Lumière
武沢 悠
Lumière
タグチさんのお店で買った一枚の真っ白なキャンバスに、パレットの上にデタラメに出した油絵の具を溶かないままで、叩きつけるようにぶつけていった。何色とも表現できない色で塗りつぶされたキャンバスをしばらく眺めた後で、わたしは訳のわかんないままで笑った。
バイトから帰ってきたリョウタはそんなわたしをオカシナものを見るような目つきで、何してるんだお前。と呟いた。そんなリョウタの声を聞くとまたわたしはおかしくなり、ひとしきり笑い続けた。
閉じられたカーテンで窓の向こうはわからないけど、きっと外は雨なんだろう。リョウタはタオルを取り出すと、少しばかり湿った髪の毛をクシャクシャと拭き始め、笑い疲れたわたしはリョウタに向かって明日も雨かなと聞いてみた。リョウタはバスルームに置かれた脱衣カゴにタオルを投げ込みながら、ちょっと考えた後で、多分な。と呟く。
口元に笑みを浮かべながらカーテンを開け雨に歪んだ風景を見つめると、暗くなった街は目を凝らさないと見えないぐらい細い雨が音もなく降り続けている。わたしの一番好きな雨だ。そういう雨が降ると裸足のまま外に駆け出して最後の一滴まで濡れていたい気持ちになるけど、わたしがそう言うとリョウタは、風邪引くぞバカ。と言って止める。その時のリョウタの表情は嫌いじゃない。そんな事を考えながらわたしは窓の外を眺め続ける。
フリーマーケットで買った銀縁の安い壁掛け時計に目をやって、そろそろ時間じゃないのかと言う声が聞こえるけど、わたしは一瞬何を言われているのかわからないまま、じっとリョウタを見つめる。そして、時間の事だと気づく。
鏡の前に座るといつものように化粧をする。ローションの上に薄くファンデーションを塗りさらに薄くアイラインを引く。厚化粧は好きじゃない。イヴサンローランのルージュを引いた後、ストッキングを履く。高いヒールの靴を取り出して、リョウタが怒らないようにオリーヴグリーンの傘を手にドアを開けて少し湿った空気に身を包む。
わたしの夜はそこから始まっていく。
その日、最初のお客さんはトクダさんだった。
トクダさんは一回ヤった後にまだ時間があるけどもう一度するかと聞いたわたしに、それより時間まで膝枕をしてくれないかと言ってわたしの膝の上に頭をのせた。トクダさんは四十歳とちょっとぐらいの年齢らしいんだけど、膝の上にのせられた後頭部を眺めていると思ったよりたくさんの白髪があって、実際の年齢よりもずっと老けて見えた。
わたしが思ったとおりのことを口にするとトクダさんは困ったように微笑んで、頭と神経の使いすぎなんだと自虐的に笑った。そんなトクダさんを見てわたしは、この人は白髪もだけど皺も多いんだなとケントウ外れな事を考えていた。
トクダさんはわたしの膝に頭を乗せたまま目を閉じ、寝息のように小さな呼吸を繰り返している。このまま眠ってしまうんじゃないかと思ったけど、なんとなく眠りはしないだろうなという事がわかる。肌が触れている間は普段よりもいろんな事がよくわかる。
どうかしたんですかと、わたしが小さな声で尋ねるとなんでもないといった感じにトクダさんは首を振り、もともと小柄な体をよりいっそう小さく丸める。どうすればよいのかわからないまま、わたしはそっと手を広げてトクダさんの手の上に重ねる。そうやって時間が流れていくのをじっと待っていると、トクダさんの口が微かに動いた。それはあまりにも小さな声だったのではっきりとは聞こえなくて、ありがとうと言われたような気がしたけど自信はなかった。
少しの間だけ聞き返すべきかどうか迷ったけど、それはなんだか失礼な事のようにも感じたし、何よりもトクダさん自身が聞き返される事を望まないだろうという気がして、セットしたアラームがなる時間いっぱいまで一言も口をきかないまま、わたしも同じように目を閉じていた。
二人目のお客さんは初めての人で、自分の名前を言わなかった。
彼は酷く乱暴な感じにわたしを物のようにあつかったけど、それは何だか変に不自然でまるで意図的にそうしているという感じで、なんとなくだけどそれがわかったので、本気じゃないけど抵抗をしてみた。彼自身もそうされる事を望んでいたみたいで、抵抗に答えるようによりいっそう乱暴にわたしをあつかった。
彼を相手している間、わたしは自分が半分になったような変な感覚になっていて、半分のわたしは彼がそんな風にわたしをあつかう事に対して、とても納得しているのだけど、もう半分のわたしは酷く混乱していた。なぜ、彼はそんな風にしなければならなかったのだろうと脳のどこかがコリコリするような違和感がずっと残る感じだった。
乱暴は乱暴だったけど、彼はわたしの体に小さな傷1つ残さないように気を使っている感じがして、それが余計にわたしの混乱を強めていた。なんでそんなややっこしい事をしなければならないのだろう。そんな風に怯えながらヤルぐらいだったらそういう店に行けばいいだけの話でしょう?
