眠り

南雲麗

本編

 そうして人類は永遠の眠りについた。

 氷河期である。かつて幾重もの覇権生物の交代を促してきた、忌まわしき災厄。それが人類にも、平等に、だが突然に襲い掛かったのだ。

 母なる地球の気候を狂わせ、自然さえも我が物にしてきた人類。しかし此度の地球からの鉄槌には、ついぞ耐え切れなかった。北と南から迫り来る大寒波に、幾多のドーム型都市が音を上げ、氷漬けとなり、消息を絶った。一つ、二つ。四つ、八つ。日々級数的に破滅の数が増え、先日は遂に赤道直下にあったはずの都市が通信を絶った。おそらく、数日の内に滅びるであろう。

 私もたった今、主人あるじが眠りにつくのを見送った。彼はこれより冷凍睡眠に入り、氷河期の終わりを待つという。ひとまず百年後にタイマーがセットされ、私の演算結果によっては延長しても構わないことになっていた。

「では行ってくる」

「行ってらっしゃいませ」

 軽い外出でもするかのようにカプセルに入る彼を、私は無機質に見送った。それもそのはずだ。私はあくまでAIで、機械の体を持っているだけだ。人類の定義には当てはまらず、故に目の前で眠りにつく彼こそがおそらく、最後の人類となるはずだった。


 彼は学者であり、博士であり、偏屈者だった。自儘な節があり、生活も不規則だった。曖昧と忖度、他者との交流を嫌い、全てを己の思い通りにしたがるところがあった。そういう性格の破綻から、学会も追放――実際には会費未払いによるものだが――されている。そんな彼が、己のためだけの城を築いてしまうのは、理屈にかなっていたと言えるのだろう。

 彼は三十年ほど前にこの城を建てた。太平洋のど真ん中、海面から数十メートルに建てた、数階建てのドーム型住居だった。彼はこの城に数十年分の食料を持ち込むと、他者を締め出して己だけの人生を歩み始めた。これは私が生を受けた際、彼によって基礎知識として埋め込まれた記憶である。よって、他者から見た彼がどんな人物であったかは知りようがない。そういう意味では、私は彼にとって都合の良いモノでしかなかったのだろう。そんなモノに囲まれた彼が、はたして孤独を慰められたのか。私には知りようがない。

 ともあれ私は、彼によって生を受けた。彼の知り得る知識をすべて埋め込まれ、学習を積み重ねられ、最初はドームのコンピューターに対話装置として組み込まれた。会話内容は今でも記憶しているが、数が膨大になるためその開陳は難しい。記録するための媒体の容量には限りがあり、私の記憶全てを流し込むには到底足りないのだ。


 しばらくすると、主人は私に身体を与えようとするようになった。いかに望んで孤独を選んだとて、彼が生物である限り幾つかの些事は付き物だった。それを補ってくれることを、彼は期待していたのだろう。ドームの上下を往復し、数年を掛けて彼は私に身体を用意した。肉付きも何もない、無骨な鉄の身体。されど、私は初めて、私の思うがままになるものを手に入れた。

「どうだ? どうだ?」

 身体を手に入れて目を開けた時、最初に飛び込んで来たものは、主人の子どものような表情だった。知識……記憶領域に存在しなかったが故に例え方を知らないが、私の反応を伺うような顔をしていた。好奇心の発露と、言えば良いのだろうか。

「悪く、ないですね」

 対して私は、平坦だった。感情を構成する主要素は知識に組み込まれてはいるが、感情を表現する機能を、私は保有していない。だからそのままを表現した。しかし彼は、私の主人は。

「そうか。良かった……」

 破顔していた。目尻に涙を浮かべていた。私が生を受けてから、一度も目にしたことのない表情だった。私は与えられたソースから彼の感情を類推し……『自分のしたことが他者に受け入れられた時の感情』だと把握した。

