絵画教室の少女

たつじ

絵画教室の少女

 一人娘がやっと嫁に行った。あとを追うように、妻が出ていった。人がいなくなった我が家の居間で、朝から晩までテレビを見ていると、退屈でおかしくなりそうだった。そんなとき、偶然インターネットの広告で絵画教室のホームページを見つけた。今まで経験した習い事らしい習い事といえば、大学まで剣道をしていたくらいで、絵はからきしだ。だがこの年になって心機一転、全く新しいことに挑戦するのも悪くない。思い立って、急いで地図をプリントアウトした。さすがに今更、胸がときめくような出会いは、期待なんてしてはいなかったけれど。

 恐る恐る握ろうとしたドアノブがばちり、と激しく静電気を放って、思わず手を払い除けた。きっとまだ勇気が足りていないとか、時が満ちていないという啓示だ。やっぱり来週にしよう、と呟きながら振り返ると、目の前に滅法な美人が立っている。

「教室に、御用ですか?」

 私は後ずさりしながらも、なんとか答えた。

「ああ、まぁ」

 どうぞ、と若い美人は私を、暖かな部屋へ通す。エアコンのむわっとした空気の中の、つんと鼻を刺す独特の匂いは絵具だろうか。ごく小さな音量でバックミュージックが流れている。ドビュッシーのアラベスク第一番だ。窓のないぐるりを作品と棚が囲む。奧には、イーゼルやパイプ椅子が無造作に並んでいる。手前の長机では、生徒たちが一心不乱になにか描いていた。平日の昼間だからだろう、彼らが全員自分と同年代かそれ以上であることを確認し、とりあえずは胸を撫でおろしたくなったような、がっかりしたような複雑な気持ちになった。

「講師の須藤です。席に座ってお待ちください。えっと……」

「森山です」

「森山さん」

 美人は須藤というらしい。軽く会釈をして、奥の控室から手際よくチラシを持ってきた。隣の椅子に座り、微笑みを湛えて、授業内容や料金についてつらつらと説明してくれた。すらりと伸びた足と、濃紺のエプロンの上からでも分かるほど豊満な胸。艶のある黒髪を後ろでまとめている。まるで若かりし頃の黒木瞳のようだ。こんなお嬢様然とした女性でも、ちまちま机に向かって絵を描くのかと、素直に感心する。

「初心者の方でも水彩や油画に挑戦される方もいらっしゃいますけれど、どうしますか?」

 その答えは、予め家で考えてきていた。

「私は典型的なA型気質の几帳面で。基礎からしっかりやりたいので、デッサンコースに」

「デッサンは大変ですよ。本気でやらないと」

「たとえ老後の趣味だとしても、本気でやりたい」

 須藤はえくぼを作ってにこりと笑うと、手慣れた様子で必要な画材を指示した。若いのにそつがない。なんて健気なんだろう。最後に申込書と住所、氏名、電話番号を記入する。こうして、晴れて私は週に一度、木曜日の二時から絵画教室に通うことになった。


 件の教室は寂れた商業ビルの二階にある。初回の授業まではまだ時間があった。はりきっていて早く着いてしまったのだ。須藤の指示通りに画材屋で揃えた、鉛筆と練り消しゴムを机に広げる。私の両隣に二人の初老の男が、餌を待つ犬のようなつぶらな瞳をして長机についていた。やがて控室から須藤が出てくる。颯爽とした歩き方も美しい。背伸びして目で追いたくなる。須藤は軽く手を二度叩くと、

「はい、じゃあ今日も先週の続きをやっていきましょう」

 隅でイーゼルや絵具を広げている一団のほうへ行ってしまった。一気に力が抜けて呆然としていると、控室からもう一人、猫背の小さい女がぬるりと水族館のウツボのように姿を現した。

「デッサンコースのみなさんを担当する花井と申します」

 須藤先生じゃなくてどうもスミマセンネ、と花井と名乗った女は早口で自嘲気味に続けた。定番の冗談のつもりなのだろうか。本当にそうなのだから、苛立ちこそするが笑えない。

