運がよかった話

イゼオ

運がよかった話

 朝、いつものように、職場の駐車場の同じ場所に駐車して、私は車を降りた。

 ふと、視界の端を何か茶色いものが横切った気がしたが、私は頓着せず自動販売機で飲み物を買ってお店の中に入った。

 レジの電源を入れるため、顔を下に向けた私は凍りついた。

 

 左胸、腕の付け根のあたりに、羽の生えた蜂っぽい形状の昆虫が張り付いていたのだ。一目見てやばいと思った私は情けない悲鳴を上げた。虫で悲鳴を上げるのは、昔殺虫剤を吹きかけたゴキブリが飛んできて胸に張り付いた時以来だった。

 後先考えず、私は素手で蜂っぽい昆虫を叩き落とした。


 床に落ちた昆虫は、弱っているのか飛び立つ気配もなく、もぞもぞしているだけだった。

 私は消毒用のアルコールを手に取り、容赦なく昆虫に吹きかけた。何度も何度も吹きかけた。

 耐えきれなくなったらしい昆虫がカウンターの下に逃げ込んでも、かがみこみ、ノズルを突っ込んで親の敵とばかりに執拗に噴射した。


 やがて昆虫は動かなくなった。私はおそるおそる、用具置き場から持ってきたほうきをカウンターの下にそっと差し入れた。

 掃き出して、昆虫の正体を確かめた私はぞっとした。

 こちらを恨めしそうに睨んでいたのは、見るも恐ろしい顔をしたキイロスズメバチだった。

 テレビの危険生物特集の常連だ。そういう番組は欠かさず見ているから間違いない。

 どっと汗が噴き出した。震えが来た。

『ダーウィンが来た!』のオオスズメバチ特集を観た時の私は「スズメバチすげー!」と無邪気にはしゃいでいたが、実際身近で遭遇してみると恐怖しかない。

 キイロスズメバチでも脅威だったのに、これがオオスズメバチだったら……。

 一回1000円のスズメバチのプレミアムガチャを回したいとか言っていた過去の私に説教してやりたい。「蜂は怖いんだ。フィギュアとはいえ、飾るなんてとんでもない」と。結局売り切れていて買えなかったけど。

 それにしても、スズメバチが胸に張りついてしばらく微動だにしてなかったってどんな状況だ。蜂も私も呑気が過ぎる。


 閑話休題。

 

 先ほどまで私の胸にブローチのように張り付いていたキイロスズメバチは大量のアルコールを浴びせかけられ、今はもう動かなくなったようだが、油断はできない。スズメバチの強靭さは、テレビで観て嫌というほど知っている。

 私はきっちり5枚抜いたペーパータオルをキイロスズメバチの上に落とし、思い切り踵で踏みつけた。

 普段は一定以上の大きさの生き物を殺すのに抵抗がある私だが、この時ばかりは躊躇しなかった。本能だったと思う。冗談抜きに、やらなければやられるのだ。


 一連の戦いが終わった後、私はどっと脱力した。

 そして、改めて怖くなった。

 私は外したマスクを左胸のポケットに入れていた。

 もし、そこにスズメバチが潜り込んでいたら? そしてそれに気づかなかったら?

 もし、スズメバチが弱っていなかったら?

 もし、素手で払った際に刺されていたら?

 何か一つでも当てはまっていたら、私はおそらく病院に駆け込む羽目になっていたはずだ。

 

 そう考えると、つくづく運がよかったと思う。

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運がよかった話 イゼオ @shie0901

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