あじさい姫
香久山 ゆみ
あじさい姫
「あ。でんでん子さん」
「む?」
思わず声を上げた僕に反応して、角倉氏も視線を上げる。
ふと窓の外を見た先、青い紫陽花の花壇の向こうに、でんでん子さんの姿を捉えたのだ。
でんでん子さんとはもちろん本名ではない。僕が一人勝手にそう呼称している。まるででんでん虫――かたつむりみたいな子だなと思ったからだ。とはいえ、一切の面識はない。
彼女を認識するようになったのは、つい最近のことだ。
彼女はいつも傘をさしている。
これまで特に意識することがなかったのは、今が梅雨真っ只中だから。傘をさしていて当然だ。逆にいうと、梅雨入り前に彼女に気づかなかったのは、それまでは今のようには傘をさしていなかったからだろう。
でんでん子さんは傘をさしている。いつも。
雨の日だけではない。晴れの日も。とはいえ、最近は日傘をさす人も多い。もちろん我らが角倉氏は日傘などは無用で年中褐色の逞しい腕を晒している。日傘どころか雨傘をさしているところだって見たことない。なんなら角倉氏が雨に降られているところを見たことがないかもしれない。
閑話休題。
でんでん子さんは雨の日に限らず晴れの日もいつも傘をさしている。けれど、それが日傘でないのは明白だ。だって、彼女がさしているのはビニール傘だから。晴れの日にビニール傘をさす女の子をしばしば見かけるうちに、変わった子だなと認識するようになった。
彼女が人目を引く理由はそれだけじゃない。晴れの日に傘をさしていた彼女は、じきに長靴を履くようになり、さらにレインコートを着るように。もちろん雨の日に限らない、晴れの日にも、いつも。そのような厳重な防雨対策の装備が、まるで殻に閉じこもるかたつむりみたいだなと思い、僕はひそかに彼女を「でんでん子さん」と名付けた。
そして本日も、あいにく雨は降っていない。梅雨の晴れ間に紫陽花の前をとことこ歩く彼女の姿は、ビニール傘に長靴・レインコート、さらにさらに、水中ゴーグルまで掛けている! なんて重装備だ。彼女の隣に立つ角倉氏の足元は早々にビーチサンダルで夏を先取りしているというのに! ――って、えっ?! あれ?
つい今まで僕の隣に立ち一緒に窓の外を眺め「なんだあの面妖な格好は」と呟いていたはずの角倉氏は、いつの間にか僕の隣から姿を消し、今でんでん子さんの目の前に立っている。ちょっと、ちょっと! 僕も慌てて教室から駆け出し、角倉氏を追う。
花壇の前に辿り着くと、すでに角倉氏が彼女の前に仁王立っている。
「一体その格好はなんなんだ。暑苦しいから脱いだらどうだ。それとも何か理由があるのか」
「えと。あの、その……」
詰問する角倉氏に、おろおろ小さくなるでんでん子さん。女の子に脱げだなんて、コンプラNGです。
「ちょっと角倉クン。どうどう。待った、待った。彼女、怖がってるじゃないか」
詰め寄る角倉氏をでんでん子さんから切り離し、いなす。気分はマタドールだ。オーレ!