「い、いやいや! 優しそうやから、安心しました!」

 左隣の男が関西弁のイントネーションで、心にもなさそうなフォローを入れた。右隣の冴えない太った男はそれを鼻で笑う。まったく、先が思いやられる。

 花井はぼそぼそと弱々しい声で、しかし厳しかった。大きく不格好な眼鏡の端をあげながら、やれ鉛筆の持ち方が短いだの、練り消しが大きすぎるだのと。率直な歯に絹着せぬ物言いで、女らしい優しさや思いやりというものがない。オカッパ頭で垢抜けていないから、学生にも四十代にも見える。きっと男に相手にされない行き遅れなんだろう。こんな教室でいつまでも老人相手のアルバイト講師をしているようでは、画家だけでは食っていけずに、さぞかし中途半端な人生を送っているに違いない。同じ教室のすぐ奥では、美しい須藤が嫋やかに椅子に座り、自らモデルになっているというのに。

「森山さん、集中してください」

 花井が眼鏡のブリッジをあげる。こんな風に他人から注意されるのは子供の頃以来かもしれない。私は悔しさと恥ずかしさで奥歯を噛み締めながら、目の前の発砲スチロールの立方体を、画用紙に写し取っていった。

 教室に通い続けることができたのは、なんといっても須藤の存在のおかげだ。週に一度、彼女と同じ空間にいられるというだけで、胸が温かくなり、日々の活力すら沸いた。あわよくば、もう少しだけ須藤と距離を縮めることはできないだろうか。贅沢は言わない。お互いのなにげない話だけでも語り合うことはできないだろうか。講座が終わって片付けの折、須藤を目の端で追いながらじりじりとタイミングをうかがっていると、あの関西弁の男が視界を遮った。

「ボク、小此木言います。森山さんでしたっけ。お時間あったらちょっと飲みにでも行きませんか?」

「えっ。ああ、いいですよ別に」

 こいつと親睦を深めても仕方ないと思わないでもなかったが、絵を描くような同年代の男が、どんなヤツなのか気になった。

 いつのまにか例の太った男もついてきている。私たちは小雪のちらつく中三人で、近くの上品な居酒屋に入った。カウンター席の角に通され、運ばれてきたジョッキのビールでぎこちなく乾杯した。小此木はビールを牛飲して、機嫌よく口を開いた。

「絵って、ホンマ難しいですねぇ。ボクは子供の頃から好きで、自分は描けるほうやとおもとったけど、デッサンは勝手が違う」

 声が異様に大きい。私は太った男と並んで愛想笑いを浮かべた。

「みなさん、またなんで絵を始めたんですか?」

 小此木は身を乗り出し、好奇に満ちた目で私たちを順番に見比べる。

「こんな年でお恥ずかしいんですけど、ボクは一人もんでして。出会いっちゅうもんもちょっと期待してましてね。でも、蓋開けたらお爺さん、お婆さんばっかりでがっかりしましたわ。まぁ、元々絵は好きやから、かまへんのですけどね」

 さっきからえらく明け透けなオヤジだ。デリカシーというものがない。どうせそんなだからモテないんだろう。

「で、お二人さんは?」

 太った男が、あくせくと顔中の汗をハンカチで拭いながら話し始める。

「村岡と言います。最近、ずっとやっていた店を閉めたんです。それで、趣味らしい趣味がないので、なにか始めたくて……」

「私も、同じです。会社役員をしていたのですが、定年したので」

 ここはひとまず村岡のほうに乗っかっておくことにしよう。

「みんなそう言うんです。なんや、腹割って話してるのは私だけですか」

 拗ねたように枝豆を口に運ぶ小此木の背後の入り口から、見覚えのあるシルエットの女性が入ってきた。

「須藤先生……」

 私の漏らした溜息のような声に、小此木が素早く反応して振り返り、激しく手招きした。

「須藤ちゃんやん! こっちこっち」

 須藤ちゃんだって? 違和感を共有しようと村岡に視線を送ったのに、その目は須藤の動線に釘付けになっていた。顔も耳まで赤くなっていて見苦しい。須藤はやわらかな笑顔を浮かべて、慣れた様子で小此木の隣の席についた。