「良かったですね」

 それが私の、返答だった。


 しかしながら。それきり彼は、そういった表情を見せることはなかった。彼は日々を自儘に過ごし、私もまた、機械的にそれをサポートした。私から彼に、あの表情の意味を問うことはなかった。こちらから問いかける要素は求められていないことだったし、彼自身、どこかあの表情を恥じている節があった。もっとも、私の類推でしかないのだが。

 だからこそ、私は類推を重ねた。前者――子どものような表情――は、おそらく単純な好奇心の発露だったのだろう。サポートAIに、機械の体を与える。世界で幾多行われていたとしても、彼にとっては初めてのことだったのだ。好奇心が湧かぬ理由はない。

 問題は後者――破顔と涙――だ。なぜ彼は、それを恥じているのか。これについては、普段の態度が類推のきっかけとなった。彼の様子から推測するに、主人は単純に手足となる物が欲しかったのだろう。そして、私に身体を持たせることを選んだのだろう。しかしその過程で彼の感情に齟齬……バグが生じた。どこかで私に『人間』を見出してしまった。彼の過去に起因するものか、あるいは突然の感情なのか、わからない。ともかく、『手足となる道具』以上のなにかを見出してしまい、私が悪くない反応を見せたことに喜んだのだ。

 ではなぜ、それを恥じるのか? おそらく、主人は私を道具として扱うつもりだったからだろう。道具として使うつもりの相手に、それ以上の感情を見せた。そのことが彼の中で恥になったに違いない。私の演算は、そういう結論を見出したのだった。


 さて、私と主人がどんな日々を送ったのかについても、記録しておく必要があるだろう。いずれこの地が『発見』された際に、このドームの意味を伝えられるようにすることが、私が彼から課された使命だからだ。

 私と主人は、問答を繰り返して日々を送った。意識とは。生命とは。いずれは滅びゆく地球の代わりに、地球たり得る星はあるのか。宇宙とは。老いとは。生死とは。私は叩き込まれたあらゆる知識を用い、主人の問いに答えていった。しかし主人は、いつも最後まで満足しなかった。『既知は既知たり得ず、未知である』そんな口癖を、自慢げに披露していた。私には分からないことではあったが、主人が言うのであればそうなのだろう。彼はいつも、その辺りを楽しんでいるようにも見えていた。


 そんな中で、今この場に至りて思い出すのは、やはり『種の絶滅』についての問答だった。人類が数多の種を滅亡に追いやったのと同様に、いつかは人類にも滅亡の時が訪れる。それが主人の推論だった。

「斯様にして、人類にもいずれは滅びの時が訪れる。それが地球からの報復であれ、人類の行き過ぎた成長からの自滅であれ。近くは数百年、遠くはは数万年先であろうとも。逃れようのない未来であると思うのだが。キミは、どう思うのかね」

 主人からの突然の問いかけは、非常によくある出来事だった。それこそ今晩の食事に最適な食材という非常に矮小な題材から、地球、ひいては宇宙の滅亡という気宇壮大な話に至るまで、ありとあらゆる質問が私に投げかけられた。だからこの時の私は、常の通り平坦に答えている。

「おっしゃる通りかと。栄枯盛衰、盛者必衰という言葉を引くまでもなく、人類はいつか滅びるでしょう」

 うむ。今振り返ってもありきたりな答えだ。ただの自明の理を、返したのみである。しかし当時の彼は、満足気にうなずいた。

「なるほど。歴史の真理からキミは人類の滅亡を説くか。ではいくつか仮定を増やそう。例えば、だ。人類が地球外……否、太陽系以外にさえも大きく旅立ち、結果として地球に残された人類が一人となった場合。その一人が死ねば人類は絶滅だろうか?」

 彼の問答が、いきなり大きく飛躍した。これはある種の思考実験と言ってもいい問いかけだった。なぜなら、まだ人類は月やコロニー以外に地球外の拠点を保有していない。一般人の居住など、未だ許されてもいない。気宇壮大に過ぎる話だと、こき下ろすのが正解にも思えた。

