el'faškhanóv eía in nartze. )


 その時、ニスミレが前に進み出た。白い髪を持つ盲聾唖だが、その足取りはよどみなく、ラシエンの隣に立つとオシャを持つ彼の手に自分の手を重ねた。

 ラシエンはニスミレの見えていない眸を覗きこんだ──この人の眸はいつも不思議な光を宿している。


「ニスミレ、あなたはことばを知っているのですか?」


 ニスミレは年齢不詳の顔に笑みを浮かべ、唇を動かし始めた──が、もちろんどんな言葉も聞こえてはこなかった。

 沈黙が神殿の中を漂っていた。その場にいる者は全員、それぞれの無から覚め、成り行きを見守っている。


 やがて、ニスミレはオシャから離れてパン、と手を叩いた。神官たちは飛び上がった。誰かがランプをひっくり返し、あわてて火を叩き消す気配がした。

 神が祝福を与えた時、普通なら目に見える兆しがある──ガドンなら火花が飛び、ラトゥーなら小さなつむじ風が起こる、というように。しかし今回は何も起こらなかった……。

 だが、ラシエンは自分の手の中を・・・・・・・凝視している・・・・・・

 神官たちは待ったが、彼はなかなか口を開かなかった。

 痺れを切らせたソルハが言った。


「それで?」


 ラシエンは顔を上げ、彼の髪の毛からいくらか水滴が落ちた。

 彼は《無の神》の神官長らしく感情のない面持ちで言った。


「この中に、教育者シャティヤの経験のある者はいますか?」

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