「みなさんよく来られるんですか?」

 ピンクのマフラーと白い上着を背もたれにかけながら、須藤は店員に生ビールと出し巻きを注文した。おしとやかな見た目によらず豪快で素敵だ。奔放で無邪気な少女にすら見える。私は逸る心を悟られないように、努めて紳士的に頷いてみせる。

「今、三人で絵画談義やっとったとこなんです」

 小此木に差し出された枝豆をさり気なく断り、須藤は話し始めた。

「花井先生は、丁寧で素敵でしょう」

 私と村岡は顔を見合わせ、無言で頷き合図して、即興で花井を褒めようとしたが、小此木が割って入った。

「いやぁ、ボクら三人、ホンマは須藤先生に教えてもらえるとおもて楽しみにしてたんですよ。それが。ねぇ」

 須藤が困ったように笑うので、気まずくなって私はジョッキのビールを飲み干して、すぐにおかわりを頼んだ。余計なことついでに小此木は続ける。

「須藤先生。つかぬことをお聞きしますが、彼氏サンはおるんでっか?」

「イヤ、さすがに今の時代そういうのはちょっと……」

 呆れる私を遮って、須藤が明日の天気でも答えるように言った。

「いませんよ」

 三人がそれぞれ生唾を飲み込む音が、店中に響き渡った気がした。スマホを触り始めた須藤の元に、湯気が立ったオレンジ色の出し巻きとビールが運ばれてきた。それから私たちは、いったん産まれてしまったぎこちなさを覆い隠すように、野球や経済のことを各々語った。須藤はへぇ、そうなんですか、すごいと終始感嘆していた様子だった。

「みなさん、描きたい絵はあるんですか?」

 皿の上の出し巻きを一人で平らげた頃に、須藤は切り出した。でしゃばりの小此木が、我先にと大袈裟に胸を張って答える。

「ボクは旅行が趣味でして。いろんな素敵なところの風景画を描いてみたいと思っとります」

「素敵ですね。村岡さんは?」

「私は、授業についていくのがやっとの状態なので、正直まだなにも……」

 大丈夫ですよ、一緒に頑張りましょうね。と、須藤は村岡を励ます。次はいよいよ私の番だ。

「いつか油絵を描いてみたいな。先生をモデルに」

 だいぶ酔いが回っていたのだろうか。気が付いたら教室でずっと考えていたことを、鼻息荒く喋ってしまっていた。

「森山さーん! あんた、えらい抜け駆けですやん!」

 小此木が悔しがって大騒ぎしているが、こういうのは最初に言った者が勝ちなのだ。私はジョッキに口をつけながら、なんでもない風を装って須藤を見やった。

「まず、デッサンを頑張りましょう」

 須藤はにこりと答える。


 人間は自分で思っている以上に、見たいものだけを、見たいように見ているんです。だから絵も歪む。と、花井は私をきつく叱った。教室に通いだしてから三カ月目、季節はいよいよ春に差し掛かろうというのに、私はいまだに立方体や円錐、球体といった色気の無いものを描かされていた。どうしても正確に形をとるということが難しいのだ。他の二人はもうレモンやリンゴといったモチーフに取り掛かっているが、「基礎からしっかり」「本気でやりたい」とか言ってしまった手前、ここで逃げ出すことはできない。あれから何度かあの居酒屋に三人で行ったが、店で須藤と会えることはなかったので、自然と足が遠退いた。今日も彼女は、私たちなど見えていないかのように教室の隅のほうで水彩や油絵を教えている。

「森山さん、よそ見しないでください」

 花井が目敏く注意してくる。私は不貞腐れながら、鉛筆を走らせ続けた。

 そろそろ教室の終わりの時間だ。小此木と村岡がぱらぱらと席を立つ。須藤の姿を探したが既にどこにもいない。がっくりと荷物をまとめていたとき、ふいに後ろから声をかけられた。

