Gott ist todt.Gott bleibt todt.

きょうじゅ

我ら神なる汝を讃えん

 神は死んだ。それは基督紀元三百九十四年のことであった。つまり、はキリスト教信仰が大帝コンスタンティヌスのもと初めて帝国の公認を受けてより、約八十年ののちのことであったということになる。


 その八十年の間、キリスト教勢力に対抗して古代宗教を再興しようと試みた者が二人いた。一人は‟背教者”として後世に名高い、コンスタンティヌスの甥のユリアヌスである。この皇帝は古典文化の愛好者で、ついでに哲学趣味も齧っていたから、プラトンのようにものを考え、そしてキリスト教徒のようには考えなかった。だが、多くのキリスト教徒にとっては幸いなことに彼は信仰とは無関係な問題、つまりササン朝ペルシアとの戦いのために死を得たから、その復古的宗教事業は果敢無く頓挫した。もう少し長く生きれば別だったかもしれないが、実際の所は彼が残したものは自身の悪名だけであった。


 そこで、我々が問題としなければならないのは残るもう一人の人物についてである。


 この頃ローマ帝国は既に二つに分裂しかかっていた。つまり、イタリアを拠点とする西の帝国と、ギリシアを拠点とする東の帝国とにである。四世紀後半、西の帝国にヴァレンティニアヌス二世という皇帝が置かれた。しかし彼はまだ幼君であったために、東の皇帝テオドシウス一世の庇護下に置かれた。テオドシウス一世は子飼いの武将の一人アルボガストをイタリアに派遣した。彼はゲルマン民族に属するフランク族の出身で、もとは傭兵上がりであり、ヴァレンティニアヌス二世のもとで親衛隊長となった。


 だが、三百九十二年に事件が起こった。そのヴァレンティニアヌス二世が変死体となって発見されたのである。一説にテオドシウス一世の傀儡である自分の立場に耐えきれなかったために自殺したのであるとも言い、またもう一つの有力説としては、アルボガストによって暗殺されたのではないかとも目される。アルボガスト自身は、これは自殺であったという報告を纏め、またテオドシウス一世に対し、自分が西の皇帝たらんとすることへの許可を求めた。


 テオドシウスはこれを黙殺した。経ること数ヶ月、アルボガストは皇帝秘書官であったエウゲニウスを傀儡皇帝に立て、西の帝国の実権を掌握した。公的には正式な即位プロセスを踏んだ上でのことだったとも言われはするが、経緯が経緯であるから、エウゲニウスの帝位を正統なものとは見なさない史家が多い。


 いずれにせよこの一連の出来事は、政治史あるいは政軍事史の流れの中で捉える限りにおいては、この時代において特に珍しいというほどのことではなかった。しかしただ一つ問題であったのは、アルボガストという人物がいったいどういうわけかキリスト教信仰にひどい敵意を抱いていて、ユリアヌスと同様に古典宗教の再興を試みようとした、ということである。


 同三百九十二年、東の皇帝テオドシウス一世は正式にキリスト教をローマの国教と定め、それ以外の一切の信仰を禁じた。よってここに、両国の対立は決定的に不可避となった。


 統治に当たること二年、アルボガストは異教の神殿を再建し、神々の像を築かせ、ユリアヌスが為し得なかった異教再興の動きを推し進めていった。

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