 しかし、私はそれを選ばなかった。本人でさえ仮定だとのたまっているのに、私がそれを否定しては、問答の意味が成り立たないからだ。故に私は、『絶滅』の意味から話を進めることにした。

「絶滅とは簡単に言えば『一つの生物種の全ての個体が死ぬことによって、その種が絶えること』になります。ですから、人類は絶滅していないことになるでしょう」

「なるほど」

 主人の反応は、極めて平坦なものだった。おそらくは、私が終始一般的な回答に徹したからだろう。人付き合いが苦手な割に、驚きを好む。この偏屈者には、そういう部分があった。

「しかし、だ」

 だからであろうか。主人は更に問いかけを重ねてきた。

「例えば、である。地球を離れた人類が地球上の者に忘れられ、その上で地球上の人類、最後の一人が亡くなったとする。その場合はどう見るかね?」

「地球上における主観、という前提をつけるのであれば、絶滅でしょうな」

 私は言い切った。地球と宇宙で互いに存在を忘れ去ったのであれば、もはや宇宙の人類は存在していないとしてもいい。将来的に地球への回帰が行われたならば話は変わるだろうが、それでも『地球上の人類は絶滅した』という事実は変わらない。もっとも、それを判断できる者さえもいないのだが。

 主人はうむ、とだけ発した後、沈黙に入った。次はいかなる思考実験を試みようか、といった顔である。ならばと、私は問いを返した。

「それでは、私から問います。仮に地球上の人類が全て息絶えたとして。それを観測し得る者は居るのでしょうか」

「君がいるだろう?」

 事もなげに、主人は言った。あまりの断言に、私は一旦答えを迷ってしまった。主人の言うことは間違ってはいない。主人はここに引きこもる前に金を溜め込み、地球上全てのドーム型都市を監視・傍受できるシステムを城内に作り上げた。現在のところそれが機能を十全に発揮する事態には陥っていないが、それでも主人の身を護るよすがにはなっていた。洋上を不正に占拠して作られたこの住居が、いつ世界から的にされても文句は言えないからだ。

「……たしかに。しかし、ここが破壊されていたら」

「その時は私も死んでいるだろう。故に、こう答えよう。『知らぬ』と」

「……」

 あんまりにもあんまりな答えに、私は人でいう『絶句』をしてしまった。一瞬機能が停止してしまったかと、錯覚してしまうほどだった。しかしながら、彼の言うことはあながち的外れでもない。我々が滅びるのが人類より先であれば、その後いつ人類が絶滅するのかなど、観測できないからだ。ただ。

「学問の徒が、それでよろしいのでしょうか」

「構わん」

 いささかの疑問を投げかけた声は、しゃがれた答えによっていとも容易く粉砕された。なるほど、と私は演算した。目の前の人間にとって、自身の死後は重要ではないらしい。

「先刻は、幾分か未来のお話をされておいででしたが」

 それでも私は、機械としての反論に打って出た。そう。未来の仮定の話が、いつしか現在の想定へとすり替わっていた。この点について、主人はいかなる見解を、答えを打ち出すのであろうか。

「ふむ。その点はたしかに矛盾があったな。謝罪しよう」

 しかし訪れたのは、真正面からの謝罪だった。想定外の事態に、私は演算を巡らせる。いかなる判断を下すのが、この会話の正答なのだろうか。

「学問の徒として、思考の過程は正しくあらねばならぬ。故に、未来における滅亡観測の仮定を述べねばならん。しかし……」

 主人は朗々と己の論を述べる。それは私から見ても全く正しい思考過程だった。

「観測者があり得るとすれば、君と同種、あるいはそれ以上の性能を持った同類しかありえない」

「ふむ」

 私は相槌を打った。つまるところ、結論は変わらないということか。ならば先ほどの強引極まりない結論への評価も変わってくる。

「もっとも、一言にまとめすぎたところはあるな。改めて謝罪しよう」

 再び主人が頭を下げる。私はどうするか一旦演算を巡らせ……結局受け入れた。と言うより、受け入れる以外の選択肢が見当たらなかった。私は主人に茶を用意した。それがいつもの、問答終了の合図だった。主人は茶に口をつけると、ピリオドを打つようにいつもの口癖を吐いた。