彼は自分がイってしまうと、残り時間はまだあるのにさっさと出て行って、わたしは沈没する船にわけもわからないまま取り残された子供のようにぼんやりとしていた。そして湯船にザブンと頭を沈め、脳の奥のコリコリをほぐす様な感じに頭を揉んだ。そうする以外にどうすれば良いのかわからなかった。
三人目のお客さんも初めての人で、自分の名前を言わなかった。
彼はきっちりしたスーツ姿の人で、神経質そうに何度も眼鏡に手をやっていて、終わるまで決して眼鏡を外そうせずにまるで精密機械か壊れ物を扱うかのようにわたしに触れ、初めての恋人に接する男のように丁寧にわたしと寝た。
最初に一切質問をしないでくれとわたしにタンガンした後、彼はわたしに触れている間中一人で喋り続けていた。
私はね、小学校の教師をしているんだ。最近は学級崩壊がどうとかよく言われているけどね、平穏無事に過ごしているよ。でも、同僚の担当には酷いクラスがあってね、授業中は生徒たちが黙り込んだままずっと後ろを向いている。お笑い種だよ。何が教師だろう。1人や2人の生徒の反抗をなんとかする事はできても、団結されると何もできゃしない。知ってるかい。今の教師は生徒一人を廊下に立たせる権限すらないんだ。そんな事をしたらすぐに人権侵害だって親が乗り込んでくる。職員室でも誰も同僚に話しかけない。トラブルに巻き込まれるのが怖いんだ。きっと今に教師を辞める事になるよ。ノイローゼ気味なんだ。幸いにも私はそんな風な立場にはなっていない。まだ子供たちは素直なほうだし、親たちも私を信頼してくれている。この間も面談で言われたよ。本当に真面目ないい先生で感謝してますだってさ。私はいい先生なんだよ。
彼は制限時間のアラームが鳴る寸前を計っていたかのようにイった。そんな風に最初から最後まで、まるで壁に向かって喋り続けるようなセックスが、気持ちのいい事なのかどうかまでは、わたしにはわからない。
四人目、その日最後のお客さんはタキグチさんだった。
時々、自分が溶けたゼリーみたいになった気持ちになるんだ。こめかみを軽く抑えながら、タキグチさんは続ける。いろんな型に流し込まれてばかりで、元々がどんな形だったのかわからなくなる感じだよ。そういうのってわかる?
ゼリーにもともとのカタチなんてあったのだろうかと考えながら、わたしはタキグチさんを見つめ、もちろんそんな答えを求めているわけじゃないんだろうという事を思う。お仕事大変ですよね、とわたしが言うとタキグチさんはうなずいて、ほんとにそうだよと呟き、カウンセラーなんて因果な商売さと続けた。
わたしはその事に関して返事をせず、水と混ぜたボディソープを手のひらに広げタキグチさんの背中を撫で続けながら、新しいボディソープを出しておかないとダメだなと考えていた。タキグチさんはわたしの手の動きに少しだけ体を震わせながら、ふと思いついたかのように呟いた。
そう言えば、何かの本で読んだよ。風俗嬢っていうのもある種のセラピーだって。そんな風に思うことってある?タキグチさんは首を回してわたしを見る。どうなんだろうと考えてから、多分テキセツな答えでない事をわかったうえで、セラピーの事はよくわかりませんからと答えると、タキグチさんは静かに微笑みながら呟く。きっと裸で肌に触れていないと言えない言葉ってあるんだよ。
自分がわからなくなる時があるんだ。いろんな人が僕を求めて何かしらの言葉や気持ちを伝えてくれる。でも、それはきっと本当は僕に対しての言葉じゃない気がするんだ。多分、僕という形を通した何かに向かって正直になってくれているんだろうね。本当は僕じゃない誰かでもかまわないような気がする。
わたしは黙ってタキグチさんに、体を洗い流すためのぬるま湯をかけ、どんな風に言えばいいんだろうと悩み、言葉を口にする。
「みんな、同じですから」
それはきっと救いの言葉ではない。少なくともわたしにとっては。
仕事上がりの少しばかり匂いのこもったロッカールームで、わたしはユキとどうでもいいような会話をしながら服を着替えていた。外からの空気を取り入れるだけのために作ったという感じの窓の向こうからは、微かな雨音と匂いが感じられ、まだ雨が続いていることに対してなぜだかほっとした。