「だが、お前も気になるだろう」
確かに。
「見慣れない顔だが、一年坊か」
「はいぃ……」
蚊の鳴くような声。いたたまれない。長い三つ編み髪を下げたでんでん子さんはますます小さくなって、幼い印象。そのまま紫陽花の青い花房に埋もれてしまいそうだ。
「で? なぜそんなおかしな格好をしているのだ」
「えと、あの、フロイトの……」
「は? なんだって?」
びくぅーっとさらに身を縮めるでんでん子さん。角倉氏は容赦ない。
「まあまあ、角倉クン」
「だが、お前も気になるだろう」
はい。まあ気になります。
「ごめんね、この人こんなナリだけど怖い人じゃないから。もしよかったら、分かるように理由を説明してもらえたらうれしいなあ」
でんでん子さんはおろおろもじもじしている。そりゃそうだ。
「……あの、ですね。この春から大学生になりまして、それまでの地味で大人しい自分から脱却しようと思ったんです。だけど、周囲から大学デビューだとかなんとか冷やかされて。大学入って変わっちゃったね、とか。わたしは全然そんなつもりはなくて。なのに……」
しどろもどろながら一度口火を切った彼女は続ける。角倉氏は眼光鋭くじっと彼女を見つめている。友人ながら思わず萎縮してしまいそうだよ。
「それで、わたしどうしたらいいか悩んで。でもそのうちにわたしを冷やかした友人たちはメークして着るものも変わってサークル入って彼氏できて、それこそどんどん変わってっちゃって。そしたらますます焦るんですけど、一度躓いちゃってるからどこへ進めばいいか分からなくなっちゃってですね」
真剣な表情で語るでんでん子さん。ぱたぱた身振り手振り一生懸命腕を動かして喋る姿がかわいらしい。
「わたし別にですね、新しい自分になりたいわけじゃないんです。本当の自分になりたいだけなんです。でも、本当の自分が分からなくなっちゃって……」
「で、その格好が本当の自分なのか?」
「じゃないですっ」
おさげ髪がぶんぶん揺れる。
「本当の自分を見つけようと思ってですね。この間授業で習ったんです。フロイトの……」
「うおいっ!!」
突如角倉氏が吠える。でんでん子さんも僕もフリーズする。
「貴様、何をしてくれる!」
眼球を剥き出して角倉氏が睨む視線の先は、でんでん子さんではなく、僕の方。視線を辿ると、ドボドボドボ、僕の手元から白い液体が流れ出ている。牛乳だ。角倉氏を追いかけて教室を飛び出した際に、角倉氏の荷物もいっしょに持ってきた。ビニール袋に入れた1L牛乳パック、走っているうちにどこかにぶつけたのか袋の中で横倒しになり、ビニール袋の破れた穴から溢れている。花壇の黒い土の上を天の川のように流れる白い牛乳は見る見る間に地面に浸み込んでいく。
「う、わ、わ!」
「俺の牛乳を!」
駆け寄る角倉氏とともにあたふたと袋を開く。すでに牛乳の大半は紫陽花に吸収されてしまった。角倉氏の大切な栄養源が。角倉氏の落胆振りは目も当てられない。角倉氏の半分は牛乳でできている。
ようやく視線を戻すと、そこにはすでにでんでん子さんの姿はなかった。まいまい迷子のでんでん子さんだが、この機に乗じてすたこら逃げてしまったようだ。
「でんでん子さんの理由、最後まで聞きそびれたね」
「……もういい。要は自分探しの最中なのだろう……」
あの角倉氏が蚊の鳴くようなか細い声。牧場直送のお高い牛乳を教授からいただいたのだそうだ。
「またおいしい牛乳を買ってあげるからね」
いたたまれない僕の声もまた蚊の鳴き声である。
*
「フロイトの、潜在意識の話じゃないかな」
喫茶・三日月館にて、僕からでんでん子さんの話を聞いたハルが言った。
「自我とは氷山のようなもので、海面から出て見えるのはほんの一部分。あとの大半は海中に沈んで見えない、潜在意識、自分も知らない自分がそこにある」
「へえー」
「へえじゃないよ。教職課程を履修してるなら習ってるはずだと思うけど」
えへっ、恐縮。幼馴染の友人・ハルも角倉氏同様に容赦がない。まあ、ハルの場合は僕に対してだけだけど。
「それで潜在意識を探るためにどんどん深く潜っていって、それで防水対策もどんどん重装備になっていったんじゃないかな。……なあんて、ちょっと飛躍しすぎかな」