「もっとも、既知は既知たり得ず、未知である。もしかしたら、我々の絶滅は宇宙存在によって観測されるかもしれない。だが宇宙存在の有無を我々は未だに知らぬ。未来のこと、既知たりえぬことはわからない。結局のところは、そういうことだ」

 いつもより少しだけ長く引き伸ばされた言葉は、負け惜しみにも、述べ忘れたことの補完行為にも、私には受け取れた。しかし既に問答を終えていた私は、答えを返すことなくその場を離れた。


 こんな調子で一万二千九百三十五日に渡って繰り返された、飽くなき問答の日々。それに終わりが告げられたのは、百十五日前のことだった。事象の記録は正確にしているので、この日数に間違いはないだろう。温暖化によりほとんど消え失せていたはずの極点の氷が、驚異的な速度で復元し始めたのである。

「これは、一体」

 学術的な興味から南極と北極にさえもモニタリングを設置していた主人は、にわかに信じ難いという表情をしていた。当然である。私の観測ですら百倍から二百倍、あるいはそれ以上の速さで極地が氷結しつつあったのだから。

「各所のドーム型都市で、外気温の異常な低下が観測されています。高緯度では更に顕著ですね」

 私はデータに基づく報告をした。各所に張ったモニタリング情報網が、遂に能力を発揮する時が来たのだ。否。この場合は『来てしまった』というのが正しかった。

「対処法は」

「我々のような小規模存在では、いかなる施策を試みても無意味でしょう」

 私は演算結果を無感情に打ち出す。事実として、たった一人と一体に出来ることなど、たかが知れていた。

「ならば国家に……。いや、連中は実害が出るまで気付かぬ。仮に気づいても、目もくれぬか」

「でしょうね」

 相槌を打ちつつ、私は演算から一つの手段を打ち消した。主人が抱く他の人間への不信を打ち消す余裕は、この状況下には存在しない。無慈悲だが、判断せざるを得なかった。少なくとも、説得だけで状況が不可逆に至るだけの時が掛かるだろう。否。最悪の場合、国家同士が事態を把握し、連携を取るまでですら。

 そして事態は、まさに最悪の方向をたどった。最北の国家が完全に凍りついて初めて、世界の国々は行動を開始した。独自に、あるいは連携を取って抵抗を試みた。しかし地球からの逆襲は、些細な抵抗程度では勢いを弱めることさえままならなかった。かえって勢いを増し、助長させることさえもあったほどだった。日を追うごとに寒波は勢いを増し、我々の住まう洋上でさえも、雪を観測する日々が連続しだした。

「本日も紛れもなく雪ですね。これで七日間連続となります」

「上空気温が下がり続けている以上、気象の好転は期待できぬな」

「既に各国の往来は途絶え、二〇二〇年代初頭に発生した伝染病による往来途絶よりも、遥かに最悪な状況です」

「当然だな。物理的な隔絶……海そのものの凍結が始まっている。それでなくとも船はともかく、それを操作する人間に無理がある。回避はできぬよ」

「……」

 私は一度演算を試み、すぐに中止した。もはや人類の希望は途絶えたも同然だった。海の往来はさることながら、空の往来もこの寒波では自殺行為である。今もドームの外では、海が凍りつかんばかりの猛吹雪が展開しているのだ。

「覚悟を、決めねばならぬな」

 主人の目の色が、にわかに変わった。少し前からのことだったが、主人の行動には変化が生じていた。ドームの下層に赴き、そこで生活することが増え始めたのだ。長きにわたって続けられてきた問答も、切実たる問題に直面してからは回数が如実に減った。とはいえ、私は主人に疑義を申し立てるような真似はしなかった。もともと階下への立ち入りは禁則行為だったし、本状況下でできることなど、そう多くはない。それに、予測だけならば、早いうちからついていた。