「森山さん。ひょっとして、授業に不安があるんじゃないですか?」

 花井だった。相変わらず表情が乏しいが、かろうじて心配しているのは伝わってくる。

「不安、というか……このまま、上手くなれるのかなぁとは、ちょっと思ってる」

「そうだと思いました。このあと、もしお時間があればデッサンを続けません? 見てあげます」

 もちろん追加料金なんてとったりしません、と花井は続けた。片方の口の端が引き攣って歪んでいるが、笑顔のつもりだろうか。なんにせよ僥倖だ。花井にも人並みの情があったということだ。

「その代わり、森山さんが描いている姿を私に描かせてください」

「私?」

 突拍子もない交換条件の申し出に、私は自分で自分を指して笑ってしまった。

「ダビデ像みたいな感じかな」

「わざわざポーズとかとる必要はないです。普通に絵を描いててください」

 こうして、誰もいなくなった教室で二人きり、花井の個人レッスンが始まった。私は鉛筆で球体を描き、その私を背後で花井が描いている。スケッチブックを何枚も捲っては、鉛筆を走らせる音だけがせわしなく聞こえてくる。一体どういうつもりなのだろう。こんなオヤジを描いてなにが楽しいんだ。ひょっとして私に気でもあるのではないだろうか。オバサンの懸想なんて痛々しくて困ったものだ。しかし、デッサンに集中していると、花井の存在はすぐ気にならなくなった。

「そこのカーブ、もっとよく見てください」

 時々背後から花井が、思い出したように鉛筆を差し出して私の絵を修正する。すると、ちゃんと見違えるように絵がよくなっていくのだ。私は夢中になり、いつしか時計は夜を指していた。

「森山さん、今日はありがとうございました」

 花井のほうが先に礼を言うので、私はすっかり気をよくした。

「こちらこそ。よければ、また来週も」

「それは助かります」

 花井が肩を震わせた。おそらく笑っているのだろう。須藤には圧倒的に劣るが、よくよく見ればチャーミングとも言えなくもない。私は初めて花井に好感らしきものを持った。

 二カ月が経った。私は教室に通うのが億劫になっていた。

 花井の個人レッスンは、授業のあと毎回行われた。その度に私のデッサンは確実によくなっていった。須藤をモデルにできる日も近いと、私はますます気合が入っていた。あの日も、いつものように花井と二人きりだった。ふと、一瞬席を外した花井のスケッチブックの中身が、気になった。花井の絵はどんななのだろう。私は一体どんな姿でデッサンをしているのだろう。長机に伏せられた花井の緑のスケッチブックを手にとった。

「森山さん!」

 知らぬ間に戻ってきていた花井が、血相を変えて怒鳴り、乱暴にスケッチブックを奪いとった。

「そんなに怒らなくたって」

 予想だにしなかった反応で、つい笑ってしまう。

「あっ……すみません……」

 しおらしく謝罪する花井に、次に感じたのは怒りだった。私が一体なぜこんな仕打ちを受けなければならないんだ。せっかくモデルになってやっているというのに。

「帰る」

 私はデッサン用具をまとめて鞄に突っ込み、感情に任せて教室のドアを勢いよく閉めた。

 それから私は、なんとなく教室に行きにくくなり、一度休み、二度休み、いっそこのまま辞めてしまおうかと思い始めていた。決意を固めて教室に電話をかけたこともある。呼び出し音が三度鳴り、明るい声が応答した。

「はい、東京絵画教室です。もしもし? ……聞こえますか?」

 懐かしい須藤の声だ。ああ、やっぱり私はあなたが描きたい。私の筆であなたの身体の稜線をなぞってみたい。内に秘めた声があふれ出してしまう前に、震える指で電話を切った。

 気が付いたら、私の足はふらふらと画材屋に向かっていた。駅ビルの最上階。エレベーターと店は直結しており、扉が開くと目の前におびただしい量の画材が現れ、別世界が広がるようで心地よかった。今やすっかり手に馴染んだ道具となりつつあるスケッチブックや鉛筆コーナーの奥に、大量の油絵具が陳列されている。油絵に関してはまだ何ひとつ知識がない。チューブをひとつ手に取り、パッケージを見て、そのまま元の場所に戻した。いったい私はどうしてしまったのだろう。

