気球
高黄森哉
ある男
「ここにかけてお待ちください。すぐに、お戻りします」
「ここに、掛けて、待ってればいいんだね」
「左様でございます」
〇
霞んでいる。道が目の前に続いている。道は、ゆるやかに坂になっていて、空へ途切れている。あそこが、坂の頂上なのだろうか。興味を惹かれるまま、道のお終いを目指し始めた。
電話が鳴った。また、ボスからの電話だ。ボスは高学歴で、そうでない僕を見下している節がある。それは当然で、一般的に、そう思われても仕方がないのかもしれないが、しかし、生まれが貧しく大学に通えなかった事情を、考慮してくれてもいいのではないか。それにしても、なぜ知能の高い人間は、こうもサディスティックなのだろう。高校時代の英語の先生も、あてた人間に、恥をかかせるような種類であった。うんざりしているが口調には出さない。電話が途切れる。
両脇には草原が広がっていた。雑草の背は高いような気もする。真緑と言うより、若草色というほうが近いのだろうか。文学的素養がないから、意に尽くせる言葉は、すぐには思い浮かばない。そもそもないのかもしれない。
妻が台所で食器を洗っている。妻の性格は内気であり、陰気な人間はまったくもって好きではなく、また、唯一、許容できる体形も出産後から崩れていしまった。妥協の塊が、洗い物をしている。妻とは、高校の時に知り合って、もう二十年になる。高卒なだけあって、頭が悪く、同じく高卒である僕の話についていけない。低能だからか、交友能力が欠落しているのか、雑談はつまらない。そのうえ、つまらない会話は、二十数年の時を経てマンネリし始めている。
道路のセンターラインは二列。黄色の中央線、向かって右は破線であり、左は実践である。右の斜線から車が向かってくる。ということは、ここは日本なのか。日本に、このような広々とした平原があったなんてな。中央から少し左に寄る。すぐそばを、銀のセダンが駆け抜けていった。
飛んでしまいたいな。どこかへ、飛んでしまいたい。このまま、妻と居ても、刺激がない。上司の支配からも逃れられない。つまらない日常に、脱出口が見当たらない。とにかくどこでもいいから、誰か、どこかへ連れて行って欲しい。風の吹くまま、攫われてしまいたい。どこかへ行きたいのではなく、ここに居たくない。頭を荒唐無稽な計画で埋めながら、机で新聞を読みはじめる。
夢のような景色は霞んで、夢心地だ。霧とは違う靄かかり。原色ともパステルともつかない世界はじっとしている。草原はそよがない。景色の中を探ることは出来ない。はっきりとしない。まるで、夢のように拒んでいる。その世界に、じっと目を凝らすと、段々と焦点があい、はっきりとした。
老化を感じる。もう、四十手前か。新聞の文字が霞がかる。じっと目を凝らしても一向に見ることは叶わない。不透明な今後を暗示させ、焦りが生まれた。しかし、この日々に突破口は見えない。いつもと、同じ規則の、同じ焦燥。ここらへんで、変えないと、変えないと、死ぬまでぼやけたままだ。少なくともこの視力くらいは、直さなければ、ならない。眼科へ予約の電話を入れる。
坂の終わりには気球があった。赤と黄色の気球だ。籠の中から、火を入れると、むくむくと膨らんでいく。気球は、こういう乗り物なのかしらないが、うまく膨らんでいるということは、こういう乗り物なのだろう。やった、やった。これでおさらば。狂った日常からの逃避行。下らない日々に、さようなら。はははは、ひひひ、ふふふ。重りを外すと高度が上がる。地上五メートルくらいで、ふと来た道が気になりだす。背にしているそちらの方向から、じりじりと何者かの圧を感じたからだ。それもそのはず、見ると、青空にノゾキアナが開いて、巨大な目が僕を睨んでいた。
〇
「山田さん。ここにいた男の人知りませんか」
「出ていくところは見てないけど。どうかされましたか」
「待たせていたんです。お手洗いですかね」
「アナウンスで、お呼びして見ましょう」
「よろしくお願いします」
気球 高黄森哉 @kamikawa2001
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