服を着替え、ロッカーの扉を閉じようとしたとき、扉の裏側に取り付けられた小さな鏡がふと目に入り、その瞬間になんだかわからないままにわたしの目から涙がこぼれ落ちた。泣きたいわけでも悲しいわけでもなくて、偶然に重なったイロイロな何かがわたしのどこかを刺激したような感じだった。わたしはその涙が完全に止まるまで、じっと鏡を見つめていた。鏡の中のわたしも当たり前のことだけど同じように涙をこぼしていた。
大丈夫ですか。とユキが心配そうな顔をして言うので、なんでもないのとわたしは答えた。
ビルの裏口の扉を開き、オリーヴグリーンの傘を広げて歩き出すと、雨音が傘の上で心地よい音をたてる。空気が澄んでいるように感じるのは、多分朝と雨のせいだろう。街の空気がそんな風に澄んでいるはずがない。
まだ人通りの少ない道を水溜りを避けるようにして歩きながら、公園通りをまっすぐと進むと赤ん坊を抱いた母親が向こう側からやってきて、赤ん坊の泣き声が雨音を掻き消すかのように響き渡った。どうして、赤ん坊はそんな風に泣くのだろうかと思う。
だってあなたはまだ、本当に悲しい事を体験なんてしていないでしょう?
わたしは立ち止まったまま、赤ん坊と母親が通り過ぎるのをじっと待ち、振り返ってその姿が完全に見えなくなる事を確認した後で空を見上げる。弱いシャワーのように雨は降り続け、いっその事傘なんて放り捨ててしまえば気持ちいいだろうなと思う。でも、そんな事をすればきっとリョウタに怒られるんだろうなと思いながら、わたしは雨の中の公園を見つめる。
傘を放り、ハイヒールを投げ、全ての服を脱ぎ捨ててわたしは裸になる。そして、公園という舞台の上でステップを踏み、まだ消えていない街灯の下でわたしは踊る。空想の中では、わたしは自由になれる。そこには何もかもがあって、何もかもがない。
小雨の続く公園で、裸のままで踊り続ければいい。柔らかな光を浴びた雨は、わたしにこびりついたイロイロなものをきっと全部洗い流してくれる。見上げた空の上で交じり合う光は、雨の形をくっきりと浮かび上げてくれる。その雨の一滴一滴がわたしにとってのささやかな救いへの試みだ。
それでもとわたしは思う。一度色を入れたキャンバスが完全な白には戻せないように、消しゴムをかけたノートが新品には戻らないように、きっとわたし自身も元になんて戻れはしない。
どこかで誰かのクラクションが鳴り響くまで、わたしはそんな空想の中で踊り続けていた。
タグチさんのお店でいつものように一枚のキャンバスを買うと、タグチさんはいい絵は描けましたかと話しかけてきた。毎日のように開店時間に来るわたしをタグチさんはよく知っている。描けませんね、とわたしが答えると、タグチさんは老眼鏡のフチをそっと撫でながら誰に言うという感じではなく呟いた。まぁ、思い通りのものを形にするというのは難しいものですから。わたしは微笑みで返答をする。
日々少しずつ間隔が短くなっていく吐き気に耐えながら、アパートの鉄の階段をカンカンと上り、部屋のドアを開けて一人であることを再確認する。リョウタは、すでにバイトに出かけた後だ。
キャンバスを置き、絵筆や絵の具を出し、そこにある空白をじっと見つめながら思う。いろんな人がいろんな色をわたしにぶつけていった。それは初めからわたしの持っている色であったり、まったく手にする事のない色だったりする。それでも、とわたしは思う。たった1枚だけでもいい、もしも望む通りの絵が描けるのだとしたら、決して1つの色では表すことの出来ない光を描きたい。
そうすれば、わたしはきっと救われる。
わたしは真っ白なキャンバスに、パレットの上にデタラメに出した油絵の具を溶かないままで、叩きつけるようにぶつけていった。何色とも表現できない色で塗りつぶされたキャンバスをしばらく眺めた後で、わたしは訳のわかんないままで笑った。
笑い続けた。
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