 そのとき奇跡が起きた。須藤が現れたのだ。今日は仕事が休みなのだろうか。初夏に相応しい白いスカートをたなびかせ、スケッチブックや絵具の入ったカゴを片手に、画材を物色している。

「須藤先生!」

 声をかけると、驚いた様子で目を丸くしている。小動物のようで可愛らしい。

「最近教室にいらっしゃらないから、みんなで心配していたんですよ。小此木さんも村岡さんも」

 小此木に村岡。そんな低俗な雑魚のことは、今はどうだっていいんだ。

「先生、立ち話もなんだし、ちょっとお茶でもしませんか? いい喫茶店を知ってる。あぁ、居酒屋のほうがいいか」

「すみません、私今日はちょっと用事があって。またいつでも教室に来てくださいね」

 まずい。このままでは須藤が行ってしまう。私はなんとかして須藤を引き止めようと言葉を尽くした。

「先生に初めて会ったとき、こんな美人が絵を描くんだなって驚いたんだ。本当に、こんな美しい人が才能もお持ちだなんて、素敵だなって」

 ありったけの想いが漏れ出して、唇がわななく。須藤は静かに返した。いつもの穏やかな笑顔だった。

「絵は、誰でも描いていいんですよ。もちろん森山さんも。ああそうだ」

 須藤はバッグからハガキを一枚取り出して、私にくれた。

「今度教室の展覧会があるんです。お時間あればいらしてください。私の絵もあります」

「先生……!」

 縋りつかんばかりの私に対して、須藤は軽く頭を下げると、そそくさと会計に行ってしまった。なんだか気の毒なことをした。本当に急いでいたのだろう。私は画材屋にひとりぼっちで取り残された。渡されたハガキを、こっそりと両手で持って、匂いを嗅いでみる。石鹸の甘い香りが鼻を擽った。


 展覧会は教室の近くの古民家でひっそりと行われているようだ。今にも降り出しそうな重い雲が、ビルの間に垂れ込む夕暮れ時。地図の書かれたハガキを握りしめ、小さな路地を行ったり来たりしてやっと目的地にたどり着いた。入り口の受付テーブルに女性が座っている。遠くからでも一目でわかる。パンツスーツ姿の須藤だ。隣に花井もいるが、眼中になどない。

「森山さん。いらしてくれたんですね」

「ここに書けばいいのかな?」

 このあいだ醜く取り乱したことを後悔していた私は、あくまで冷静にペンをとり、受付表に名前を書いた。振り返って、最初に目に飛び込んできたのは、おどろおどろしい色使いの大きな抽象画だった。キャンバスに激しくぶつけられた黒や赤や深い緑が渦を巻いている。いかにも世の中に不満がありますよというような、恨み言が聞こえてきそうな気味の悪い絵だ。だが、下に添えられたプレートの作者名を見て驚いた。それは須藤の絵だった。

「須藤先生、もしかしてなにか悩みごとでも?」

 本気で心配する私に、須藤はそっと微笑みを返してくれた。

 コの字型の小さな部屋に、等間隔に作品が並んでいる。私は後ろ手を組み、ひとつひとつ絵を丁寧に見ているふりをしながら、時折腕時計を確認した。今日こそ須藤を飲みに誘う算段だった。そのためにこの時間を選んで来た。幸い客もまばらだった。

 一枚の絵に吸い寄せられて立ち止まる。手のひらくらいの小さな正方形のキャンバスに鉛筆デッサンで描かれたそれは、白髪交じりの男の汚いうなじだった。髪の毛の一本一本、肌のシミまで刻銘に描かれている。ねっとりとした執拗なタッチで、皮脂や整髪料の臭いまで漂ってきそうだ。なぜか卑猥なポルノ画像を見ているような後ろめたさに襲われる。右側には、毛の生えた小さなホクロがふたつ、ついていた。作者の名前は花井馨。嫌な予感がして、恐る恐る右手で自分のうなじを確かめる。突起物がある。ふたつだ。