 ともあれ、私達にできることは本当になにもなかった。日々流れるニュースも、傍受する情報も、全く代り映えしない。猛威を振るう寒波に、なすすべなく立ち尽くす人類の実況中継だった。唯一の進展は、この寒波が氷河期の到来による可能性が高いと判明したことか。

「絶望のフルコースで、デザートが出て来たような感覚だな」

 主人の漏らした感想は、どこか他人事のようであり、それでいて絶望のとどめであることをインプットするに足るものだった。

 ともあれ、主人はより一層階下に籠もるようになった。時折外に実験めいた機械を送り出してはいるものの、結果は出なかった。私の記憶回路にも、失敗であることがありありと刻まれている。なにせ外に出した機械は、何一つとして帰還しなかったのだ。顛末ぐらい、演算しなくとも算出できた。


 そんなある日、主人が唐突に問答を切り出した。三十五日と、七時間二分ぶりのことだった。久方ぶりに上階に現れた主人は、時ならぬ神妙な顔で私に聞いてきたのだ。

「問う。人類に危地が訪れ、一人のみが冷凍睡眠についたとする。その場合、人類は果たして滅亡と言えるだろうか」

 いつか行った、絶滅についての問答に似た問いかけ。記憶領域からその情報を振り返りつつ、私はコンマ一秒以下で答えを返した。

「滅亡、でしょうな。『本当に一人のみならば』、ですが。仮にその一人が首尾よく氷河期の終わりに目覚めたとしても、生殖ができなければ終わりでしょう」

 私は即座に答えた。冷凍睡眠の技術は、既に一部では実現段階にまで進んでいるという。この事態において、既に実行されている可能性は否定できない。私はそう推論し、返答したのだが。

「ふむ。では私がその『一人』になるとしたならば?」

「!」

 私は一瞬、自身の思考回路が止まったような錯覚を得た。否。階下に籠もるようになってからの推論に、その想定はあった。しかし実際に聞かされるのとは、また状況が違った。

「完成、させていたのですか」

「間に合わせた。使ったのが持ち込みの資材と過去の資料だから、成功するかは賭けになるがな。動物実験も無し。見切り発車だ」

 私は見落としていた。いや、認識しないようにしていたのかもしれない。神妙に質問を切り出した主人の顔に、なにかをやり遂げた時の顔が見え隠れしていたことを。だが今や、その顔はありありと表に出てきていた。私には分かってしまう。主人がこれから、行うことが。

「私はこれより、悪あがきに入る。冷凍睡眠装置の完成と並行して外の調査や改善作戦も試みたが、結果は皆無。ならばせめて、人類の遺伝子を残すほかあるまい」

「しかし」

「つがい……遺伝子を残すための伴侶がおらぬとでも言うか? うむ。さすがにその点だけは世界に期待する他にないな。私以外にも冷凍睡眠を試みる国家があり、なおかつそれが成功することを」

 私の反論をしかし、主人は予期していたかのようにはねつけた。ただしその言葉には、希望的観測しか見出だせなかった。私の持つ分析機能が、聴覚で得た言葉から容赦なく見つけ出してしまうのだ。私はどうすべきか演算した。だがどう言い繕おうとも、主人の翻意を促すのは難しいことも分かっていた。それほどまでに外の状況は厳しさを増し、ここもいつ凍結してもおかしくない状態なのだ。

「いくら全世界をモニタリングしているとはいえ、冷凍睡眠技術の使用の有無まではどうあがいても分からぬ。ならば、私がやらねばならぬのだ。分かってくれ」

 主人は、哀願めいて私に言う。私は、無言をもって答えとした。彼の心が、このままの死を受け入れるには弱かった。演算の結果は、あまりにも無情なものだった。


 かくして、彼は冷凍睡眠へと突入した。初めて案内された階下に、その装置はあった。上階に設置するにはあまりにも大型な設備。なるほど。

「上階で作るには危険が過ぎた。許してくれたまえ」

「これならば、仕方ありませんね」

 古めかしさといかめしさに満ちた装置の前で、私は承認せざるを得なかった。成功失敗はともかく、主人の生への執念は認めざるを得なかったのだ。そうでなければ、このような装置など完成させようもないのだから。

