いざ来ませ、異邦人の救い主よ


 イタリアの北部、アルプス山地にかかるあたりにウィパッコという小さな川があり、当時はフリギドゥスと呼ばれていた。両国の、両軍の、そして両宗教の軍勢は、この地で決戦にまみえることになる。すなわちフリギドゥスの戦いである。


 三百九十四年、テオドシウス一世の率いる遠征軍がイタリア半島に侵入。伝承によれば、テオドシウスはこれに先立ってエジプトへと巡礼に赴き、その地の苦行者から勝利の預言を授けられたという。もっとも、そんなものより重要だったのは彼の麾下に名将スティリコが居り、そしてそのスティリコの下に強勢を誇る西ゴート族の王アラリックがいたという事実なのではあるが。


 一方、アルボガストと僭帝エウセビオスはローマ神話の主神ユピテルの巨大な神像を用意し、これを戦陣の中に置いた。ローマの神々というものはそもそも、国家に仕える公僕であり、信仰者の祈りと求めに応じ、現世的利益を与えるものであるとされていた。それが国家ローマ一千年の歴史を支えた支柱であった。


 三百九十四年、九月十六日。


 その前日からフリギドゥスの戦いは始まっていて、テオドシウス率いる東の軍勢は大きな損害を受け、多大な失血を強いられていた。だが、そこにもたらされたものはまさに神風と呼ぶべき奇跡であった。当地でアルプスおろしとして知られる猛烈な山風が砂嵐を巻き起こし、アルボガストの軍勢の目を覆い尽くし、そしてテオドシウスの軍勢に勝利をもたらしたのである。僭帝エウセビオスは捕縛され、まもなく処刑された。アルボガストはそれを知り、もはや逃れ得ぬと悟って自死を選んだ。


 アルボガストが用意し、自らの支柱としていたユピテル大神の像は嵐の中に引き倒された。この日、神は死に、キリスト教によって邪宗とされた古代の信仰は完全なる終焉の日を迎えたのであった。


 まだ話は終わりではない。キリスト教の勝利ののち、その後歴史はどのように展開されていったか、もう少し見ていくとしよう。


 勝利の後、テオドシウス一世はそのままイタリア半島に留まった。ミラノに拠点を置いて西の帝国の統治に当たったわけだが、まもなく病を得、翌年に没した。


 テオドシウスには二人の皇子がいた。皇兄アルカディウスと皇弟ホノリウス。アルカディウスが東の帝国、ホノリウスが西の帝国を継いだ。一般に、このときをもって東ローマ帝国と西ローマ帝国が成立したとされている。


 兄弟皇帝は二人とも暗君であったが、あえて比較するならばホノリウスの方がより愚劣であった。特に、フリギドゥス川の戦いでも活躍したゲルマン民族出身の功臣スティリコ将軍を無辜の罪で処刑させたことが決定的な致命打となり、西ローマ帝国はその後異民族の侵略を防ぐ手段を完全に喪失。政治史の上ではまだなおも数十年、国家としての体裁を維持していたことになってはいるが、自壊につぐ自壊の中で領土の喪失を重ねて、ついに四百七十六年に滅亡の日を迎えた。


 国家ローマの歴史は、一般的にこれで終わりであるとされている。大帝テオドシウスのもと創出されたもう一つのローマ帝国がもう千年ほど命脈を保ったという歴史的事実が歴然と明らかであるにも関わらず、である。


 なぜか。


 その答えはおそらく、古代ローマという文明の本質は国家形態としてのローマにあったのではなく、それを支えた人民の精神の中にこそあったからであろう。


 ローマには市民の法があった。法が市民の自由を守り、自由は、すべてのローマ人に対して、自らが自らの運命の支配者であることを保証した。ローマの真の主はローマ人であって、ユピテル大神ではなかった。


 だが、西ローマ帝国の滅亡とともに始まる、ヨーロッパの中世とはこれ即ちキリスト教の時代である。国家は寸断され、富と権力は支配者階級によって独占され、人々は土地と職業に縛り付けられ、また神の支配する正しさという鎖の中に封じられた。資本主義が勃興するまで市民精神は再興の日を見ない。そして、資本主義の勃興までには、カトリック教会の大改革と、近代国家の成立と、そして古典復古運動ルネサンスとが必要とされたのであった。


 その日、神は死んだ。そして新たな神の時代が始まろうとしていた。時に、三百九十四年の事であった。

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Gott ist todt.Gott bleibt todt. きょうじゅ @Fake_Proffesor

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