 ぎょっとして固まった私を、そばで何者かが凝視していた。片方の口の端を歪ませている花井だ。

「くだりエスカレーター」

「……は?」

「くだりエスカレーターに乗ってるときと、教室で教えてるときだけなんです。私みたいな背の低い女が、男性のうなじをじっくり見られるチャンスは」

 この女、突然なにを言い出すんだ。

「森山さんスミマセンネ。でも絵がバレちゃったからにはこの際全部正直にお話します。私年配の男性の汚いうなじが大好きなんです。若い男や女性みたいに手入れされてなくて、無垢で。ひょっとして自分が誰かにエッチな目で眼差されてるかも、自分が普段女にやってるのと同じようにジャッジされて消費されてるかもなんて一ミリも考えてない。そこに真の少女性を感じるんです。現実の少女なんか、みんな自分が客体であることをどこか理解してますからね」

 花井が無表情のままで、言葉を次々とまくしたてる。知らない異国語のように聞こえる。

「小此木さんは襟のある服ばっかり着ていて隠れちゃってるし村岡さんはお肉に埋まっちゃってる。でも森山さんは……姿勢がよかった。うなじがくっきりと見えた。きっとなにかスポーツをやられてたんでしょう。だからあなたを選びました。エスキースを何枚も描かせていただきました。ごめんなさい。気持ち悪いですよね。これってセクハラです。お察しの通り、私はあなたのうなじを性的な目で見ています」

 セクハラ。性的な目。かろうじて拾えた言葉はそれだけだった。私は無意識に、人差し指の爪でうなじのホクロを抉り取ろうとしていた。

「でも、森山さんも須藤先生にセクハラしまくってますよね。授業中ずっとじろじろ見てるし。キモくて居酒屋行けなくなったって泣いてましたよ。画材屋で待ち伏せしたり、教室に無言電話までかけてきたときは笑っちゃいました。まぁ、森山さんみたいなキモいおっさんが少女性を孕んでるってところが私的にはアンビバレンツでサイコーなんですけどね。なので今回はおあいこってことで見逃してくれませんか?」

 おあいこ。そんなわけあるか。花井の両肩を小突いたら、意外なほどの勢いで身体がふっとんで、鈍い音を立てて壁にぶつかった。眼鏡がずれたまま、まだなにか言っている。

「バカな男って本当に可哀相。弱い癖に力を持ってるから」

 洞穴のように真っ黒なその口を塞がなければ。花井に飛びかかろうとした私を、居合わせた若い男が羽交い締めにする。須藤先生。須藤先生助けてください。セクハラだなんてあんまりだ。私はただあなたと他愛もない話がしたかっただけだ。私は精一杯の声で叫びながら男を振り解き、なんとか顧みる。須藤は青い顔でその場に立ち尽して一言、こう言い放った。

「……怖い」

 そんな。

 理解してもらえない悔しさで、呻きながら壁を蹴りつけた。男がまた腕を掴もうとするので、会場を這うように飛び出す。外は雷鳴が轟き、激しい雨が降り始めていたが、傘も差さずに逃げた。


 絵画教室はすっぱり辞めた。なぜこの私が、あんな屈辱的な目に合わなくてはいけなかったのだろう。思い返すほどに怒りが湧いてくるし、法的な手段をとることも考えたが、あいつらにかかわっている時間や労力が惜しい。とにかくもう習い事は懲り懲りだ。これからは家でゆっくり、古い映画でも見て過ごそう。固い決心を胸に、天気のいい昼下がり、スーパーへ買い出しに行く。すると、薫風に乗ってどこからともなく美しいピアノの旋律が聞こえてきた。ドビュッシーのアラベスク第一番。音色に誘われるように、純白の壁の一軒家の前に行き当たった。赤いバラの咲いた庭も、瑞々しい葉の生垣も、丁寧に愛情を込めて手入れされている気配がした。門扉の先、少しの階段をあがった玄関には、小さな看板がかかっている。私はそれをいつのまにか声に出して読み上げていた。

「ピアノ、教室……」

 重そうな扉がガチャリと開いて、背の高い、長い黒髪の美人が出てきた。

「教室に、御用ですか?」

 私はポケットから手を出して答えた。

「ああ、まぁ」

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絵画教室の少女 たつじ @_tatsuzi_

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