ハルにしてはめずらしく歯切れが悪い。そのせいか、矛先は僕に向く。
「先生になるならしっかり勉強しなきゃ困るね」
「いや、まだ悩んでるんだよね。教師にはなりたいけど、でも僕は向いてないかもしれないなって。今もそうだけど、いつも誰かに助けられてばかりだし。正直、ちょっと自信ないんだ」
「そんなことないと思うけど。角倉くんや私みたいな変わり者とも親しくなれるのは、誰に対してもフラットだからだよ。そういう人はきっと先生に向いていると思う」
アイスコーヒーにミルクとシロップを注いでストローでくるくるかき回しながらハルが早口に言う。コップの中にぐるぐると黒と白の渦巻きができ、カフェオレ色に混じる。
「まあそんな感じでさ、誰しも自分のことを知るのは難しいってことだよ」
「そっか」
「だから、でんでん子さんっていう呼び名もあながち的外れじゃないってこと。きっと彼女、周囲の変化と自分の変化に戸惑って対応しきれず、自分探しを言い訳に、殻に閉じこもっちゃっているんだね」
そういう気持ちなら私も分かるな、そう言ってハルは懐かしそうに微笑んだ。
少女だったハルとでんでん子さんが重なって、僕は彼女のために何かできないかな、と思ってみたりした。
*
そんな話をすると、オグニは身を乗り出して興味深そうに頷いた。
「でんでん子さん? その子、いいねえ。役に入り込むタイプ、逸材だねえ」
嬉しそうにハイボールを傾けている。
今宵はゼミの飲み会。演劇部長のオグニは、ゼミの同級生であり先輩だ。大学にかれこれ何年在籍しているのか分からぬ手合いである。演劇馬鹿と申しますか。
「さあ、次の店行くかー」
オグニに引っ張られて、オグニと僕と角倉氏の三人で学生街の夜の巷を徘徊する。おすすめの「ミルクバー」に連れて行ってくれるのだとか。なんだかいかがわしい呼称、僕は全然行きたくないのだが、何せあのひょろ長い体のどこにそんな力があるのだか、オグニが放してくれないので仕方がない。不可抗力です。
「お」
オグニがふと足を止めた。僕も目を上げる。
「あ」
「む」
さすがの角倉氏も声を洩らす。
夜の街の煌々と瞬くネオンサイン、それよりも華やかな存在が、道行く人々の視線を奪う。
姫だ。
行く先の路地を、高いハイヒールを音もなく動かし、赤いワンピースドレスは緩やかな曲線を描く。ゆるいウェーブの掛かった艶やかな黒髪からはここまで芳香が届きそうだ。長い睫毛、悩ましい目元、赤い唇は潤っていて。華やかな化粧がいっそう彼女の魅力を引き立てている。まるで夜の街の海を長い尾ひれを揺らして優雅に泳ぐ熱帯魚のようだ。それだけ美しく皆の視線を奪うのに、男たちが誰も声を掛けないのは、孤高の美しさ、その圧倒的な存在感ゆえだろう。なのに。
「おい、待て!」
角倉氏が姫のあとを追おうと一歩を踏み出す。オグニを真ん中に肩を組んでいた僕らはバランスを崩し、その場でズベーッと三人仲良く地面に突っ伏す始末となった。
「いてて。びっくるするなあ。急に張り切るなよ」
「すまん」
「もうー。角倉クンくらいだよ。姫に声を掛けようとするような無謀な男は」
膝をはたきながら起き上がった頃には、姫はすでに姿を消していた。
「姫?」
角倉氏が眉根を寄せる。
「うん、皆そう呼んでる。夜の学生街をあんな感じで歩いてるんだけど、誰もがその美しさに目を奪われてる間に姿を見失ってしまうから、その素性は分からない。うちの大学の学生らしいんだけど、キャンパス内で誰も彼女の姿を見た者はいないんだって」
「馬鹿な」
角倉氏が姫の去った方向を見遣りながら茫然と立ち尽くしている。あの朴念仁の角倉氏が心奪われるくらいなのだから、姫の美しさは察して余りある。
「まあ、七不思議みたいなものだよ」
角倉氏を励ます。
「いやあ、いいものを見たなあ」
オグニも長い体躯を起こし、姫の去った方向を見遣る。
「あの美しさ! 自分の美しさを引き出す方法を知っているのだろう。そして、場の空気を一変させる雰囲気、気迫。いやあ素晴らしい。うちの看板女優に欲しいものだね」
美しさは強さだよ、とかなんとか、オグニ演劇部長が長い腕を組みながらしみじみと自説を展開している。
僕は、なんとなくでんでん子さんを思い出していた。姫みたいな強さを得たら、でんでん子さんもきっと楽になるだろうに。けれど、強さって何だろう。こんな風に、客観的に他者がラベリングできるものなのだろうか。
正反対の二人。夜の街で光を放つ姫は白、でんでん子さんは黒。いや、でんでん子さんは黒って感じじゃない。でんでん子さんが白で、姫が黒。いや。白? 黒? 黒? 白? まるでミルクを落としたカフェオレみたいに思考がぐるぐる回る。
「ミルクバー」は、文字通り、全国津々浦々の牛乳を取り揃えた、牛乳を使ったカクテルや料理が売りのいたって健全な店だった。角倉氏はご満悦。僕はちょっとガッカリしてしまって、いや、べつに、ごほん。僕は、弱い。
*
でんでん子さんを再び見かけたのは半月後、そろそろ梅雨も明けようかという頃。
前回と同じく教室の窓の外にでんでん子さんの姿を捉え、飛び出した角倉氏を、僕も追い掛けた。
しかし、猛獣・角倉氏の俊足に追いつくはずもなく、ようやく紫陽花の花壇に到着した時にはすでにでんでん子さんは詰問責めにされていた。
「お前はまだそんな格好をしているのか」
もちろん今日も晴れているのだ。
雨傘長靴レインコートにゴーグルのでんでん子さんは恐縮している。その手にぎゅっと握っているのはシュノーケルのようだ。
「あのその、でもですね、だって友達から、あんた大学入って変わっちゃったね、とか言われちゃいますし……」
「だが、周りの連中は言うだけだ。そうやって牽制して、お前を置いてどんどん変わっていくのだろう」
「はひ、でも、大学生になったからって変わるのも、なんだか違うのかなあって……」
「だがお前は、今の自分を、本当の自分だとは思っていないのだろう」
「……でも……」
でんでん子さんがしょんぼり俯く。レインコートのフードから、長い三つ編み髪がこぼれ出る。毛束の先に小さな水滴が光っている。こんなに暑い日にレインコートなんて着ているから、汗だろう。それとも涙? それとも。
「お前は、これだ」
角倉氏の太く真っ直ぐな声に、でんでん子さんが顔を上げる。僕も、角倉氏の指す先を追う。
「かたつむり?」
角倉氏の指す先には、赤い紫陽花の葉の上に小さなかたつむりの殻がくっついている。丸く小さな渦巻きは固く閉ざされて、宿主は顔を出しそうにもない。角倉氏も彼女のことをかたつむりみたいだと感じていたのか、と思ったが。
「ちがう」
角倉氏は指先をちょんと、薄っすら赤く色付いた紫陽花の花弁に触れた。
「紫陽花だ」
「え?」
でんでん子さんも僕も、角倉氏を見上げる。
「環境によって姿を変える。しかし、その本質には変わりない。どれも本当の自分だ」
???
ゴーグルを外したでんでん子さんは大きな瞳で、じっと角倉氏を見つめている。
「花はただ、咲けばいいのだ」
彼女は視線を再び紫陽花に向ける。僕も彼女同様、角倉氏の言わんとすることが分からない。
「あの……」
彼女が口を開こうとしたその時、
「おっやあー?」
背後から張りのある声がした。振り返ると、オグニがひょろりと立っている。
「これはこれは。きみが噂のきみだね。このお天気に、周囲の目も気にせず雨具の完全防備とは。実に独創的で、素晴らしいね」
「え。あの。え。え。その。???」
「いやあ演劇部に向いてるよ。興味あるだろ、きみ。まあまあ見学に来たまえよ」
「え。や。あのあの、そのぉ……!」
でんでん子さんは戸惑いと救いを求める目を僕らに向けたが、演劇部長の剛腕に捕まったが最後、逃れられぬ。小さなでんでん子さんはオグニに抱えられるように連れ去られていく。
「あ、あのぉ、あじさいの花ってぇ~……?」
でんでん子さんの声が遠ざかっていく。
「その演劇部長に聞くがいい」
角倉氏、仁王立ちのまま一歩も動かない。心なしか笑っているような気さえする。
僕がでんでん子さんの姿を見たのは、その日が最後となった。
*
秋口、久々にゼミで顔を合わせたオグニから、文化祭での舞台公演のチケットをもらった。
今回の公演にはずいぶん入れ込んでいるようで、オグニは前期の途中七月頃からゼミにも顔を出さなくなり、練習に明け暮れていたようだ。また来年も学年を一つ重ねることになるかもしれない。でんでん子さんのことを聞こうとしたが、忙しそうにばたばた立ち回っており、結局聞けずじまいだ。その後、演劇部に入ったのだろうか。小道具や衣装係とか、彼女が自分の居場所を見つけられていればいいなと思う。
文化祭の公演はハルと観に行くことにした。ちょうどアルバイトがあるという角倉氏からも、チケットを譲られたのだ。
秋の空はどこまでも高い。
演劇部の公演のある講堂までキャンパス内をハルと歩く。紫陽花の花壇はもう剪定されたことすら分からないくらい葉っぱだけの状態になっている。
「わっ。ごめんなさい!」
講堂の近くで、うしろから走ってきた人とぶつかった。
「おわっ」
「ご、ごめんなさいぃっ」
Tシャツにジーンズ姿の小柄な女の子が、ぴょこんと頭を下げる。長いお下げ髪がくるんと揺れる。女の子はそのままパタパタと講堂の方へ全力疾走していった。僕はその後ろ姿を見送る。
「でんでん子さん……」
「え?」
ハルが首を捻る。
「今の彼女、でんでん子さんだよ。もう雨具を着ていなかったけれど」
「じゃあもう、かたつむりじゃないってことだね」
「あ、そっか」
彼女はもう「でんでん子さん」じゃないのだ。二人で小さくなっていく後ろ姿を見送る。
講堂へ向かって走っていったということは、きっと演劇部に自分の居場所を見つけたのだろう。
開演前に席に着く。すでに満員御礼だ。
「ここの演劇部の公演は、相変わらずすごいね」
ハルが感嘆する。
「ああ。特に今回は鳴り物入りで。オグニが看板女優のためにオリジナルの脚本を書いたらしい。練習にも相当な熱の入れようだったよ」
「看板女優?」
「うん。去年看板が卒業して以来、オグニのお眼鏡に適う役者が不在だったんだけど、ようやく見つけたらしい」
「へえ。ミス・キャンパスか誰かかな」
「かなあ。教えてくれないんだ。楽しみにしてろって言うばかりで」
「お楽しみだね」
「おれのファム・ファタルを見つけたとかなんとか言ってたけど」
「うわ、それはちょっと引く」
「はは」
ブーーーー……。
開幕を告げるブザーが鳴る。
暗転。
ゆっくりと幕が上がる。
広い舞台、スポットライトはただ一人に当たっている。
「あっ」
僕は思わず声を上げる。いや、僕だけでなく、会場のあちこちで小さな驚きの声が上がる。
「あれっ」
隣の席でハルも小さな声を上げる。おや、ハルも知っていたか。
紹介されずとも一目瞭然、舞台上で視線を一心に集める彼女こそが看板女優だろう。ゆるいウェーブのかかった艶やかな黒髪。長く華やかな睫毛。悩ましく彩られた目元。赤く潤う唇。
「――姫だ」
観客席から囁くような歓声が沸く。なんという幸運だろう、演劇部は紛うことない看板女優を手に入れたようだ。
芝居はカルメンをパスティーシュした悪女物のコメディだが、ヒロインは単なる悪女ではなく、時には少女のように無邪気に、時には聖母のように慈愛に満ちた女となり、男を翻弄する。演劇部長の渾身の脚本は、看板女優の魅力を余すことなく伝える。それを臆することなく完璧に表現する女優も大したものだ。観客は皆またたく間にヒロインの妖しい魅力に、舞台に引き込まれていった。
幕が下りてもしばらくは拍手喝采が鳴り止まなかった。
終演後もぼんやりと舞台の世界に耽ってしばらくは席を立てなかったほどだ。
「すごかった……」
言葉を漏らすと、隣でハルも感慨深げに呟く。
「うん。さすが、あじさい姫だね」
「え?」
「え?」
え? と言った僕に、ハルもえ? と返す。こだまでしょうか。
「さっきのヒロインの子、七変化だねって」
疑るようにハルが言う。
「ああうん。少女から老婆まで演じ分けて、すごいよね」
「そう。角倉くんが言ったように咲いたんだよね。まるで紫陽花みたいに」
「え?」
「え?」
今度は露骨に眉を顰めたハルが僕に言う。
「さっきのヒロインの子、誰だか知ってるよね」
「もちろん。姫でしょ。さすが華があるよね」
「ええと、姫だかなんだか知らないけど、彼女、でんでん子さんだよ」
「ええっ?!」
講堂に僕の素っ頓狂な声が響く。姫が、でんでん子さん?
「本当に?」
「本当に。もうこれだから男って……。いや、角倉くんたちは気づいてたのかな」
「そうなの?」
「たぶんね」
会場をあとにした僕らは、三日月館までぷらぷらと歩きながら話す。道には秋の花が咲いている。
「紫陽花って七変化とも呼ばれるんだけどね、なぜだかわかる?」
「いや」
「花の色が移ろいやすいから。例えばね、土壌の酸性度によって花色が変わったりするの」
「へえ」
「酸性の土だと青い花になるし、アルカリ性の土だと赤い花になりやすい」
「リトマス試験紙とは反対なんだ」
「そうそう。環境の変化を受けやすいんだね。それでもどんな環境であっても花が開くことには変わりない。それが紫陽花の生きる姿」
「うん」
教室の前の紫陽花の花壇を思い出す。そういえば……。あの紫陽花は、角倉氏のカルシウムたっぷりの牛乳を飲んだのだった。
ハルが続ける。
「環境の変化の影響を受けて自分が変わってしまったように思えても、それが自分自身であることには違いない。むしろ、人間とは環境の影響を受けるものだということを、角倉くんは言いたかったんじゃないかな」
「そうかあ」
と言いながら、それについて僕は懐疑的だ。角倉氏がそんな深いこと言うかなあ。
「その点では演劇も同じだったんじゃないかな」
「オグニも?」
「うん。役者さんは与えられた脚本の中で、都度違う自分になりきるでしょう。それって、環境に影響されやすく、のめり込みやすい彼女には向いていたんじゃないかな。役に没頭するという意味で」
「なるほど」
「変わることは悪いことじゃない。むしろ、彼女の場合、変化しやすい自分こそが本性だったってことだろうね」
「そこで、彼女は自分の居場所を見つけたということだね」
「うん。ぴったりの居場所をね」
彼女はまだまだ化けるだろう。
実際、あじさい姫は演劇部でのちのちまで語り継がれる伝説となる。卒業公演で、それまで頑としてハッピーエンドの喜劇物しか書かなかった演劇部長が、看板女優のためにはじめてシリアスな悲喜劇を書き上げ、彼女はそれを見事に演じきる。短くテンポの速い上演時間の中で、彼女は一切観客をしらけさせることなく、十の場面と十三の役と八百万の感情を表現した。たった一人きりの舞台で! あの角倉氏が泣いたという話さえある。評判は学内に留まらず、その脚本、椿姫をオマージュした『紫陽花姫』はプロの劇団でも上演されたものの、彼女ほどあの難しい役で観客を魅了できる者はついぞいないという。――けれど、それはまだ先の話。
僕らは幸運にも、あじさい姫が花開く瞬間に立ち会うことができたのだ。
「あーあ、私もいつか花開くかなあ」
うーんと伸びをしながらハルが呟く。風に乗って金木犀が香る。暮れゆく空には星が瞬く。
ハルがぴょこぴょこと横断歩道のしましまの白い部分だけを踏んで進む。幼い頃から変わらない。僕もそれに続く。白い線から落ちたら海! 道路の黒い部分はサメの泳ぐ海だから、幼い僕らは白い地面から落ちないように手を繋いで渡った。いつだって一生懸命だった。
「うん、ハル。二人で大輪の花を探しに行こう。冒険だ。馬に乗ってどこまでも」
「はあ?」
「新しい世界で僕らはどんな花を咲かすだろうね」
「ええ?」
ハルがわけわかんない、って顔をする。
あの日溢した角倉氏のための牛乳を、僕はまだ弁償していないのだ。大学の夏休みはもう少しだけ残っている。夏の間にバイト代も溜まった。ハルは一緒に北の国への旅についてきてくれるだろうか。
あじさい姫 香久山 ゆみ @kaguyamayumi
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