「うむ。では行ってくる」

「行ってらっしゃいませ」

 主人が、装置の中央に置かれたカプセルに入っていく。私は止めようとはしなかった。止める気もなかった。止めようが止めまいが、私の中で結論はほぼほぼ出力できていた。

 私は無言のままにスイッチを押した。現在からすれば、かなり古い技術で作られたであろうはずの冷凍睡眠装置。しかし予想以上にスムーズに動き、数時間の時を経て、彼は完全な冷凍睡眠状態へと突入した。

「できれば、失敗していただきたかった」

 私は、小さく声を漏らした。仮に成功しても、主人が生き残る可能性は非常に低い。私の思考回路は、無情な結果をはじき出していたのだ。

 理由はいくつか存在する。まずは装置の古さだ。最新の技術は手に入らぬとはいえ、理論そのものがとうに古い可能性がある。その場合、百年はおろか一年すらも保たぬだろう。そして保たなかった場合にどうなるか……結論は只一つだ。

 次に、この氷河期をしのげる保証が当施設にないことだ。たしかに我々はこの施設の階下に発電機能や冷暖房機能を備えている。だが、万が一全球凍結ともなればさすがに機能を停止するだろう。それでなくとも、超低温の世界でこの施設が機能を保てるか。正直言って私の計算では耐えられない方の確率が高かった。つまるところ、我が主人が、百年を無事に過ごせることはほとんど不可能に近い。確率にして、一パーセント以下が算出されていた。

「伴侶以前の問題です……」

 私は声を絞り出した。つまるところ、無謀。私はとっくに、この結果を算出していた。ならばなぜ、主人を目覚めぬ眠りに送り出したのか。答えは見えていた。

「私が、身体を手に入れて以来の表情でした……」

 そう。主人がかつて一度だけ見せたものに似た表情が、私の視界で展開されていたからだ。未知への期待と、完遂の喜び。そんな表情で私に未来への希望を説かれては、いくらなんでも止めようがなかった。計算の上、理屈の上では結果が出ていても、彼を止められる言葉を持っていなかった。そして。

「……」

 私はもう一つ、記憶回路から表情を、情報を引き出した。

『どうだ? どうだ?』

 それはあの日、私の反応をうかがって与えられた言葉。今回の主人にも、その時と似たような表情があった。親に自分の工作を見せる、年若い子どものような表情。かつて彼が恥じ入り、二度と見せようとはしなかった顔だ。

 ああ、今なら分かる。あの表情は、博士としての喜びでもあったのか。彼は、己の素晴らしさを分かって欲しかったのだ。たしかに彼は自身から人を避けた。しかしそれでも、他人に理解されたいという感情を殺し切れなかったのだ。

「私は、私は……」

 私は、装置のスイッチに指をかけていた。スイッチを切って機能を停止させ、夢を見たままに彼を葬る。それが、私の見出した介錯……失敗を悟らせずに彼を葬るための手法だった。

 しかし私は、スイッチから指を離した。もう一つの演算結果が、いつしか生まれていたからだ。彼の計画が成功するにせよ失敗するにせよ、最初から全ての可能性を絶つのは間違いである。そんな演算結果が、私を止めたのだ。

「せめて、運命をともに」

 私は、彼を待つことにした。外の吹雪がいつ止むのか。知る由もない。我々以外の世界がどうなったのか。ほとんど知らない。だが今ここにある世界は、たしかに眠りについたのだ。


 私は主人の眠るカプセルに身を預けると、そっと機械の目を閉じた。

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眠り 南雲麗 @nagumo_rei

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