きりん
香久山 ゆみ
きりん
あの人は私のことを「きりん」と呼びます。
ですから、私は彼のことを「象さん」と呼ぼうとしたら、これ、そのようなはしたないこと、と叱られました。あら嫌だ、そんな下世話なネタのつもりじゃなかったのですけれど。私はそんな馬鹿なところがあるのです。だから、彼がよその女にうつつを抜かすのもすべては私の身から出たことなのかもしれません。
あの人はなぜ私のことを「きりん」と呼ぶのでしょうか。へっへと笑うばかりで教えてくれません。首が長いから? いえ確かに短くはないですが、人並みです。長いという程では。いつも首を長くして待っているからでしょうか。彼のことを。
さみしい。
さみしいさみしいさみしい。
あの人は今夜も帰ってこない。待てども待てども。愛しいあなた。想い続けて、私の魂が体から抜けて彼のところまで行けばいいのに。
真っ暗な部屋。深夜の内容のないテレビを観ながら、ポテトチップスを口に運ぶ。指についた油をぺろりと舐める。ああもうずっとこんなことをしている。油ばかり舐めて、いっそろくろ首にでもなってしまえばいいのに。そしたら私の首は彼のもとへ。そんなになれば、彼だって後悔するかもしれない。けれど現実は。油ばかり舐めていたら、あっという間におデブさんになってしまう。彼はますます私から遠退くでしょう。ほらこの横っ腹についたお肉。ふにふにと柔らかく頼りない、あなたの知らない私。
なぜきりんなのでしょう。
けっして長くはないけれど。色が白くて滑らかでまだ皺もありません。色っぽいね、そう言って私の首に無遠慮に触れてくる輩がいます。あなたが留守ばかりしているから。拒むべきだろうかどうしようか、のろのろ考えている間に、あれよあれよ。だって仕方ないでしょう。もちろん私が愛しているのはあなただけ。けれど、私の女の体が、さみしがって仕方ないのです。あなたのせいです。それに相手はあなたもよくご存知の人です。悪いようにしないと仰っていましたから、先のあなたの昇進もまあそういうことなのでしょう。ああ、伝説上の「麒麟」は優れた人物の前に現れるといいます。私もこうしてあなたを世に送ればいいのですか。しかし、麒麟も老いぬれば駑馬に劣るといいます。私は、今、愛されたいのです。あなたは知っているでしょうか。麒麟の「麒」はオス、「麟」がメス。雌雄一対で「麒麟」なのです。
なのにあなたはどこへ行ってしまったのでしょうか。これ程までに私はあなたを呼んでいるのに。
ああそうか。百科事典に載っていました。サバンナのキリンは声帯の発達が悪く、ほとんど声を出さないそうです。まるで私。あなたに何も言えない。
あなただけじゃない。この世の中で、私の声はどこにも届かない。
私は異質なのです。
四メートルを超える高さから見る世界。きっと世間の人たちが見ているのとは違う世界。
ひとりで敢然と立っているように見えるでしょうか。いいえ。足元が見えなくて大変不安定なのです。誰かに支えていてもらいたいのです。
真っ暗な部屋。深夜の音の無いサバンナの映像を、まるで吸い込まれるようにじいっと観ています。真っ赤な夕陽の前で逆光になったキリン。覚束無い華奢な四本の脚で立ち、真っ直ぐに首を伸ばしている。大変傷ついています。よそのキリンと骨が折れそうなくらい首を打ち合って喧嘩して、その後ライオンの親子に襲われたところを命からがら逃げ延びたのです。とてもとても傷ついているのです。そんなキリンが真っ直ぐに首を伸ばして。一体何を見ているのでしょう。
少なくとも、ただ誰かを待っているわけではない。
あの美しいシルエットは、戦って勝ち取った命の姿なのです。
私は指についたポテトチップスの油をティッシュペーパーで拭います。冷め切った夕飯をキッチンの流しまで持っていきます。白い蛍光灯に照らされた私は、あのキリンのように美しく立ち上がれるでしょうか。ザアアー、水道水で皿とともに油のついた指を洗い流す。
あの人はいつまでも信じているでしょうか。私がずっと首を長くして、ただ待っているのだと。
きりん 香久山 ゆみ @kaguyamayumi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます